元禄時代(1688〜1704年)の豪商、通称紀文。生没年不詳。生誕地はたぶん紀州(和歌山県)のどこか、諸説あって不明。墓も東京深川に2ヵ所、埼玉県熊谷市に1ヵ所あるが、どれが本物やら……。つまり、紀文の実像は霧の中にボンヤリしていて、どうもはっきりしない。創業成功者の父と放蕩三昧の息子の紀文2代説もあるくらいだ。でも、日本史上、商人の中で最大の大衆的人気者であることに間違いない。
とりあえず「ミカン船伝説」を。
江戸の町に、ふいご祭り(11月8日)の日が近づいた。「ふいご」とは火力を強める道具で、火を扱う職人(鍛冶屋など)にとっては、ふいご祭りは最大のお祭りである。そして、ふいご祭りには、景気よくミカンをばら撒くことが風習となっていた。
ところが、その年、悪天候が続き、江戸にミカンがまったく入荷されない。節分に豆がなければ節分にならない。ミカンがなくてはふいご祭りは成立しない。
紀州で燻っていた文左衛門、ここは一番チャンス到来、男一世一代の大勝負と決断し、命知らずの水夫を8人集めて、全員白装束の白鉢巻き、命がけの大博打。荒れ狂う熊野灘、逆巻く遠州灘……暴風・荒波に帆柱は折れ、あわや全員ミカンもろとも海の藻くずになりかけた。
あぁ、しかし、神様仏様竜神様、必死の男気が通じたか、からくも船は江戸に到着。太平の世に慣れた江戸庶民は文左衛門の決死の行動にヤンヤの拍手喝采。ミカンは超高値で即時完売。文左衛門は15万両の大金を手にして、一気に豪商となった。
沖の暗いのに白帆が見える あれは紀伊国屋のミカン船
江戸庶民は、文左衛門の快挙を歌に歌って語り草にした。
実は、これは完全なフィクションである。問題は、誰がこの伝説を創作したか、である。
当時、諸藩は藩財政を潤すために、領内の特産物を直轄にしていた。忠臣蔵の赤穂藩の塩もそうだが、紀州藩のミカンもそうである。ミカンの場合、三河や伊豆方面からも江戸に入荷されていて、いわば競争的商品であった。
どう競争に打ち勝つか。そこで、紀州藩の江戸屋敷にいた知恵者が、お抱え講釈師に、紀州ミカンのPRを依頼したのだった。講釈師は、当時すでに人気者の紀文と紀州ミカンとふいご祭りをドッキングさせ、紀文ミカン船物語を創作したのである。それが大ヒット、PR作戦大成功、「ふいご祭りには紀州ミカン」と相成った。まぁ、クリスマスにはケーキとチキン、バレンタインデーはチョコと同じようなものと思えばいい。
紀文は木材商として財を成したとする説がある。明暦の大火(1657)で、電光石火、木曽の材木を買い占めて巨利を得た、というものだが、これは河村瑞賢(江戸初期の豪商)の話で、完全な間違い。
紀文の出発点は不明だが、とにかく新興の商人になった紀文は、幕府発注の大工事を請け負うようになる。時代は5代将軍徳川綱吉の時代(将軍職在位1680〜1709)である。綱吉は、盛んに神社仏閣の建立を始めた。江戸城の金蔵が空になってしまうほどジャンジャン公共事業を実行した。
紀文は、この空前の公共建築ブームのチャンスを逃さなかった。その手段が、柳沢吉保ら幕閣要人への大接待と大賄賂であった。その頃も接待・賄賂は悪という道徳はあるにはあったが、実際は接待・賄賂が当然視されていた。その結果は、空前絶後のお大尽遊び。
さて、公共事業参入において、紀文のライバルは奈良屋茂左衛門、通称、奈良茂であった。奈良茂は、非道な悪をなして豪商となった人物である。奈良茂は日光東照宮修復工事を相場の半値で落札した。工事に必要な木曽檜の木材問屋柏木屋を、奉行と結託して策謀をもって犯罪者に陥れ、柏木屋主人は島流し、店は取り潰し、その結果、奈良茂はタダで木曽檜を獲得した。半値落札の時から策謀計画は練られていたのだ。
柏木屋は7年後、御赦免となり江戸へ戻ったが、かつての自分の店には奈良屋の暖簾がかかっていた。柏木屋は「こんな悪事が罷り通るとは、この恨み死んで祟ってやる」と断食を決行して18日後に命を絶った。
ある冬の日、紀文が吉原で雪見の宴を開いていると、太鼓持ちから奈良茂も雪見酒をしていると知らされた。「奈良茂の泣き面を見てやろう」というわけで、奈良茂の見ている雪景色の中に、小判・小粒銀を300両ばかりをばら撒かせた。遊女や通行人がワッと拾いに出て、アッという間に雪景色は土まみれ。奈良茂は苦虫を噛み潰すばかりだった。江戸庶民も奈良茂の悪行を知っていたので、「さすがは紀文のお大尽、奈良茂のヤロー、ざまーみろ」となった。
ところで、紀文のお大尽遊びの件だが、次のようにまとめることができるように思う。
➀仕事受注の接待。だから、日常生活は意外に質素だったようだ。川柳に「大きな門を材木で閉めるなり。しかるに紀文うちでは糟味噌汁」とある。「大きな門」とは吉原の大門のことで、吉原を借り切ったが、自宅では一番安い糟味噌汁で暮らしている、という意味である。
②おこぼれが庶民にも回った。千人の遊女がいる吉原を、1人で一夜千両で買い占め、大門を閉めさせること生涯に4回あった。つまり、吉原の遊女は1両もらって臨時休業である。雪見の話もそうだが、紀文の遊びには、庶民への臨時ボーナスがついて回った。
③金の流通を自分のところでストップさせず、ジャンジャン大接待・大賄賂に用いた。要するに、江戸城の金蔵の巨大な資金が紀文を通じて江戸市中に流通し、消費拡大の好景気に寄与したということだろう。紀文は明るく楽しく朗らかに金を使ったのである。
しかし、いつの日か、幕府の金蔵は空っぽになる。事実、空っぽの危険性が高まった。そこで、勘定奉行荻原重秀のウルトラ財政政策、すなわち金貨銀貨の改鋳が実行される(1695年)。金銀の含有比率を低下させたので、幕府はボロ儲けである。
新井白石は、これによってインフレとなり庶民を苦しめたと批判したが、経済の拡大に貨幣供給が追いつかず貨幣不足が顕著になっていたから、マネーサプライの観点からは合理的政策であった。
金銀貨幣の改鋳でボロ儲けした幕府は、さらに銅貨の改鋳も実行した。しかし、この新銅貨はあまりにも品質が悪く1年で流通停止となる。
この銅貨改鋳を請け負ったのが紀文で、その失敗により紀文は破産没落し、行方不明の身となった……という話もあるが、これまたフィクションである。しかし、なぜ、そんな作り話が発生したのか、それが問題だ。
少し時代が下って、紀州出身の8代将軍徳川吉宗の世(将軍職在位1716〜1745)となる。吉宗を快く思わぬ尾張藩は、なんとか吉宗の評判を落とそうと企てる。それで、ミカンの話と同じである。尾張藩の江戸家老に知恵者がおり、お抱え講釈師に吉宗評判下落PRを依頼したのだった。吉宗イコール紀州、紀州イコール紀文という方程式に従って、紀文の人気が低下すれば連鎖反応的に紀州・吉宗の評判も下落すると考えたのだ。
紀文はすでに過去帳の人ではあるが、紀州出身の最高人気者であった。お大尽の紀文と貨幣改鋳はお金絡み、改鋳に従事した職人はふいご祭りで紀州ミカンの愛用者、そんな状況証拠を根拠に講釈師は創作話を語った。それは真実、とりわけ破産没落は真実として受け取られた。
しかし、なぜか、紀文人気は衰えるどころか、ますます盛り上がってしまったから、世の中わからない。たぶん、人々は少なからず儒教的精神も持っているので、お大尽遊びで最後は没落のほうが物語としては、おさまりがいいと思ったのかもしれない。
それでは、紀文の晩年はどうだったのか。
1709年、5代将軍徳川綱吉が死去、ついで側用人柳沢吉保の隠居、それによって紀文の政商としての人脈が途絶えた。新時代は新井白石が推進する「正徳の治」である。質素倹約、公共事業激減の緊縮財政路線、儒教道徳の徹底で賄賂禁止。つまり、紀文の出る幕は完全になくなった。
そこで、さっさと深川へ隠居してしまう。引っ越しの際、千両箱が山のようにあったし、隠居所といっても広大なお屋敷だった。だから、紀文の晩年を没落とか零落とか言うのは見当違いである。時代が去れば未練なく撤退、これは時代の波に乗ることよりも、はるかに難しいことだ。時代の流れを読み切っているからこそ可能だったのだろう。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。