●全体主義を支える健康イデオロギー


 1949年生まれの筆者は、実は健康とは縁遠い、あるいは無関心な若い頃の記憶がある。両親も兄弟も小柄ではあったが、どちらかといえば蒲柳の質だったので、社会人になって生活のペースが変わったとたん、ぶくぶくと太り出したときには自分でも意外な感じだった。30歳になったときは、学生時代より30キロも体重が増えていた。10年も経たないうちにである。


 それでも生活習慣は変わらず、飲みに行けば深夜まで盛り場を徘徊し、必ず締めのラーメンを食べた。陸上競技選手だった高校時代、短距離ランナーだったためにコーチから「もう少し体重を増やせ」と叱咤され続けていたのが嘘のような変わりようだ。その頃、家庭内の諸事情で放浪まがいの生活をしていたこともそれに輪をかけ、ついに深夜の酒場で昏倒した。高血圧だった。


 これによって、筆者は大いに生活習慣を反省し、健康に気を遣うようになった、と言いたいのだが、実はほとんど生活の仕方には変化がなかった。しかし、以来、少し変調を感じると受診するようにはなった。不思議なことだが、受診の癖がつくと、血圧は徐々に正常に戻り、倒れることもなかった。降圧剤の服用が本格化したのは40歳を過ぎてからだ。


 しかし、周囲の人たちからは「長生きは無理だ」と言われ続けた。母が66歳で脳梗塞で亡くなり、体型や運動神経が似ていた7歳年上の従兄が、62歳でやはり脳梗塞で死去したときは、自分も60代が精一杯かなと諦観した。短命は我が一族の宿命、と。しかし、70歳を超えてもまだ生きているのである。すでに音信の途絶えた、若い頃に出会った人は、筆者のことを「もう死んだ人」と織り込んでいるだろうなと思う。


 現在、体重はさすがに減ったが、22歳のときよりまだ20キロ近くは多い。酒量は減ったが、相変わらず酒場は大好きだ。むろん、昨今はコロナ禍のおかげでその頻度は大いに減った。考えてみると、締めのラーメンは食べなくなった。ハシゴ酒もほとんどしない。家での晩酌は缶ビールで1~2本程度だ。こう述べると、自戒しているように思われるだろうが、その意識は実はない。締めのラーメンも深酒も体力的にできなくなっただけなのである。


 ということで、実は健康意識などまるで持ったことがないことに自分でも驚く。転機があったとすれば、酒場での昏倒だ。以来、受診の癖がつき、医師のアドバイスがどこかの意識にいつも潜在するようになったのではないかと思える。そうすると、健康意識はなくても健康無意識はあったかもしれないと考え直す。そんな日本語があるわけはないが。


●あくまでも抽象的な概念である「健康」


 勝手な理屈を喚けば、筆者は健康意識を持たずに来たが、健康が頭の片隅には存在し続けてきたとはいえる。しかし「健康主義」の信奉者であるはずはない。前回記したように、サプリメントの全盛時代の状況を見せつけられるにしたがって、健康主義者は世の大勢を占めることがなんとなくわかってきた。では「健康主義」とは何か。それを探ってみよう。


 医師で毒物学者のペトル・シュクラバーネクが1994年に書いた『健康禍――人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』が、今年7月に邦訳され出版された。訳者は医師で、多様な職歴を持つ大脇幸志郎氏。ここからは、この本の読書を通じて、健康主義、健康イデオロギーなど“健康”が持つ概念のあやふやさ、怪しさ、フェイク、それがもたらした市場の巨大化などを観察していきたい。シュクラバーネクに続いては、大脇氏や近藤誠氏の著書などを通じて、健康主義や健康に関する多種の標準化、その同調圧力などについて、「総合的、俯瞰的に」みていこう。


 シュクラバーネクは死の間際で書いたこの本の第1部でいきなりこう書き始めている。「健康とは、愛や美、幸福と同じように抽象的な概念であり、どんなに客観的な視点からとらえようとしてもするりと逃れてしまう」。この前提に筆者はほとんど異議を持たない。同意を覚える。というのも、実は我われはいつも健康を具体的な概念で捉えているのではないだろうかと思うからだ。自分のことだったり、家族のことであっても「健康で生きる」ということは具体的な概念である。


 シュクラバーネクは「健康な人は健康を考えない」ので、健康とは「失ってはじめて沸き起こる夢想の類いだ」とも言っている。つまり健康とは、本来、抽象的なものなのにイメージは具体化し、「病気ではない」状態という非常にシンプルな実像を傍において希求しているものなのだ。だが、やはり希求はより夢想に近いものであり、具体の中身はたいそう曖昧模糊になり、抽象へと変異することに気付かざるを得ないのである。


 もう少しシュクラバーネクの冒頭の言に耳を傾ける。「この意味で、健康の追求は不健康の症状である。健康の追求が個人にとどまらず国家のイデオロギーの一部となるとき、つまり健康主義(healthism)が醸成されるとき、健康の追求は政治的な病の症状となる。そして、極端な健康主義は人種差別を、隔離を、優生学的コントロールを正当化する。なぜなら『健康』とは愛国的で純粋であることを意味し、『不健康』とは異質で汚染されていることに等しいからである」。


●増え続ける悪徳「生活習慣」


 このパラグラフを読んだだけで、筆者は直近のいろんな事象が頭の中を蠢いているのを感じた。人種差別を政治的課題にすり替える「健康な人々の群れ」、コロナはアジア人が持ち込んだという偏見と差別意識と、それを公然化する覇権主義の大統領、ようやく認めた不妊手術のあくどさ。そしてやまゆり園事件の禍々しさ。「健康でないから」を理由にして自殺に手を貸す専門家(医師)の存在。健康がイデオロギーとして機能したとき、不健康は敵であり、排除されなければならない標的であり、その原因は根拠もなく特定して構わなくなる。


 シュクラバーネクは、悪徳とされる不倫セックス、薬物使用だけでなく、合法であるアルコール、たばこも無責任か悪徳の範疇に入りかけていること、そしてその定義はどんどん広がり、定期健康診断を受けないこと、体に悪い食べ物を食べること、スポーツをしないことまでを「悪」の範疇に入れたがっていると批判、その目的が「国民の健康」という建前になっていることに嫌悪感を示している。むろん、シュクラバーネクの主張をそのまま受け取ることに批判はあるだろう。盲目的に受け入れることは幼稚かもしれない。しかし、彼はそうした主張、批判を重ねたうえで「健康を最大化する試みと、苦痛を最小化する試みの間には千里の隔たりがある」と語る。


 健康を最大化すれば苦痛は最小化されるというのは、当然のことながら成立しない。身体的に健康が最大化されても、それゆえに孤独や孤立の苦痛が最大化している人もいる。心が満たされていても、自分の意思すら伝えられない身体的苦痛の渦中にある人もいる。後者のケースは、実際には考えにくいが……。


 シュクラバーネクがこの本を書いたのは四半世紀前だが、その後の世界は「生活習慣」という概念が裾野を広げ、「不健康」なイデオロギーは相乗し増幅しているように映る。


 筆者は主観的ではあるが、「健康で若く見える」ことが幸福とは思わない。健康でも若く見えない人はいるし、若く見えるが病に苦しむ人もいる。


 健康がイコール幸福だという単純なロジックは信じない。しかし、世界はその単純さに舵を切ろうとしているのではないかと危惧する。全体主義に向かう方便に「健康」や「生活習慣」が使われることを危惧する。コロナが収束しても、「生活習慣」を見張る自粛警察が跋扈するのを予感している。(幸)