(1)基礎資料
鼠小僧次郎吉(1797~1832)の基礎資料は、北町奉行所の自白調書『鼠賊白状記』である。これは、国立公文書館デジタルアーカイブで無料でパソコンで見られる。『鼠賊白状記』で検索すれば、すぐ出てくる。38ページ。実に、綺麗かつ読みやすい文字で書かれているから、古文書ながら時間をかければ読める。でも、よほど、暇と関心がないと、読む気力が発生しないだろうな。
『鼠賊白状記』を諦めた人は、私もそのひとりですが、『甲子夜話』(かっしやわ)の鼠小僧の箇所を読もう。『甲子夜話』は、松浦静山(1760~1841)の随筆集である。松浦静山は、肥前国平戸藩の第9代藩主で、1806年(文化3年)に隠居し、江戸の屋敷で暮らした。そして、1821年(文政4年)11月の甲子(きのえね、かっし)の夜から執筆を始めた。正編100巻、続編100巻、三編78巻あり、各巻には20~50話の随筆があので、大雑把に言えば、約1万話の膨大な随筆集である。内容は、政治から妖怪、世俗・風俗まであらゆる分野に及んでいる。世俗・風俗に関するなかで面白そうなものの題名だけ、若干紹介しますので、想像してください。
「正編巻1の19」――「遊女七越が事」
「正編巻2の34」――「猫の踊の話」
「正編巻2の47」――「土屋帯刀裸体にて馬に乗る事」
「正編巻4の25」――「火を燃せし狐を捕へし始末」
「正編巻6の30」――「婦女の便所に行を憚(はばか)りと云う事」
「正編巻7の2」――「婦女の髪結様、時世に従て替る事」
「正編巻11の13」――「婦人の尿にして吉凶を卜する事」
『甲子夜話』は、平凡社の東洋文庫にある。大きな図書館なら蔵書されていると思う。膨大な随筆の量なので、約20冊あるが、目次がしっかりしているから、鼠小僧のところだけ読むことは、案外簡単である。
他の資料としては、同時代の文人・医師の加藤玄悦(1763~?)の随筆『我衣』など、いくつかの日記や随筆に記載があるようだ。なにせ、鼠小僧次郎吉は超有名人であったのだ。
(2)『甲子夜話』
●「正編巻43の10」――鼠小僧(盗の名)
ここに、鼠小僧が初登場する。盗っ人現役時代の噂話である。短いので、その全文を掲載しておきます。
或人言ふ。頃ろ(このごろ)都下に盗ありて、貴族の第より始め、国主の邸にも処々入たりと云ふ。然ども人に疵(きず)つくること無く、一切器物の類を取らず。唯金銀をのみ取去ると。去れども、何れより入ると云こと曾(かつ)て知る者なし。因(よつ)て人、鼠小僧と呼ぶと。
何と申しましょうか、テレビの連続時代劇の冒頭ナレーションに使用できる感じです。
●「続編巻78の5」――鼠小僧之一件
ここには捕縛され、奉行所の取り調べ中の調書の写しがある。取り調べ調書の外部持ち出しは禁止だが、世間の大関心事なので、複数の人が内密に書き写し持ち出したようだ。内密作業のため、数字等に違いが多く発生した。
「続編巻78の5」は、長文なので、要点のみ記載しておきます。
鼠と謂(い)ふゆゑは、この男小穴人の通ふべからざる処に出入し、屏壁を上り、架梁を走る等、鼠の如きを以てなり。小僧とは総じて盗を啁(ちょう)するの称なり。
※「啁する」は、あざける、ばかにする、の意味。
盗んだ金の一覧がズラリと記されている。前述したように、随所に数字の差がある。それを松浦静山は几帳面に書いてある。
一、金八両(九両)真田伊豆守
※(九両)は、八両の横に朱書きされているもので、外部へ持ち出す際に、書き写し間違いによる。どちらが正しいか、公式の自白調書『鼠賊白状記』を見ないとわからない。
一、金五両(三両弐歩)土井大炊頭
一、金百三拾両(百二拾両)上杉弾正大弼
一、金四拾両 松平伊賀守
以下、ズラリと記されているので、記載省略。
次に捕縛時のドタバタ劇。次郎吉の過去、大名屋敷の「奥」での鼠小僧関連ドタバタ劇。
次いで、また、盗んだ金の一覧。
●「続編巻81の1」――鼠小僧異聞
これは、3話のみで、すべて鼠小僧である。「続編巻81の1」は、9つの鼠小僧異聞が記されている。
そのひとつを、現代文にして紹介しておきます。
ある大名の「奥」に忍び込み、縁の下に3日隠れていた。このとき、お殿様が愛妾と酒宴をしていた様子、正妻の名、後宮の微事を密かに覗きみて覚えていたことを、奉行所にて、その大名の留守居役の前にて明細に白状し、あわてた留守居役が赤面した、という。
●「続編巻81の2」――同引廻之話 獄門首の容躰
8月19日、能を見に行く途中、駕籠かきが「引き回しが来る。どうしましょうか」と問う。予は「少しも苦しからず。こんなことでもないかぎり、引き回しを見ることができない。このまま行け」と命じた。日本橋まで来たが、引き回しが来ない。見物人は大勢いるのに、まだ来ない。予は駕籠かきに「罪人は如何なる者か」を見物人に尋ねさせた。見物人は「鼠小僧です」と言う。予は手を拍って喜んだ。今、鼠小僧の原稿を書いている最中だ。千載一遇だ。待って見るぞ。しかし、待てど暮らせど、ついに逢えなかった。
帰宅後、千住で刑されたと聞く。獄門の様子を見にやらせた。
獄門首の容躰
一、平顔にて円き方肥肉の方
一、色白の方
一、うすあばた有り
一、髪うすく月代のびゐたれど目だたず
一、眉常人より薄き方
一、目は小さく見へし
一体見たる所、悪党の顔色柳も無く、いかにも柔和に人物好く、職人体に見へし
そして、千住の獄門の見物人の噂話が、いくつか記されている。さらに、後日知った噂話が記されている。あえて言えば、好意的な噂話ばかりである。
●「続編巻81の3」――鼠刑せられし即日、奉行所より留守居呼有て、渡されし書付。
これは、要するに判決文である。
なお、「正編巻43」は平凡社東洋文庫『甲子夜話3』に、「続編巻78」「続編巻81」は平凡社東洋文庫『甲子夜話続編7』に、収められてある。
(3)盗っ人になるまで
鼠小僧次郎吉は、捕縛され、北町奉行所で取り調べを受けた。その自白調書『鼠賊白状記』(そぞく・はくじょうき)に生涯が詳しく記録されている。
現役の盗っ人の頃から、「噂の人気者」だったので、世間は「鼠小僧はどこの誰だろう?」「どこの大名屋敷から、どれだけ盗んだのだろうか?」と大関心事であった。捕縛後の取り調べ情報が、奉行所の役人から内緒で漏れ伝わって、そのたびに世間は「へぇー」「ホォー」と唸った。現代ならば、テレビのワイドショーは、連日、鼠小僧特集であった。
1797年(寛政9年)に生まれる。父親は、新和泉町(現在の日本橋人形町)に住まいし、職業は「歌舞伎芝居出方」であった。新和泉町の隣町に歌舞伎の中村座があり、その雑用・トラブル処理など何でもこなす便利屋であった。
当時の中村座の座長は12代目中村勘三郎。
まったくの余談ですが、18代目中村勘三郎(1955~2012)の長男が6代目中村勘九郎です。平成・令和の時代にあっても、歌舞伎界の血統重視、家柄重視に違和感を覚えるのですが、所詮は「カブク=変わり者」「封建的伝統と密着した演劇」と軽い感じで、気にもとめないでいるが……。一応、歌舞伎界の家柄は、現代では以下のようになっているようです。
最上位――市川團十郎家(成田家)
名門―――尾上菊五郎家(音羽家)、松本幸四郎家(高麗屋)、中村勘三郎(中村屋)、坂東三津五郎家(大和家)、中村歌右衛門家(成駒屋)、片岡仁左衛門(松嶋屋)
歌舞伎界の家柄と役者の実力は、イコールではあり得ない。やはり家柄に関係なく実力本位の世界に脱皮してほしい、と思ってしまう。
さて、本筋に戻して。
要するに、次郎吉は、江戸の歓楽街のド真ん中で生まれ育ったのである。
10歳のとき、木具(きぐ)職人の弟子に出された。数年の修行をして、木具職人として独立した。商家や武家屋敷に出入りし、木具の修繕をした。自然と商家・武家屋敷の内部を見知ることになった。そうこうするうちに、遊びや博打が好きになり、盗みの道へ一直線。
(4)大名屋敷の「奥」専門
次郎吉の盗みは、1823年(文政6年)2月、26歳頃から始まった。
1825年(文政8年)2月に逮捕されたが、ウソが通用して、賭博罪で犯罪印の入れ墨、江戸追放となった。しかし、江戸へ舞い戻り、犯罪印の入れ墨の上に、雲竜の入れ墨をして、犯罪印を消した。そして、1825年(文政8年)7月、盗っ人再開。
1832年(天保3年)5月に現行犯逮捕され、3ヵ月間の取り調べ後、8月に市中引き回し獄門となった。
次郎吉は大名屋敷の「奥」専門の盗っ人であった。
貧乏人の長屋、用心の薄い商家に盗みに入っても、盗む金がない。金がいっぱいある商家は警戒厳重である。その点、武家屋敷は塀を乗り越えれば、内部はガランと広大である。とりわけ「奥」は、女性しかいない。
江戸時代では,大名・旗本など大身の武家の屋敷は,当主を中心として家政処理や対外的応接などを処理する「表」と、当主の妻を中心に子女たち家族が生活する「奥」とが明確に区別されていた。
もし、「奥」で見つかっても、女性しかいないので、たやすく逃げられる。しかも、大身の武家は、盗難にあっても、対面を重んじて奉行所へ被害届を出さない。現代でも、金融機関などは、内部の不祥事は信用失墜を心配して内々で処理しているようだ。そんな理由で、次郎吉は、大名屋敷の「奥」専門の盗っ人となった。
(5)現金主義
「奥」には、高価なかんざし・櫛・鏡・衣装などがたくさんあるのだが、次郎吉はそれらには一切目もくれず、現金だけを盗んだ。物品は、質屋・古道具屋などで現金化しなければならず、頻繁に物品を持ち込めば、当然、「盗っ人らしい」と疑われる。もちろん、盗品売買専門の故買屋もあるが、故買屋は、盗っ人の弱みにつけこんで、二束三文で買うのが常識であった。故買屋だって、江戸で盗んだ物品を江戸市中で販売したら、すぐバレるから、遠い地方へ転売する。必然的に故買屋のシンジケートが形成される。村外れの一軒家が、数年で資産家になった場合、それは故買屋シンジケートになったからと推測される。
それでは、鼠小僧は、どれだけ現金を盗んだのか。
次郎吉は、1823年(文政6年)27歳~1832年(天保3年)36歳の9年間に、122回の犯行、3121両である。これは、あくまでも取り調べ結果で、本当は、もっと多いと思われる。奉行所の役人だって、途中から記憶があやふやな事件は面倒になって省略した可能性がある。調書に記載するには大名屋敷へ連絡したり、大名屋敷のしかるべき人物の説明を受けたりで、大変なのだ。どうせ、判決は、市中引き回し獄門に決まっている。
年平均は[3121両÷9年≒347両]となる。当時の中流庶民の年収を30両と想定すると、その10倍である。
その金は、何に使っていたのか?
(6)博打、遊郭、義賊
明確な証拠がないので、断言できることは、「博打にも少しは使っただろう」「遊郭・女遊びにも少しは使っただろう」「義賊的なことにも少しは使っただろう」ということぐらいです。
周辺から見れば、働いていないのに金回りがいい。盗っ人と怪しまれないためには、マネーロンダリング(資金洗浄)しなければならない。それには、博打である。博打にのめり込めばすかんぴんになるから、博打場へ時々出かけ少しだけ賭ける。勝てばいいし、負けても、世間には「博打で大勝ちした」とアリバイ工作になる。賭場の主催者は、口が堅いのだ。
横道に外れるが、世界的にカジノで繁栄する秘訣は、そこのカジノでマネーロンダリング(資金洗浄)が確実にできるかどうか、である。その機能がないカジノは青息吐息となる。
話を戻して、賭博の主催者は口が堅いが、吉原などの遊郭は奉行所の事情聴取に正直に応じる義務がある。次郎吉は、「獄門首の容躰」で書いたように、ブサイクな容姿ではなかった。それに、金回りもいい。だから、モテたに違いない。
遊郭で連日散財豪遊していれば、すぐ目をつけられる。だから、たまには吉原などで遊んでいても、目立つほどの豪遊はしない。女性に関しては、愛人・妾が4人いたと記録されている。逮捕以前に、離縁状が渡されていたので、連座しなかった。大名屋敷には迷惑かけたが、それ以外、誰一人として傷つけなかった、誰一人迷惑かけなかった、ということで、鼠小僧人気のひとつの要因となっている。
義賊っぽいこと、何かしたのか。
「続編巻81の1」の鼠小僧異聞のひとつに、次の話がある。
4人の愛人・妾のひとりが、盗っ人であることを悟り、しばしば意見をした。しかし、次郎吉は聞かなかった。それで、婦は暇を乞い家を去る。その後、この婦は独居して男を入れなかった。次郎吉は何を思ったか、婦の住む長屋の大家、長屋のみんなに、1年に1回以上は必ず、音物(いんもつ、贈り物)を携えて、かの独婦を心配していると挨拶していった。みな、何者だろうと不審がった。後日、大家、長屋のみんなは、あれが鼠小僧とわかった。仁か智か。
「続編巻81の2」の追記の要約。
盗っ人家業を始めた頃、ある商店から70両を盗んだ。数日後、その商店の前を通ったら店が閉まっていた。通行人に尋ねたら、数日前に70両を盗まれて、どうにもならず、店を畳むことになった。次郎吉は「さても町人の身上は朝露の如し。それを取るは情けなし」と嘆息し、その夜また忍び入り、70両を元の所に置いていった。
そして、次郎吉は思った。大名の身上は町家とは違う、これよりは、町家からは盗まず、大名家のみから盗む。(この話に対して、松浦静山の反応は次の文章)人徳慈悲を知って敬忠を知らざる者なり。ほとんど禽獣と同じ。憐れむべし。
鼠小僧次郎吉が、貧乏人に金を施したかどうかは不明だが、どうやら「心優しきき盗っ人」のようだ。
(7)仁盗の時代
時代の雰囲気の変化というものがある。葵小僧(?~1791)と鼠小僧(1797~1832)を比較してみる。葵小僧の盗賊のやり方は、残虐・強引で女性がいれば必ずレイプする、逆らえば殺すというものであった。鼠小僧は、人を傷つけず、迷惑がかからない大名屋敷から盗む。どうやら、この30年間の間に時代の雰囲気が大きく変化したのかも知れない。極度に血を流すのを嫌うようになった。武士の切腹さえも、ほとんどなくなった。その理由は、ともかくとして、盗賊の世界も、格好いい盗賊とは「残虐・強引な盗賊」から「心優しき盗賊」に変化したようだ。
そのターニングポイントの盗っ人は、「大阪の仁盗」かも知れない。『甲子夜話』の「正編巻18の13」に「大阪仁盗の事」がある。その全文は、次のとおりです。
大阪に巨盗あり。その盗常とは違(ちがひ)たるは、物を取れば必ず人に与ふ。始めは人しらず、唯恵施すると思しが、後は人稍(やや)これを知れども、己も利あることゆゑ其(その)ままにして年を経しに、次第に此道を以て家富(とめ)り。然(しか)どもついには露顕して召捕(めしとら)れたりしに、赦免を請出し者ことに多かりしとなり。世をこれを称して仁盗と云しと。
この盗っ人の家業は、質屋で奉公人も多くいた。貧しい人には質草も取らず無利子で貸していた。逮捕される直前には、債権債務の証文類をすべて焼き捨て、逮捕後に貧乏人が借金の取り立てにあわないようにした。そんな人物だから多くの人から助命嘆願がなされたが、処刑された。多くの人々が供養に訪れた。1803年(享和3年)のことであった。この実話は、さっそく江戸市村座で歌舞伎「花雲曙曾我」というお芝居になった。
『甲子夜話』の「正編巻22の20」に、もうひとりの「仁盗」が登場する。この盗っ人は、盗んだ家に後日、次のような手紙を投げ入れるのである。
私は金持ちから借りて貧民を救うことを多年にわたって行っています。返済は必ずいたしています。そのお陰で50歳になりますが、逮捕されることもなく暮らしています。貴殿のお家からお金を借りたのは私ですから、どうか他の人に疑いを持って行かないでください。倉田吉右衛門
盗んだのではない、無断でお借りした。借りたお金で貧民を救済しています。必ず返します……というわけ。心優しき盗っ人ですね。
どうも、1803年(享和3年)の「大阪の仁盗」以後、続々と「仁盗」または「仁盗らしき盗っ人」が出現したようだ。鼠小僧次郎吉も、そんな盗っ人だったと推測する。
そして、歌舞伎の世界は、仁盗=白波ブームとなる。白波五人男の日本駄右衛門の「盗みはすれども非道はせず」へと昇華していった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書