日本の精神科医療を代表する松沢病院を最後に訪れたのは、おそらく10年以上前だ。いつも、どこか冷たい印象を受ける病院という印象だったのだが、この9年間の改革で大変貌を遂げていたようだ。
『都立松沢病院の挑戦』は、松沢病院140年の歩みを振り返りつつ、改革の全貌を明らかにし、今後の松沢病院、精神科医療の未来を展望する。著者は2012年に院長に就任し、まもなく任期を終えようとしている齋藤正彦氏。大学教授などが就任することが多かった歴代院長と比べると、民間病院の院長からの転身は、異色の経歴だ。
第1章では驚くほど温かみのある雰囲気になった松沢病院に驚かされた。第2章「松沢病院の歴史と日本の精神医療」では、養育院から独立して東京府癲狂(てんきょう)院として設立された経緯から、関東大震災や第2次世界大戦など、激動の時代を経て現代にいたるまでの歴史を振り返る。
養育院からの独立時には備品として手錠が60個もあった。“精神医療の黒歴史”とも言える「優生手術」や「ロボトミー手術」も行われた時代もあった。当時の時代背景や社会情勢とともに松沢病院がどう関わったか、記録をもとに克明に描いている。
〈時代から取り残された弱者を隔離し、社会の目の届かない場所に囲い込む〉という松沢病院の位置づけは長く続いた。周囲が宅地化した1950年代には、〈「地域発展に対する絶対的な桎梏」になっているとして〉移転を求める請願書も出されたという。
本章を通じて、松沢病院の歴史を知ることが、日本の精神医療史を知ることであることがよくわかる。
第3章以降は、著者が行った改革とそれに関係するさまざまなエピソードがつづられていく。経済感覚、経営感覚、金銭感覚の欠落に関するエピソードは、民間出身者には余計に目についたはずだ。〈公務員には、およそ人件費とか時間とかいった観念がないのではないか〉〈事業を成功するための税金の無駄遣いも目に余る〉。
使う当てのなさそうな高額な医療機器(診療機器だけで1億5000万円分)、誤発注して真新しいまま保管されている椅子80脚、新築時に数百万円をかけて設置したものの不評で撤去された保護室ドアのアラーム等々、明らかになった無駄の数々が列挙されている。
民間企業なら、こうした無駄や損失を発生させれば、何らかの処分が行われたり、責任が問われたりしそうだが、そんな風土でもない。本書は、「公務員の論理」を知る格好の教科書でもある。
■驚きの問題医師の実態
公務員気質と同様に、医師にも苦労させられたようだ。医師は、インテリであり、職人であり、いつでも他に移れる“最強資格”を持つ。そもそも、統率していく際の難易度が高い。業務改善に拒否反応を示すだけならまだカワイイほうで、対応に追われた“問題医師”の所業の数々もつづられている。
「頻繁に患者の家族とトラブルを起こし、処理を医事課に丸投げする医長」「酒と一緒に睡眠導入剤を飲んで路上で意識障害に陥り救急搬送される医師」「研修に出した他の病院で窃盗事件起こして逮捕される医師」……。退任間近とはいえ、現役の院長がここまで生々しい実態を描いたことには正直、驚いた。
著者が行った改革の基本的な考え方は〈民間医療機関の要請を断らない〉〈患者に選ばれる病院をつくろう〉である。
改革の前提として著者が意識していたのは、患者や家族、職員だけではない。税金を使って運営される公的病院として、他の医療機関、福祉機関、納税者もステークホルダーとして捉えていた。
各所にアンケートなどを行い、〈行政医療として担うべきターゲットを絞り込んだ〉。民間病院では受け入れ困難な〈質、量ともに多くの医療資源を必要とする患者〉、〈経済力が低く、家族支援が期待できない社会的資源をもたない患者〉といった難易度の高い患者である。
待ち時間の短縮につながった外来の予約制の徹底や、縛らない精神医療の推進など、院内の意識改革や仕組みづくりが必要な改革も行っている。
もちろん改革には痛みも伴う。改革についていけなかった依存症病棟の医師の大量退職も起こっている。
しかし、さまざまな改革によって、松沢病院のホスピタリティーは確実に向上した。病棟稼働率は90%を超え、平均在院日数はほぼ半減。身体拘束率は20%近かい水準から3~4%に低下したという。待ち時間が大幅に減った外来初診数も1.5倍になった。
総ページは168ページと、そう厚い本でもないのだが、精神医療の歴史と今後の課題、公務員の意識改革、公的病院の経営改革、医療者のマネジメント……、さまざまな読み方ができる1冊だ。生々しいファクトが盛りだくさんで、「実録」として読んでも面白い。(鎌)
<書籍データ>
齋藤正彦著(岩波書店1800円+税)