●生活習慣のルール化が呼び込む息苦しさ


「健康自粛警察」がコロナ禍の中で跋扈している。先日は、マスクのつけ方をめぐって電車の中でいざこざがあったことが報じられた。過剰な嫌煙活動に象徴されてきた同調圧力を武器にした監視が、コロナ禍の中で公然化し始めているのを感じる。


 前回、ペトル・シュクラバーネクが著書『健康禍』の中で、悪徳とされる不倫セックス、薬物使用だけでなく、合法であるアルコール、たばこも無責任か悪徳の範疇に入りかけていること、そしてその定義はどんどん広がり、定期健康診断を受けないこと、体に悪い食べ物を食べること、スポーツをしないことまでを「悪」の範疇に入れたがっていると批判していることを伝えた。シュクラバーネクの嫌悪感は、その目的が「国民の健康」という建前になっていることであり、また国家的にはイデオロギーとして正当化されているという主張にも拡大している。


 国家のイデオロギーとして成立しているかどうかはともかく、日本では同調主義を基礎とする「世間」が健康観でも幅を利かせているのは概ね正解だと思う。しかし、この流れは欧州や北アメリカでも否定できないところに進んでいるようだ。タバコも、アルコールも害であり、定期健診を受けない人の人権は甚だしく蹂躙されても、文句は言えないような景色が先進国では進んでいるようにみえるし、それはまず間違いない。


 どうしてこのように「健康主義」が幅を利かせるようになったのだろうか。当然のことだが、その直接的原因は「経済」だ。先進国では、安全な水、空気など、総合的な衛生環境の確保といった改善が20世紀後半から急速に進み、それによって感染症や寄生虫による疾病の激減、所得の増加に伴う栄養改善による身体管理の進捗などによって一定の寿命の伸長がはかられてきた。


 むろん、皮肉なことだが現在のコロナ禍が示すように、先進国の経済的膨張は途上国も巻き込んだグローバリズムの進展をもたらし、パンデミックの驚異的な拡大速度にもつながった負の側面はある。21世紀に起きたSARSやMERSで世界は学習し、パンデミックへの認識は共通化していたはずだが、その準備はおそろしく緩慢だったことは新型コロナウイルス感染で立証された。「健康主義」はイデオロギーとして確立しかけているが、それは、それこそ「自助」に任されており、「公助」はこと感染症に関しては「思想」として権力者に確立されていなかったことは図らずも立証されたと言える。


 今回の新型コロナウイルス感染というパンデミックは、「グローバル経済」には深刻な打撃を与えるだろう。リーマンショックを超えるか超えないかなどの議論はもう必要はない。たぶん、1920年頃の世界大恐慌に匹敵する。


 だが、実は主に先進国では健康主義は経済を支えるイデオロギーだった。それは成長を支えるエンジンであり、市場を形成するコアである。すでに米国では市場経済の最大のウエイトは医療だと言われている。健康主義は、資本主義、マルクス主義と同等に経済を支配する有力な武器になり始めている。


 むろん、人々は自らの健康を支えるために、豊かな食事、正しい居住環境、衛生環境、受診機関の充実を求める。逆に健康を脅かすものとして、乱脈なセックス、タバコ、アルコール、麻薬、健診の未受診、肥満、運動不足などがやり玉に挙がってきたと言える。


 これらはいずれも、経済的にはネガティブな消費につながる。医療費の増加、モラルとしての社会的リスクの増加を抑止するための財政支出の増加など。ことにそのなかで、順調な経済成長を妨げる因子として人々の関心の中心は「高齢化」だ。高齢者の増加は福祉サービスの支出増加を求める。医療費を使わない健康な高齢者が増えれば、福祉支出増は避けられ、それは増税の回避につながり、国民生活の豊かさを保障する原動力となる、と現在は信じられている。


 かつて日本は、政府も医師会も世界長寿国としての日本を、諸手を挙げて自慢していた。日本医療の勝利だと言わんばかりだったが、高齢者が増え、高齢者医療費支出が増加すると、そんな長寿への祝意感情は消し飛んだ。メディアの変心などは見事なものだ。かつては、100歳以上の高齢者が発表されると祝賀ムードに溢れていたのに、現在では100歳以上は7万人を超えたなどと冷ややかムードだ。変わって、日本人の心を占め始めたのは、健康長寿と尊厳死。もうあと少しで、安楽死が善的なものとして肯定され、同調圧力となる。10年はかからないだろう。


 健康をネタに、それに反する行為を同調圧力的に自粛警察として取り締まるのは、たぶん現時点では「強請り」だが、そのうちそれは常識になる。不健康で病気ばかりし、寝たきりとなる高齢者の場所はなくなるだろう。寝たきりの人は、一般人によって人工呼吸器が外されれば殺人になるが、医師がやれば医療的措置として犯罪にはならないという段階は目前に迫っている。そのステップを超えれば、医師でなくても人工呼吸器を外せるようになる。


 しかし、経済で健康主義を説明すると、現段階では角が立つ。シュクラバーネクは、「西洋の政府の関心は現在、『国民の健康』に向けられている。その関心は経済学の言葉で言い表せる。ただし高齢者の福祉が経済的に有益であるという証拠はない。高齢者は生産せず、医療費のかなりの部分を消費する。健康主義のイデオロギーを説明するためには明らかに経済以外の理由が必要である」と述べる。つまり、健康主義を経済学で論じたてれば、高齢者の存在を否定せざるを得なくなるというロジックの発生をみてしまう。


 そこで生まれてきたのが「生活習慣」という言葉だ。現代の「生活習慣」とはルーティンではない。ルールであり、遵守すべきものだ。タバコをやめなければほかに原因があろうとなかろうと、肺がんになったら自己責任を要求される。「自助」違反だ。アルコールと美食・飽食も糖尿病になったら自己責任。ルール違反だ。病人は生産性がない、寝たきり高齢者は生産性がない、公助を発動していいのか。時の権力者が「自助」を声高に語るのは、その次のステップに何があるのかを想像しておいたほうがいいかもしれない。


●昔の人が考えたのは「健康長寿」


 現代の健康主義というイデオロギーから発生してきた「生活習慣」という言葉はどうしてルールになったのか。すでに現在では、緩いが罰則付きのルールになり始めているのはどうしてなのか。日本でも、ルーティンとして「生活習慣」の重要性を唱えてきた識者は少なくない。高名なのは戦国時代の曲直瀬道三(1507~1594)と、江戸時代の貝原益軒(1630~1714)であろう。


 彼らが説いた「生活習慣」は、ルールではない。むろん健康主義という新たなイデオロギーを考えていたわけでもない。彼らが求めたのは長生きであり、そして2人とも80代半ばまで生きた。さらに言えば、彼らが生きた時代は、「寝たきり」長寿という概念はほぼなかったと想像できる。つまりは最初から彼らが説いたのは現代で言う「健康長寿」である。


 一方で、この時代から通底しているものに、粗食と健康というものを関連させる概念も存在することは触れておかねばならない。粗食の奨励はある意味、イデオロギーのひとつだが、健康主義と混在する場面があることは承知しておかなければならない。その最も大きな例題が沖縄の食文化の変遷と、長寿の関係だ。戦後、沖縄に何があったかをさらっておかなければ、この「健康主義」批判の土台が崩れかねない。(幸)