認められなかった原告の「貢献」
18年12月7日、スウェーデン・ストックホルムで開かれたノーベル賞受賞者による記念講演。京都大学の本庶佑特別教授は「獲得免疫の驚くべき幸運」と題した講演で、自身の生い立ちからPD-1の研究、最新のがん免疫の知見を披露した。壇上の大画面のスライドには、実験データとともに研究者らの名前と顔写真が映し出されていった。
講演が中盤に差し掛かると、本庶氏はPD-1がどのようにがん治療につながっていったか話し始めた。スライドには02年に掲載された『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)論文の引用として、原告が実施した実験が映る。ところが、そこで紹介されたのは原告ではなかった。
18年12月のノーベル賞授賞式で講演した本庶氏(ノーベル財団ホームページより)
スライドにあったのは名前も顔写真も、本庶氏の研究室(本庶研)に所属していた元大学院生。本庶氏は講演中、元院生の名前をフルネームで呼んだ。
その次に映し出されたスライドも原告が行った実験だったが、名前と顔写真は原告が所属していた研究室の教授である湊長博氏。結局、記念講演のなかで原告の名前が出てくることはなかった。同じ院生でも本庶研の元院生は紹介されたのに対し、なぜ原告の名前は挙がらなかったのだろうか。
仮説を実証した「本庶研の学生」
本庶氏は「オプジーボ」に関わる特許権の一部を請求された裁判で、一貫して「原告は発明者と認められない」と全面的に否定した。実験で手を動かしたのは原告と認めたものの、それは湊氏や原告の面倒を見ていたグループリーダーからの「指示に従い、単にこのような作業を行ったものに過ぎない」という主張だった。
それどころか、むしろ研究に貢献したのは当時、本庶研に所属していた女性の博士後期課程の元院生だと説明する。というのも、彼女のほうが先にPD-1ががん治療につながるという実験をしていたというのだ。
本庶氏の裁判資料によれば、彼女は00年頃に、マウスを用いてPD-1とがんに関する実験を開始。PD-1の遺伝子を欠失させたマウスで、がん細胞の増殖が遅くなることが示されていた。
しかも、彼女の場合は本庶氏からの「指示」ではなく、「相談」によって研究を進めたため、原告と比較して「貢献の程度がまったく異なる」とした。本庶氏は彼女を次のように評価した。
「『PD-1阻害によってがんの治療ができる』という仮説が正しいことを世界で最初に実証したのである」
彼女が発明者のひとりとなり、PNAS論文の筆頭著者の最初の名前が彼女だった理由も、ここにあるようだ。本庶氏の主張通りなら、院生であったとしても、本庶氏はしっかり研究成果を評価して発明者として認めていたことになる。
本庶氏から見れば、原告は湊氏の研究室(湊研)に所属していた一学生で、直接的な面識はない。裁判では本庶氏が法廷に立つことはなく、書面でのやり取りのみだった。
それでは、湊氏は原告をどう評価していたのか。湊研で原告がどのように実験を行っていたかを証言するため、湊氏が今年2月4日、法廷に立った。
特許申請に「名前は浮かばなかった」
湊氏は、本庶氏の代理人から湊研での研究を構想したのは誰かと問われると、こう答えた。
「私がデザインをいたしました」
そして、PNAS論文での原告の関与については、きっぱりと否定した。
「それは、ないです」
湊氏は、本庶氏の主張を裏付けるために出廷した。さらに、本庶氏と小野薬品が特許を申請したときの状況について、原告の代理人から問われて解説。誰を発明者に入れるのか本庶氏とやり取りしたときのことを、こう振り返った。
「少なくともその時点で〇〇君(原告)の名前は浮かびませんでした」
原告は、湊研の先輩との雑談をきっかけに当初グループリーダーから指示されていた免疫細胞とは別の免疫細胞である2C細胞を使うというアイデアによって、実験が成功したと公判でも証言していた。だが、湊氏はこのアイデアを本庶氏の代理人からの質問で、「グローバルスタンダード」と説明し、自身の「指示」と主張した。
一方、肝心の指示した当時の状況を原告の代理人から質問されると、「指示したはずです」「具体的に、どの場面でどう指示したかは覚えていませんが、指示しないとこのことは出てこないはずです」などと曖昧さが拭えない答え方をしていた。
修士の学生は「リトルリーグ」
さらに、原告の貢献を否定したのは湊氏だけではなかった。原告とのメールで「本庶先生も、湊先生も、小野薬品も皆それぞれPD-1は自分がやったと思っているようで、どうしようもないです」と不満を漏らしていたグループリーダーはこの日、一転して本庶氏側に立って証言し始めた。
「まず湊先生の言っていることを学生が理解するというのが不可能なんですね」
原告が実験で創意工夫していたという主張にはこう指摘した。
「本人にとっては創意工夫というのがすごいことかと思っているのかもしれませんけれども、実は、大学の教官から見れば、標準的な手法、ごく標準的にする、そういうふうな努力だったと思います」
そしてグループリーダーは、野球にたとえて原告がPNAS論文に投稿できるほどの実力になかったことを話し始めた。
「野球の世界でいくと、メジャーリーグで活躍するぐらいのレベルの論文が出るということです。しかし、一方、修士課程の学生がどれくらいのレベルかというと、リトルリーグで12歳ぐらいの生徒のレベルだということなので、これは明らかに、実はそのレベルの差があります」
ただ、グループリーダーも、2C細胞を使うように計画したときの状況については「覚えてはないです」と話した。
東京地裁は「貢献の度合いは限られたもの」
原告が自ら試行錯誤して進めたとする実験に対し、湊氏やグループリーダーは「指示した」と反論しており、客観的に見れば「言った、言わない」の水掛け論だ。湊氏やグループリーダーも言葉を濁したが、原告も、2C細胞を使ったきっかけとなる雑談相手の先輩からの証言を得られていない。
しかし、今年8月21日に東京地裁が判決文のなかで示した判断は、水掛け論とは関係のないものだった。原告が実験で使った細胞の知識や理解に乏しかったことや、その後の展望を持っていなかったことを理由に挙げ、提案したのが原告であったとしても「創作的な関与をしたということはできない」と否定。原告が訴える創意工夫に対し、「実験手技上の工夫にすぎない」とした。
被告である本庶氏側に即した判断をしたのは、原告が医学部出身ではない大学院の学生であり、技術的にも知識的にも未熟であったと認定したことが影響している。このような学生が一連の実験から論文にまとめあげるのは「容易なことではない」とし、湊氏やグループリーダーによる日常的な指導によって「初めて可能になるもの」と説明した。
一方、湊氏に対しては、研究歴が長いことや実験で使った細胞の性状を熟知していると認め、一連の実験を設計するのに「足りる経験、知識を有していた」と解説。このため、原告が実施した実験は、湊氏が「設計・構築したもの」とした。
そして、原告が発明者であるかどうかについて、「その貢献の度合いは限られたものであり、本件発明の発明者として認定するに十分のものであったということはできない」と結論付けた。
論文の引用回数の「差」
本庶氏や湊氏、グループリーダーだけでなく、東京地裁も原告が学生であることを理由に、「そんなことはできないはずだ」と学生による実験の成果を認めなかった。法廷で原告側に立って証言したのは、かつて同じ湊研に所属していた同級生ただひとりで、原告からすれば味方がほとんどいない状況だった。
それでも、原告は9月1日に東京高裁に控訴。本紙に「当時、学生の立場であったとしても、私が苦労して研究したことは正当に評価されたい」と語った。
原告の実験がもとになって執筆されたPNAS論文だが、その学術的な影響力はどうだろうか。論文検索サイト「グーグル・スカラー」によれば、10月13日時点でPNAS論文の引用数は2267回。PD-1とPD-L1の阻害によって抗がん作用が得られる代表的な論文のひとつとして引用されている。
だが、実はこのPNAS論文はノーベル賞選出の主要論文には入っていない。PD-1によるがん治療の論文として選ばれたのは、PNAS論文の3年後に書かれた論文。05年に科学誌『インターナショナル・イムノロジー』に掲載され、これまで引用されたのは432回だ。引用回数からPNAS論文の影響力の大きさがわかる。
そんなPNAS論文は、原告が実験の壁にぶつかる度に自分なりの創意工夫によって乗り越えてきたことが膨大な公判資料から読み取れる。もちろん、原告たったひとりの力で成し得たものではないが、原告の博士論文はPNAS論文を根拠にまとめられ、湊氏がその論文審査の主査を務めた。当時は、湊氏も原告の成果を評価していたはずだ。
しかし、それが裁判となり、ノーベル賞受賞者である本庶氏という権威の前で、原告の「貢献」は歪められてはないだろうか。(10月12~14日、RIS On The Web・WEB限定記事で掲載)