先週に引き続き、主要週刊誌が共通して取り上げている話は、神戸連続児童殺傷事件を引き起こした「元少年A」による手記『絶歌』をめぐる騒動だが、率直な感想として、どの記事にもさほどインパクトは感じられなかった。 


 最も踏み込んだ取材をしているのは、やはり文春で、Aが医療少年院に入っていた時代、“親代わり”に親身にかかわった女性精神科医や男性の法務教官が存在したことを明かしている。こうした関係者の長年の努力で、Aは少しずつ喜怒哀楽を示すようになったが、にもかかわらず今回、遺族の気持ちを踏みにじり、手記を刊行したことに、担当精神科医は「出版社にそそのかされ印税収入に目がくらんだのだろう」「大バカ野郎だ」とショックを受け、周囲に怒りを示したという。 


 週刊ポストは『醜き「中年A」が15年前に書いた“恥ずかしい小説”』と題して、かつて医療少年院で講師として作文の指導をした童話作家の証言を掲載している。それによれば、この作家は、18歳当時のAから自作の短編小説を手渡され、感想を求められたという。『愛想笑いに手には名刺を』というタイトルの作品は、誤字が多いうえ内容もわかりにくく、それに比べると今回の『絶歌』には格段の進歩が見られるのだが、自己愛や自己陶酔が目立つ点は同じだ。 


 このため週刊現代では、ジャーナリストの青木理氏が、Aは表現者として作品を世に問うことにした以上、「実名で書くべきであった」とし、新潮でも評論家の呉智英氏が同趣旨のコメントをしている。 


 一連の記事に目を通した“収穫”をあえて挙げるなら、どの記事にも触れられている「サムの息子法」という米国法を知ったことだ。アメリカでは、犯罪者が自らの体験で本を書き、利益を得ることを防ぐために、被害者や遺族が、この手の刊行物が出た場合、印税を差し押さえることができるようになっているという。 


 さて、筆者は3週間ほど前から、沖縄に滞在中であり、本コラムも出先で書いている。昨日から今日にかけ、こちらでは百田尚樹氏の自民党勉強会における「沖縄の2つの新聞はつぶさなければならない」という暴言が大々的に報じられている。 


 安保法制や沖縄問題に触れるたびに思うことなのだが、リアリストを自認するタカ派論者たちの議論は、「戦争のリアル」とはほど遠く、机上の空論を勇ましく語っているだけに感じられてならない。県民の4人に1人が地上戦で落命した沖縄とは、その点が決定的に異なる。例えば“決死の肉弾攻撃”は決して神風特攻隊の専売特許ではなかった。沖縄では、数多くの10代の少女が、爆弾を抱えて敵戦車に突進する自爆的な「斬り込み」で次々と死んでいったのだ。 


 軍備が意味を持つのは、敵軍を一蹴できるだけの圧倒的力量差がある場合に限られる。それ以外のケースでいったん地上戦が始まってしまえば、勝敗はどうあれ、住民は地獄の淵を彷徨うのである。沖縄で旧日本軍がなすべきだったのは、命がけの徹底抗戦でなく、1日も早く白旗を掲げることだった。 


「どこかの島が中国にとられれば沖縄2紙は目を覚ます」。百田氏は得々とそう主張したようだが、百田氏など足元にも及ばぬほど、沖縄の人はリアルに生々しく、十分すぎるほどに戦争を知っている。  


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三山喬(みやまたかし)  1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。