「発明者」主張する元院生が控訴へ

 

 実験から得られた成果は、いったい誰のものなのか。


 がん免疫療法薬「オプジーボ」の生みの親としてノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の本庶佑特別教授と、オプジーボを製造販売する小野薬品に対し、京大の元大学院生の男性が17年8月に訴訟を東京地裁に起こした。院生だった頃にオプジーボの「根幹」と言える実験を成功させたにもかかわらず、「発明者」のひとりとして認められなかったという訴えだ。


 訴訟で原告は、発明者として認めることとオプジーボに関わる特許権の一部を請求。しかし、東京地裁は今年8月21日に彼の請求を全面的に退ける判決を下した。敗訴の連絡を受けた原告は、本紙取材に「(主張が)ほとんど認められず、納得いかない」とコメントした。原告は判決を不服とし、東京高裁に9月1日に控訴。引き続き本庶氏らと争う構えだ。


 原告はすでに京大を離れ、現在は別の大学で研究職を続けている。なぜ、彼は訴訟を起こしてまで発明者であることを訴えるのか。また、本庶氏側はどのように反論したのか。3年間にわたる訴訟記録から経緯をたどる。

 

「本庶研」と「湊研」

 

 本庶氏がノーベル賞を受賞した研究内容は「PD-1」という免疫細胞に発現するタンパク質についてだ。92年に本庶氏の研究室(本庶研)が発見し、機能を解明したことで、やがてオプジーボの開発につながった。


 オプジーボは免疫細胞にあるPD-1が、がん細胞にある「PD-L1」という別のタンパク質と結合させないようにしている。というのも、これらが結合してしまうと、免疫細胞の力が抑制されてしまい、がん細胞を攻撃できなくなってしまうからだ。


 これまでの抗がん剤は、がん細胞を直接攻撃するものだった。しかし、オプジーボはがんを直接攻撃することなく、免疫細胞の力を取り戻してがんを治療するという「がん免疫」という分野を確立し、ノーベル賞で評価された。


 PD-1は当初、自己免疫疾患に関連すると考えられていた。一転してがん免疫での研究が大きく進むようになったのが、本庶研と湊長博氏の研究室(湊研)との共同研究だった。湊氏と言えば、京大の免疫学の権威として本庶氏と並んで名前が挙がる人物だ。


今年10月に京大総長に就任した湊氏(京大ホームページより)

 

 湊氏は京大で20年余り免疫学を研究し、今年10月には京大の第27代総長に就任した。本庶氏がノーベル賞を受賞したときのスウェーデン・ストックホルムの受賞式の会場には、PD-1の研究の功労者として湊氏の姿もあった。


 原告は、そんな本庶研と湊研の共同研究が始まった頃の00年に京大大学院に入学。もともと岡山大学工学部で細胞工学を学び、自己免疫疾患への関心から湊研の門を叩いた。湊研には助教授2人、助手1人、そして約20人の院生が在籍していた。


 原告は湊氏から研究テーマを選ぶように言われる。そこで提示されたのがアレルギーとPD-1。原告は自身の卒業研究と関係のありそうなPD-1を選んだ。


 この頃は、ようやくPD-1が自己免疫疾患だけでなく、がんと関係することが本庶研で検討され始めたとき。実は、オプジーボのような「抗体」を使ってがん細胞が小さくなることを実証した人物が、原告だった。

 

きっかけは先輩との雑談

 

 原告による研究は00年9月頃から本格的に始まった。原告が所属するグループリーダーからは、まずは2種類の免疫細胞を用いてPD-1の働きを調べる研究テーマを与えられた。


 原告は毎朝9時半頃から夜は10時過ぎくらいまで研究室にこもり、土曜日は午前中、日曜日もときどき足を運んだ。だが、2種類の免疫細胞を使った実験からは、PD-1の働きは何もわからなかった。当時について原告は法廷で、「全然うまくいかなかった」と振り返っている。


 ある日、原告が研究室から帰ろうとしたとき、同じ湊研の先輩が細胞を培養する装置の前におり、話しかけた。その先輩は「2C細胞」という実験用の免疫細胞と、「P815細胞」というがん細胞の研究をしているという。


「もしかしたら、2Cとこの〇〇(先輩の名前)さんが使っているP815の組み合わせで何かできるんじゃないか」


 先輩との雑談のなかで、行き詰っていた2種類の免疫細胞の代わりに2C細胞を使うことを思いついたと原告は証言している。この2C細胞とがん細胞の組み合わせをもとに、PD-1とPD-L1がどのように関係しているか解明しようと考えたようだ。

 

特許の「根幹」となった実験

 

 さっそく原告は先輩から2C細胞を分けてもらい、実験に取り掛かる。実験用に用意した2C細胞とがん細胞に、PD-1とPD-L1の結合を阻害する抗体を投与してみた。すると、抑制されていた免疫細胞の力が回復し、がん細胞を攻撃することがわかった。


 この結果はいわば、オプジーボの働きをフラスコを用いた小さな実験で実現したようなもの。オプジーボ創製への一歩となった。ただ、免疫細胞の回復が別の要因による可能性も拭えないと考えた原告は、その後もPD-1とPD-L1の関係性を調べ続けた。


 実験条件に合う細胞が培養できずにいたときは、古巣である岡山大の知人にメールで相談した。教えてもらった通り、普段は横向きで使う四角いフラスコを立てて使ってみたり、細胞を刺激するタイミングを変えてみたり、些細な工夫で培養はうまくいった。


 小さな実験を積み重ね、ついにマウスの実験でがん細胞を小さくさせることに成功。抗体によるPD-1とPD-L1の阻害によって、免疫細胞の力を取り戻せるということがより確かなものであることを証明した。


 一連の実験の進捗は、毎週金曜日にあるグループミーティングで報告。約2時間をかけて、約20人のすべての学生が発言していた。簡単に計算すればだいたい1人あたり5分程度。原告が実験について報告していると、だんだんと湊氏が関心を示すようになったようだ。当初の与えられた研究テーマからは外れていったものの、このPD-1とPD-L1の研究は02年3月に修士論文としてまとめることができた。


 原告は当時のことを、PD-1とPD-L1がどのような関係性なのか知りたかっただけで、がんの治療薬への応用までは想定していなかったという。原告は法廷で、「がん免疫がどうこうというような発想というものは、私自身にはなかったというのが事実」と正直に告白している。


 一方、一連の実験はオプジーボの特許に掲載され、原告は特許の「根幹を成すもの」と説明している。自らの試行錯誤によって遂行した実験結果がもとになっているからこそ、自身も発明に「貢献している」というのが原告の主張だ。

 

修士の学生だから「しょうがない」?

 

 原告による一連の実験は修士論文だけでなく、科学誌『ネイチャー』や『サイエンス』に次ぐ『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)02年の9月17日号に掲載された。


PNAS論文には原告が実施した実験データが並ぶ


 ところが、想定外のことが起きる。原告が実施した実験データを中心にまとめられた論文にもかかわらず、論文の著者として最初に書かれていた名前は、原告ではなかったのだ。1番目は本庶研に所属する別の院生で、原告の名前は2番目だった。


 確かに論文はグループリーダーが英文で書き直し、論文の最終的な責任は湊氏が負う。原告と本庶研の院生に対し「2人は等しく貢献した」という注釈があったものの、最初に名前が載らなかったことに原告はショックを受けたようだ。


 当時はグループリーダーから「修士の学生だからしょうがない。博士課程に行ってからは、本庶研とは違う別の研究内容で論文を書こう」と慰められたという。そして、原告はその理由について法廷で「湊研で出した研究の成果というものが、本庶先生の研究成果とみなされるということだと思います」と話した。


 その後、原告は博士号もPNAS論文を根拠論文として取得。05年、京大大学院を修了し、別の大学へと移った。一方、原告が京大に在学中の03年、本庶氏と小野薬品は原告が行った実験などを踏まえ、特許を申請していた。原告がこのことを知るのは、10年以上も経ってからだった。(続く)