軽んじられた発明者に研究室の「悪しき慣行」
「どうやら本庶先生がPD-1でノーベル賞らしく2002年の論文と修士論文が対象となる可能性が高いらしいです。このような展開になるとは驚きですが、きっと科学研究とはこんなものでしょう」
14年9月、沖縄の大学で働いていた原告のもとに、京都大学時代のグループリーダーからメールが届いた。京大の本庶佑特別教授がノーベル賞受賞の候補に名前が挙がっているため、原告の実験ノートや修士論文が必要だという。
「もしノーベル賞になったらストックホルムには連れて行ってもらえるでしょう。最近、本庶先生は(ウェブURLの記載)このスライドを使ってよく講演しているようです。ちゃんと僕たちの名前も謝辞に出てきます。やった甲斐があったということになりそうです」
グループリーダーのメールからは、自分たちが一緒にノーベル賞の研究に貢献したという高揚感が伝わってくる。そこからなぜ、原告は本庶氏を訴えるに至ったのだろうか。
背景に米メルクとの訴訟
原告が京大での実験をもとに修士論文を書いたのは02年のこと。それから12年も月日が流れていた。原告は今ごろになって、なぜ実験ノートや論文を必要とするのか疑問に思ったようだが、すぐに理解する。
「事情がわからなかったのですが、ノーベル賞候補になるとは驚きです」
原告はそんなメールをグループリーダーに返すと、本庶氏のノーベル賞候補に向けて協力することにした。実家には当時の記録が残っているはずだった。
しかし、1ヵ月ほどした10月中旬頃、グループリーダーから届いたメールで、どうやらノーベル賞が理由ではないことを知る。メールにはこう記載されていた。
「僕の推測だと、ブリストルマイアーズと小野薬品と本庶先生の間でPD-1特許に関する訴訟が合って、その実験の証拠がほしいのだと思います。お金がらみなのでちょっと大変そうです」(原文ママ)
小野薬品が「オプジーボ」を発売したのは14年9月2日、原告にグループリーダーから連絡が来る少し前のことだった。オプジーボは小野薬品とブリストル・マイヤーズスクイブ(BMS)が共同開発し、最初の適応は皮膚がんの一種の悪性黒色腫(メラノーマ)。当時は薬剤費が年間3000万円を超える高額薬剤ではあったが、「完治」を期待できる治療薬として注目を浴びていた。
ただ、その一方でライバル企業との競争が激化することも予想されていた。オプジーボをはじめとしたがん免疫療法薬という新たな市場は3兆円を超えると言われ、こぞって大手製薬企業が参入。小野薬品がオプジーボを上市した2日後の9月4日には、米メルクが同じくがん免疫療法薬の「キイトルーダ」の承認を米国で取得した。
しかし、このキイトルーダに対し、小野薬品とBMSはすぐに訴訟を米国で起こす。キイトルーダがオプジーボと同じPD-1を標的とした「抗PD-1抗体」であることから、特許が侵害されたとしてメルクを訴えたのだ。
「これから10年の間に、抗PD-1、抗PD-L1抗体の売り上げは3兆3000億円になるそうです。小野としても負けられない裁判のようです。僕たちに何か恩恵があるのかどうかはわかりませんが、ここは、手伝っておかないと大変なことになりそうです」
実は、グループリーダーは原告が実験で使った抗体である「抗PD-L1抗体」を作製した人物だ。この抗体がなければ、原告が実施した実験が成功していなかったのは言うまでもない。原告に「僕が抗体を作ったのでその記録はあります」とメールし、訴訟に協力する姿勢を見せていた。
さらに、グループリーダーは京大で湊長博氏が副学長になったことにも触れ、次のように原告へ伝える。
「この裁判が終わったら、少しは就職の面倒もみてくれるかと思います。とりあえず、今は、できるだけのことはしてあげましょう」
消えた実験ノート
メルクとの訴訟では、教授である湊氏にも協力の要請があったようだ。14年10月下旬、グループリーダーはメールで原告にこう説明している。
「湊先生から連絡があって、メルクとの訴訟で、湊先生が事情聴取を受けるそうです。抗PD-L1抗体が抗腫瘍薬になるとわかったのがいつなのかが争点なのだそうです。データが、何か見つかったら教えてください」
グループリーダーは再三にわたり、原告に対して京大時代の実験資料が残っていれば送ってほしいと連絡を入れていた。というのも、湊研で調べたところ、なぜか原告の実験ノートだけが見つからないという不可解なことが起きていたためだ。原因は研究室の引っ越しをしたときや閲覧したときに紛失したなど、いくつか考えられたが、とにかく実験ノートを紛失するという研究室としてはあり得ない出来事だった。
湊氏はグループリーダーに対し、「〇〇君(原告)のノートはどうしても見つかりません」とメールを送信。当時の原告による下書きノートや日付の書いてある研究室内の発表資料がないか調べるよう指示し、資料を揃えようとしていた。
結局、実験ノートは見つからず、原告とグループリーダーは原告の論文や日付の入った実験データの写しを提供した。
「みんな自分がやったと思っている」
原告のもとにBMSと本庶氏の代理人から裁判で「証言してほしい」という依頼があったのは、メルクとの裁判が始まって2年後の16年4月のことだ。米国の裁判では「デポジション」(証言録取)という証拠開示手続きがあり、実験を行った原告が訪米して証言することが検討されていた。
原告はデポジションに協力するつもりだった。だが、デポジションに向けた打ち合わせのなかで、原告は意外な事実を知る。自分がオプジーボの特許の発明者に入っていなかったのだ。特許を確認すると、発明者に名を連ねていたのは、本庶氏と湊氏のほかに、『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)論文で筆頭を飾った本庶氏の研究室(本庶研)の大学院生、小野薬品の研究者。原告の名前はどこにも見当たらなかった。さらに、抗体を作製したグループリーダーの名前も入っていなかった。
結局、原告への聴取はなくなった。理由は不明だ。ただ、原告の裁判資料によると、原告は16年6月にグループリーダーに次のようにメールしている。
「特許申請の時には私の名前が外れているので、証言しにアメリカへ行っても、当時のアメリカは先発明主義なので私が手元にある実験ノートを提示したら特許自体が無効になり訴訟が成り立たなくなり敗訴するのではと言うと慌てた様子で少し弁護士も考えているようです」
つまり、実験をした原告が発明者に入っていないことで、オプジーボの特許が無効になってしまう可能性を斟酌したようだ。グループリーダーはこの原告のメールを受け取って30分もしないうちに、次のように返信している。
「あの頃は、特許という概念も大学では軽んじられていて、関係のない人を入れたり、重要な人を省いたりとめちゃめちゃです。僕は、あまり拘りたくないのでいわれたことだけしています」
さらに、発明者の問題について、グループリーダーはこうも言及していた。
「本庶先生も、湊先生も、小野薬品も皆それぞれPD-1は自分がやったと思っているようで、どうしようもないです」
訴訟は「多方面の影響に配慮」
原告は発明者に自分の名前が入っていなかったことに納得がいかなかった。このため、弁護士を立てて本庶氏と小野薬品に対して和解交渉を開始。だが、原告が当時学生だったことを理由に、「発明者ではない」と一蹴されてしまう。
当時学生だった原告は「発明者」として認められなかった
ついに17年8月14日、原告は東京地裁に提訴。特許の権利の一部を原告に移転することと、原告が発明者の地位にあることを本庶氏に求めた。
この裁判は、傍から見ればオプジーボによる巨万の富を狙った訴訟に見えるかもしれない。ただ請求は、オプジーボの直接的な利益に結びつく用途特許ではなく、「抗PD-L1抗体」の特許を対象としている。原告が用途特許を対象としなかったのは、ノーベル賞候補と目されていた本庶氏らに「多方面の影響に配慮した」のが理由だった。訴訟を起こしたとはいえ、本庶氏のノーベル賞受賞や小野薬品のビジネスの足を引っ張ろうというわけではないらしい。
では、提訴の理由は何か。原告は裁判資料のなかでこう記載している。
「(特許の)発明者の記載が、実際の発明者性に基づいて記載されているものではなく、研究室での『序列』あるいは好みに基づいた記載に過ぎないことが示されている。(中略)本件訴訟の目的の一つに、このような悪しき慣行を是正したいということがある」
原告が提訴した1年後、本庶氏はノーベル生理学・医学賞を受賞。本庶氏はスウェーデンのストックホルムで記念講演を行うことになる。(続く)