「学術会議問題」が沸騰している。周知のように、日本学術会議が推薦した105人の会員候補のうち、6人が任命されなかった問題である。政府は、任命しなかった理由を「俯瞰的に判断した」としか語らないから、問題が拡大するのも当然だ。新聞、テレビが「6人が安保法制など政府の方針に反対したからではないか」と伝えているが、6人が社会科学系であり、政府に批判的発言したことが共通しているだけにその通りだろう。
騒ぎになった初期に、テレビであるコメンテーターが「今回はどういうことかわかりませんが」と前置きしながら、こう語った。「学術会議は諮問機関でもあるが、今まで政府の諮問委員会では諮問された問題に反対する人がごく少数のことが多い。主張の違う委員の人数を平等にして双方の話を聞く体制になっていないことが多い」。
そもそも政府の諮問機関となっているのだから、政府方針に反対する人を学術会議の会員に任命しないことがあっても当然だと、暗に受け取れるような話を語っていたが、これは少々乱暴だ。むしろ、大概の諮問委員会では政府方針に賛成の人を多く委員に迎え、政府方針通りの答申が出るように仕向けていると多くの国民は感じているのではなかろうか。だいいち、学術会議はひとつの問題に対して意見を求める諮問委員会とは異なる。自ら問題を提起したりする科学者の団体である。政府から諮問されたこともない。諮問委員会と比較すること自体が視聴者を混同させている。
混同させると言えば、与党側から「学術会議の候補者の推薦方式に問題がある」「政府の機関なのだからあり方を検討すべきだ」といった意見が飛び出し、問題のすり替えだとの批判が出ている。政府・自民党は学術会議のあり方で押し通す算段のようだが、これは明らかな問題のすり替えである。
週刊誌は新聞に比べ訴訟を起こされることが多い。発刊のテーマに「臆せず、怯まず書く」ということを基本にしているからだが、抗議でも訴訟でも問題をすり替えて批判されることも多いし、また自らすり替えて批判を押し返すことも多いから、この手のすり替えには慣れている。政治家も往々にして論点をすり替えるのを商売にしているから、今回も早速すり替えに走ったのだろう。学術会議のあり方は、たとえ、おかしな部分があったとしても、学術会議自身が考えて決めるべきだろう。会員は子供ではないのである。
もうひとつ、おかしなことは政府・自民党から「学術会議には税金から10億円を出している」という声があった。反論するわけではないが、では、森友学園では政府は国有地の売却で8億円もの値引きをした。こちらは国民の財産を安売りした行為で、税金から10億円を出資したか、資産を8億円減らしたかの違いである。8億円には目を瞑るが、10億円は問題だということなのだろうか。
この学術会議問題では菅義偉首相は数社の記者との会見で、「105人の名簿は見ていない」と語ったことから、菅首相が見る前に杉田和博官房副長官が6人を除外したことが明らかになった。さらに、官房長官は「首相には99人の名簿の下に105人の推薦名簿がつけられていた」と語っている。どちらも問題を起こしたのは首相ではなく、その前の話にして首相には問題がない、ということにしようというのかもしれないが、この発言から杉田副長官が6人を除外したキーマンになっている。
首相から意見を求められ、6人除外を推奨したというのならまだわかるが、官僚のトップに位置する杉田副長官が勝手に6人除外したというのは問題になっても仕方がない。杉田副長官なり、首相が自ら6人を除外した理由を説明すべきだろう。政府が「10億円の税金を支出している」という通り、税金を使っているのだから、やはり、きちんとした説明が必要だ。
そもそも、杉田氏が官房副長官にいることも気になる。杉田氏は警察庁出身で内閣調査室長を経験した人物だという。以前、内調と接触したことがあるが、実に細かく調べ上げている組織である。誰もが素通りしてしまうような新聞の10行程度のベタ記事から、どういう人物がどういうことをしているかを抜き出して動静を聞き出している。
例えば、中国の人民大会堂の内部の間取りにも、事実かどうかは不明だが、精通しているのだ。海外に出掛けない内調がどうしてわかるのか聞くと、何人もの中国からの帰国者から聞き出した話をつなぎ合わせて間取りを組み立てるのだそうだ。こうした新聞のちょっとした記事から誰も気付かない問題点を洗い出して首相に進言するのだそうだ。むろん、政策に取り上げるかどうかは首相の裁量だ。
こうした内調は必要だが、中身はいわばインテリジェンスである。この内調のトップを経験した人物が官房副長官という官僚のトップに座るというのはいかがなものか。国家安全保障会議のメンバーに入るのは頷けるが、官僚のトップとして首相に進言するのはスパイのトップを側近にするのと同じだ。反対する者は力ずくで押さえつけるような警察国家になるのではないか、という不信が湧き起こる。トランプ大統領と似ている。
安倍晋三前首相以来、こうした力ずくで反対を押さえつけるという姿勢が顕著になったような気がする。かつて田中角栄首相の金脈問題を取材したとき、自民党の中からも匿名だが、多くの批判者がいて協力してくれた。ある有力県議に「同じ自民党なのになぜ田中首相に批判的なのか」と聞くと、「われわれは保守本流だ。角さんは対立している社会党(当時)と手を握って利益誘導した。ケシカラン」というのだ。
戦後の保守である自民党には吉田茂元首相から始まる「戦後保守」と、岸信介元首相の流れを汲む「復古主義の保守」があるように思える。岸元首相はA級戦犯になったが、首相時代のある秘書によれば、終始、「あの太平洋戦争は起こるべくして起こったものだ」と言い、軍国主義が起こしたものではない、戦犯にされたのはおかしい、とこぼし続けたという。その岸派が福田派になり、福田赳夫首相の後、森喜朗首相、小泉純一郎首相、福田康雄首相、安倍首相と首相を輩出し続けた。安倍首相は岸元首相の孫であり、最も可愛がられたという。岸元首相の復古主義に影響され、それを菅首相が受け継いだのだろうか。復古主義の保守だからこそ反対には力づくで押さえつけるという挙に出ているのかもしれない。
加えて、インテリジェンスの人物を官僚のトップに据える発想、そしてインテリジェンス出身者の発想を重用する姿勢に一抹の危惧を感じる。なぜなら反対者の意見に耳を傾けないからだ。民主主義とは反対者の声を聞きバランスを取ること。国会で反対する社会党に「バカヤロー」といって国会解散に至ったこともあるが、それでも反対する者の意見を聞く度量を持っていた吉田茂に始まる戦後保守とは異質のように感じる。
というのも、民主主義の歴史を辿ると、産業革命後、貧富の差が広がり、労働者の不満が大きくなり、共産党が登場。マルクスは「ヨーロッパに妖怪が現れた。皇帝もツアーリも恐れ戦いている。共産主義という妖怪に」と書いている。そのとき、資本主義は労働者への配慮、市民の生活を大事にする福利厚生に舵を切ることで、今日の民主主義に発展、マルクス主義を過去の遺物にしたのである。むりやり反対者を押さえつけることは資本主義、民主主義の発展を阻害する行為である。唯物史観を持ち出すわけではないが、反対者がいてこそ、民主主義の発展がある。
もちろん、衆愚政治よりひとりの賢人の政治のほうが人民のためによい、という意見もあろう。菅首相はそんな賢人なのだろうか。(常)