今週の週刊文春、『暴力団が仲介した菅内閣政務官“不倫示談”』という記事を見て、改めて沖縄の基地問題を巡る6年の歳月を痛感した。記事で標的にされたのは、衆院の沖縄1区で過去2回、共産党・赤嶺政賢氏に苦杯をなめながらも比例復活し、菅政権で外務政務官に起用された国場幸之助氏である。


 内容は、弁護する余地のない低レベルの醜聞だ。2018年4月、国場氏は地元那覇市の歓楽街で酒に酔った観光客と路上で大喧嘩、書類送検されてしまう。そしてこの騒ぎがきっかけで当夜、不倫相手と一緒にいたことが暴かれる。今回は当時の報道の第2弾だ。この女性と離婚した元夫が国場氏を相手取り、慰謝料を請求する訴訟を起こし、そのプロセスで新事実が判明した(訴訟自体は昨年12月に和解)。国場氏側は元夫氏への示談アプローチを当初、地元暴力団幹部に依頼した、というのである。


 国場氏は12年の初当選を除けば、選挙区ではその後2連敗。最近は、IR汚職疑惑で維新を追われた下地幹郎氏が自民党に復党を画策し、国場氏に代わって1区候補になろうとする動きも見せていた。自民党県連はこの画策を拒否、国場氏の地盤は維持される見通しだが、今回の文春砲第2弾により、連敗で微妙になっていた地元での立場はより一層、苦しくなりそうだ。


 私は過去、何度も本人に会い、その聡明でリベラルな姿勢には好感を抱いていた。惜しむらくは決断力、胆力に欠ける線の細さだ。今回の醜聞は本業とは無縁の私的行状だが、私が悲哀を感じてしまうのは、6年前、この若手政治家がもし違った選択をしていたなら、今頃は翁長雄志氏の遺志を継ぎ、沖縄県知事だった可能性もある、と思うからだ。


 翁長氏は知事選に出る前は那覇市長。当時、市内の自民党票は市長選では翁長氏に、衆院選では国場氏に流れていた。2人はほぼ同じ支持基盤の上にいたのである。民主党時代、沖縄では自民党も反辺野古、オール沖縄の一角を占めていた。自民党の政権奪回後、党中央の締め付けで県連はその連帯から脱落したのだが、それでも翁長氏や那覇市議会の自民党会派「新風会」は県連の“転向”に従わず、オール沖縄に残ったのだった。


 国場氏も当然、翁長氏らに同調する。支持者らはそう期待した。しかし、東京の党本部に呼び出された国場氏は、当時の石破茂幹事長に「(自分は普天間移設問題で)県外移設を堅持したい」と告げるのが精いっぱい。他の沖縄の議員らと「辺野古容認」の共同会見に出てしまい、以後なし崩し的に「辺野古容認派」と見なされるようになる。


 16年夏に翁長氏が急逝し、後継知事候補に選ばれたのは自由党衆議院議員だった玉城デニー氏。もし国場氏が翁長氏に寄り添っていたならば、知事候補の座はほぼ間違いなく、国場氏に回ってきただろう。それほどに氏は翁長氏と密接な立場にいた。県内一の土建会社・国場組の一族で、義父は右派思想を持つ元県議。そんなしがらみから、“自民脱藩”に踏み切れなかった事情もあるのだろう。文春に出た醜聞は自業自得、酒や女性をめぐる失敗だが、もし翁長氏後継となり、緊張感をもって政治に取り組んでいたならば、私生活も違っていた気がする。“保身”の選択はむしろ“破滅”へと続いていた。そんな運命の皮肉を感じてしまうのだ。


 今週のサンデー毎日は、ジャ-ナリスト・河原仁志氏の『「沖縄の歴史はわからない」と嘯く 菅政権が仕掛ける沖縄分断』という記事で、官房長官として辺野古埋め立てを強行した菅氏の沖縄締め付けをまとめている。菅首相が師と仰いだ梶山静六・元官房長官など、歴代の自民党「沖縄族」の面々は沖縄の歴史や風土を深く理解して配慮を重ねたのに、菅氏はこれを“踏襲”せず、むしろきっぱりとこの手法に背を向けた。首相就任後の振る舞いを見ても、沖縄問題がここまでこじれた責任は、安倍政権本体のスタンスにもまして、全権を委任されていた菅氏の個人的な「意固地さ」にあったように思われてならない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。