●経済成長が健康を保障する原則を間違えない


「健康主義」が新たなイデオロギーとして成立し始め、健康が経済的覇権を握るとの概念が常識化するのはもはや時間の問題と唱える人々が増えた。米国の市場経済が医療への影響を圧倒的に受けていることがその論拠のようだが、その渦中で日本では消えていきそうになっているのが「平均寿命」主義である。


 平均寿命は、ポジティブな意味では今や「健康寿命」のことであり、「療養寿命」とも言うべき寝たきり者は生産性がなく経済的障害者であると、堂々と言われ始めた。人工透析は救命医療から延命医療になった。人工透析の見直し論をみれば、「延命」すべきかどうかなど、もはや医療としての議論の結末は見え始めている。


 すでに安楽死の議論は始まっている、と思う。積極的安楽死と延命の中間には消極的安楽死があり、消極的安楽死は認めてもよさそうだというコンセンサスづくりが進み始めている、ようにみえる。いや、すでに「延命医療」という言葉に、延命を否定するニュアンスを含みながら発せられることが増えてきた。延命はたぶん、近い将来、否定語になるだろう。だいたい延命医療という言葉は人の尊厳について何も含んでいない。そこに医療を語るうえで好まれる「尊厳」などどうでもよくなっている。「療養寿命」の長い人は、自己責任から免れない。


 だいたい、自らの健康を支えるために、豊かな食事、美しい居住環境、衛生環境、そうした人を受け入れる適正な受診機関の充実を求めるのが正しいとする「生活習慣」ってあるのだろうか。逆に健康を脅かすものとしてやり玉にあがる、タバコ、アルコール、麻薬、健診の未受診、肥満、運動不足、乱脈なセックスなどは、果たして経済的にネガティブな要素ばかりなのだろうか。Go to キャンペーンは経済を動かすという。遊びに行って、酒を飲み、食べ、その地にお金を落としているのは生活習慣からみると真逆だ。お金と一緒にコロナウイルスもばらまいている。


 疾病はさまざまだ。すべてが生活習慣に直結しているものではない。健康な人ばかりが経済を動かしているという単純なイデオローグはこの際見直したほうがいい。


 生活習慣に正しいものがあるのかという問題提起をするには勇気がいる。「生活習慣病」と“病”という字が付くと、すべてが「正しい生活」という具体的でクリアな姿が立ち現れる。ほとんどの人が、「病」を除去するためには、自律的で衛生的で快活な生活を想像する。


 しかし、毎日晴れることはない。気候の話になると、毎日晴れるなどということは妄想であることは誰もが知っている。しかし、生活習慣だけは誰もがみんな同じことができると思っているのだ。コロナ禍でも、実はみんな外に出て遊びたいと思っていることは、最近実証されたではないか。


 そうした問題を提起しつつ、今回から正しい生活習慣に関して、沖縄県の例から考え直してみよう。沖縄は、生活習慣病排斥論者のエビデンスだ。この実態に即した論理に反論はできるか。筆者は、その根底にある粗食礼賛にどうもしっくりしないものを感じてきた。その点を眺めてみよう。


●沖縄クライシス


 筆者は2003年に沖縄県の豊見城中央病院を取材で訪ねた。目的は同病院が沖縄県で初めて開設を進めていたPET検査センターに関するものである。取材には、開設準備を進める事務方の企画担当者と、検査医療を担う核医学専門医が応じた。指定された応接室で待っていると、女性事務員が現れ、理事長室に案内された。


 比嘉国郎理事長は沖縄県医師会長も務めた沖縄県医療界のリーダー。彼は取材目的を筆者から聞くと、明らかにがっかりした様子を見せた。「てっきり沖縄の平均寿命の話かと思った」と言い、沖縄県のヘルスケアの先行きに深い憂慮を持っていることを延々と嘆いた。


 00年に沖縄県は男性の平均寿命が全国26位になった。長く1位を誇った長寿県・沖縄のイメージを覆す衝撃で、同県の行政、医療、経済界に「26ショック」という深刻な不安を与えた。その後も比嘉氏の憂慮は現実になった。17年には男性は36位まで順位を下げ、05年まで1位だった女性も7位に転落した。


 当時、比嘉氏は筆者に対し、沖縄の平均寿命順位の低落は、戦後の経済成長とともに、沖縄では革命的な食生活の変化があったこと、一方で経済成長はしても本土との成長格差が大きく、雇用のアンバランス、若者の非行化や精神疾患の増加に伴う事故の多発などの要素を説明してくれた。とくに食生活では、基地があるゆえに米国型の食生活が導入され高カロリーの食事が当たり前になったことを嘆いた。実は、高カロリー食事の普及と若年者の「貧困要因の精神不安」はリンクしている。比嘉氏の指摘は的を射ていた。


 こうした話は03年の2泊3日の那覇での取材先すべてで聞かされた。沖縄県庁では、戦前と戦後の県民の食生活について熱心なレクチャーも受けた。本土では想像できない沖縄県のショック状態にはたいへん驚かされたのだ。


●「旧世代型粗食」から「新世代型粗食」へ


 17年の男性36位、女性7位も大きな衝撃をもたらした。すでに長寿県ではないというイメージは県下に広がってはいたが、歯止めがかからないことに対するショックは大きかったようだ。この要因について調査を続けている琉球大学病院は、17年の結果を「沖縄クライシス」と命名、県下では急速にこの言葉が浸透している。


 琉球大病院の調べでも、沖縄クライシスを招いた要因は、急激な米国型食生活習慣の普及浸透、自動車生活の浸透などが肥満や糖尿病の増加につながったとされている。医療関係者には、比嘉氏をはじめ、こうした問題が早くから認識されていたことがわかるのである。


 動脈硬化予防啓発センターが琉球大病院の益崎裕章・総合診療センター長にインタビューした記事を見ると、第2次大戦直後に35歳以上だった県民の大部分は幼少期からイモを主食としていて、低カロリー・低脂肪の質素な食事だったとしている。伝統的な沖縄料理として紹介される食事内容も、富裕層がいわゆるハレの日に口にしたもので、一般的ではなかったともされている。


 沖縄県は米国型の高カロリー食が日常化していることはわかるが、本土では食事が欧米化しているとされても、沖縄ほど高カロリーが問題とされることはないように思える。ここにも基地の存在と、潜在的な沖縄の経済的格差が見える。つまり、米国型食事への傾斜は、経済とパラレルな相関で沖縄に定着しているのではなく、実態はその逆かもしれないということだ。本土的な生活習慣病意識を浸透させるには、経済格差をなくすことから始める必要がありそうなのだ。


 もっとわかりやすく言えば、沖縄の長寿は終戦時35歳以上の粗食が要因だったが、現在のクライシスもまた「現代型粗食」ではないか。


 さらにみていくと、沖縄クライシスは単に平均寿命順位が低下しているのであって、平均寿命自体はわずかずつ伸びている。寿命の延びが鈍化しているだけなのである。逆に言えば、長野など、本土の他地域の平均寿命の延びが沖縄を上回っているのだ。生活習慣を整えるにも経済の力は大きいのである。むろん、経済力が優先された結果であることは、沖縄県の「現代型粗食」でみえてくる。健康イデオロギーが経済成長を促したという証拠はない。


 そして、沖縄は本土とは違う傾向も見え始めている。平均寿命の延びの鈍化は、健康寿命が短縮化している影響という報告もあるのだ。健康寿命の短縮化は延命医療否定論者からみればよい傾向だが、沖縄の場合は65歳までに死亡する人が増えていることが健康寿命を短縮化させている。むろん、これは平均寿命鈍化の要因であり、そのことを考え合わせれば、沖縄県の状況はより深刻だと捉える必要がある。


 健康が経済成長を促すわけではない。経済成長が健康を支えるのである。沖縄の「粗食」の逆転に見え始めることを重視しなければならない。沖縄の健康を議論するには、本土並みの経済力の水準が必要なのである。(幸)