(1)誕生


 近鉄奈良駅に、行基(ぎょうき)のブロンズ像がある。なぜ、奈良駅に行基像があるのかな? 確かに、行基は平城京(現在の奈良市)でも活躍したし、奈良の大仏建立の最大貢献者である。でも、生まれは現在の大阪府堺市だし、縦横無尽の活躍した地域は、和泉国・河内国・摂津国(現在の大阪府)である。つらつら考えたが、どっちでも、いいじゃないか、と結論づけました。


 あの行基を見ていれば、「行基は、人々のため、たくさんの溜池(ためいけ)や橋を造った、素晴らしい人物だ」という、どこかで覚えた知識を思い出すだろう。毎日、それを繰り返しているだけで、少しは「他人のために尽くそう、立派な人間になろう」という気分が涌くだろう。その結果、少々無理なこじつけとは思うが、奈良県民は、東大・京大への合格者数は全国で1~2位、世帯主収入は全国で2~3位、飲食店・麻雀店の数は全国最低である。


 むー、ということは、勉強一筋、真面目、遊ばない……なんか、面白くないな~。心配なさるな、ちょっとだけエロ話も書きますから……。


 なお、行基の像は、各地にあります。

 

 行基(668~749)は奈良時代(710~794)に活躍した僧です。


 出身地に関しては、河内国と和泉国で混乱しています。河内国から和泉国が分離したのが、716年なので、行基が生まれた年を重んじれば河内国出身になるし、和泉国が誕生以後の歴史を重視すれば、和泉国出身になります。


 大雑把に言って、大阪府の東側が河内国で、西側が和泉国である。イメージするなら、大阪湾の東が和泉国、その東が河内国、その東側は生駒山地・金剛山地となります。


 生誕の地は、堺市西区家原寺町にある家原寺(えばらじ)がある地である。行基が誕生したときは、むろん民家でした。704年(行基37歳)のとき、生家を神崎院(家原寺)にした。院とは、お寺ではなく、道場を意味します。


 家原寺の歴史は栄枯盛衰そのものです。平安時代には朽ち果てたが、鎌倉時代に再興され、再び衰退し、江戸中期に盛り返した。しかし、明治の廃仏毀釈で荒廃し、山門の仁王像は外国人美術商に売却された。その仁王像はワシントンの某美術館に収蔵されています。しかし、家原寺は、昭和後半から平成にかけて、またもや盛り返した。「行基」の名は、偉大なり。


 行基の父は、百済から渡来した王仁(400年前後)の系統で、母もまた百済系渡来人の系統である。王仁に関しては、『昔人の物語第20話 王仁』をご参照ください。


(2)修行すれども、「悩み」はてなし


 682年、15歳、出家(得度)する。


 691年、24歳、受戒し、比丘(正式な僧)になる。


 当時は、国家と離れて、出家(得度)、受戒できなかった。それゆえ、「狭き門」であった。貴族社会の出世は家柄・家系が絶対的です。出家の場合、家柄・家系も重要だが、本人の能力・学力の比重が重くなる。そんなことで、中流・下級貴族で優秀な子供は「出家」の「狭き門」をめざすのである。


 15歳から24歳まで何をしていたか。金剛山地の簡素な山寺である高宮寺(今は跡地のみ)で、仏典・戒律の勉強と並行して山林修行という苦行修行をした。


 同じ頃、金剛山地では、役小角(えんのおづぬ、637伝~701伝)が山林修行をしていた。役小角は、修験道の開祖とみなされている。役小角は病気治療をなす呪術師であった。呪術による病気治療は今日的表現を用いれば「先進医療」であった。呪術を極めるための山林修行であった。役小角は、多くの伝説が付加され、いわば超能力者とみなされるようになった。


 修験道に関して一言。イメージは山伏である。日本古来の山岳信仰と仏教が合体したものであるが、明治になって神仏分離令・廃仏毀釈で修験道は禁止された。一部は教派神道に流れたが、あらかた消滅した。ただ、昨今の自然ブームで、修験道復活の兆しもある。


 行基と役小角の金剛山地での山林修行の拠点は3~4㎞しか離れておらず、2人は出会っていた可能性もある。出会っていたとして、どんな会話がなされたか……。役小角は呪術の奥儀を極めるという明確な目標を持っていた。しかし、行基は「悩み」の中にあった。


 691年、24歳、受戒し、比丘(正式な僧)になったから、行基は山林修行を終えてもよかった。しかし、「悩み」があった。704年、37歳まで「山林に宿り荊(いばら)藪(やぶ)を褥(しとね)とし、或いは原野に留まり沙石(させき)を床」という山林苦行を継続した。


 行基は、24歳からも山林修行を継続していたが、その一方で、大寺の飛鳥寺(法興寺・元興寺)で深く仏典を学び始めた。「悩み」の解答を求め、37歳まで、山林修行と大寺での仏典研究に心身を費やしたのである。


 行基の「悩み」は2つあったと推測する。


 第1は、今日的表現でいう「平等」のテーマである。飛鳥寺では、法相宗(唯識論)を学んだ。当時の飛鳥寺では、いわば「古い唯識論」と「新しい唯識論」の2つの学派が並立していた。唯識論の解説は省略して、最大の相違点は、「古い唯識論」は「永遠に悟りを得る資質のない無性の衆生の存在を肯定する」、「新しい唯識論」は「一切の衆生は悉く仏性あり」と説く。


 2つの学派の論争は9世紀初期にまで及んだ。2つの学派の論争は「新しい唯識論」が勝利するが、現実世界はそう簡単ではない。『日本三代実録』(六国史の最後の歴史書、901年完成)の貞観7年3月の箇所には、20歳以下の者、70歳以上の者、国家が放さない者、債務者、黄門(性器不具の者)、奴婢は比丘戒を許されない者と記されている。


 行基は、真剣に悩んだ。そして、行基は、「古い唯識論」を学んでいたので、ヒューマニスト行基は大いに悩んだ。そして大悟する。「この仏典は間違っている。奴婢にだって仏性はあるぞ!」と。


 第2の「悩み」は、「大乗」と「小乗」である。悩み、悩みの末、行基はこのテーマにおいても、大悟する。「山林に拱黙(きょうもく)するは、すなわち、これ一途の独善なり」だと。


 なお、飛鳥寺では、道昭(どうしょう、629~700)から教えを受けた。道昭は第2次遣唐使(653年出発、654年帰国)の一員で、唐では玄奘三蔵(602~664)と親密になり、法相宗(唯識論)を学んだ。晩年は、井戸、橋などの社会貢献土木活動を熱心に行った。行基への影響を想像できます。


 大悟した行儀は、704年、37歳、生家に帰り、生家を神崎院(家原寺)とした。しかし、行基の社会貢献土木活動は、本格的には開始されなかった。


 705年、行基38歳、母が病気になり治療看病のため静かな山房に移住した。


 710年、行基43歳、母逝去。以後、3年間喪に服する。


 712年、行基45歳、喪があけた。


 おそらく、704年の生家を神崎院(家原寺)、すなわち道場とした時から、行基の布教活動は始まり、小さいながらも「行基集団」は形成された。そして、いくつかの社会貢献土木活動もなされた。周辺の人々は、即座に「すごい!」と注目した。しかし、母の看病などで、「行基集団」は小規模であったと推測する。そして、行基は、本格的な社会貢献土木活動の構想を練っていたのだろう。


 ひょっとしたら、隋の信行(?~594)の活躍も伝わっていたかも知れない。飛鳥寺での行基の師である道昭は、隋の信行の三階宗経典を持ち帰っていることは確かで、行基がそれを学んだ可能性は大いにある。


 三階宗は、山林の中で黙々と独り修行するのを否定する。集落における相互扶助が信仰に裏付けされれば、生活向上にもなるし、無知な衆生でも助け合いの精神が仏性を目覚めさせていく。


 隋、唐の初期、三階宗は爆発的に拡大した。昨今、自助・共助・公助という言葉が流行っているが、信行の三階宗は自助を否定し、共助こそが悟りへの道と断言した。公助(国家)へは一定の距離間を持っていたが、結局は弾圧され、三階宗は滅亡した。


 今日的表現をするならば、封建国家は社会主義・平等主義を受け入れない、ということだろう。なお一言、自助・共助・公助は全部必要です。仏教の世界観は、「諸行無常」と「諸法無我」です。すべては変化する、すべては網の目のように関係していて孤立しているものは何ひとつない、ということです。

 

 隋の信行のことは、さておいて、おそらく行基は各種仏典に述べられている「福田思想」に共感したことは間違いない。仏・僧・父母・貧者などに布施をすれば、福徳・功徳を得るという考えである。


 福田思想は、時とともに発展し、各種経典の中で具体的に記述され、それを実践する中国高僧も登場した。わかりやすく言えば、人々・貧者のために、井戸・園果・樹陰・橋・渡し舟・浴室・宿泊休憩所・道路・飲食提供・医薬提供・清潔なトイレなどの社会資本整備の実践をすることである。


(3)前期は布施屋


 一応、行基の活動を、私流に前期と後期に分けます。


 前期――国家からの弾圧されていた時期(~722年=養老6年)

 後期――国家から好意的さらに称賛された時期


 712年、行基45歳、喪があけた。


 716年、49歳、大和国平群(へぐり)郡に恩光寺を起工。


 718年、51歳、大和国添下郡に隆福院(登美院)を起工。


 行基の本格的な布教が始まった。目指すは平城京の布教である。


 行基集団の活動拠点は「行基菩薩開基49院」と言われる。恩光寺と隆福院(登美院)は和泉国・河内国から大和国の平城京へ至る道にあり、平城京の近くに位置する。いわば、平城京布教の前線拠点である。49院の起工年を眺めると、722年を過ぎて724年から急激に数を増しているから、やはり国家の弾圧方針は平城京布教に大きなマイナス効果となっていたようだ。


 49院に関して、若干の説明をしておきます。『行基年譜』(1175年に書かれた)には、行基が畿内に開いた49院の位置と建立年が書かれてある。実際は、「プラス4~5」であったようだが、仏典の「弥勒菩薩の宮殿が49ヵ所」という説と結合して、行基49院という観念が広まったようだ。


 それから、「院」とありますが、数ヵ所「寺」もあります。律令では、「寺」を設置する場合は国家の許可が必要で、実際問題として許可が難しいので「寺」ではなく「院」とした。また、「寺」以外では仏教の布教は禁止されていたが、民家の室内のおしゃべり(布教)は黙認されていた。いわば、ギリギリの脱法行為の結果が「院」であった。


 なお、「49院」以外に、全国で約600寺が行基開基と称している寺院が現存している。本当は、行基の弟子・孫弟子らが、行基を追慕して建設したのであろう。例えば、溜池・水利施設の土木作業で周辺住民を行基が指導する。行基が寝泊まりしていた家屋が、行基没後に、住民が報恩・感謝で寺に改築したものもあろう。


 平城京布教に際して、行基は布施屋の設置に力を注いだ。


 当時の農民は悲惨であった。山上憶良の『貧窮問答歌』の実態である。農民は、運脚夫として税の産物を都へ運ばねばならなかった。役人は産物が都へ到着するまで運脚夫に死なれては困るので、それなりに食料を与えたが、都に到着すれば用済みである。誰も帰路の食料を持参していない。帰路で餓死するものが続出していた。さらに、平城京建設で農民は役夫として駆り出され、逃亡者続出であった。『続日本紀』には、何回も、運脚夫の餓死続出、役夫の逃亡続出のため、「国司らよ、なんとかせよ」と通達を出していることがわかるが、なんら改善されなかった。


 そんな状況を打破するため、行基は、日本で初めて「布施屋」をつくった。場所は、平城京への交通の要所で、畿内9ヵ所に設置した。食料配布と雨露防ぐ簡易宿泊・休憩所である。むるん、立派な建物ではない。井戸を造ったり、果樹や野菜畑も造ったが、それだけでは食料不足である。食料はどこから調達したのだろうか。行基集団が布施を求めて托鉢して回ったようだ。しかし、安定経営に至らず、苦心惨憺の運営だったようだ。『行基年譜』の天平13年(741年)には、9ヵ所のうち、現存するもの3ヵ所、破損しているもの9ヵ所とある。


 布施屋の運営は悪戦苦闘であったが、運脚夫・民夫からは、絶大に感謝された。故郷へ帰った人々は、「菩薩に出会った」と涙を流した。行基集団は急激に拡大した。行基集団は爆発的人気を獲得した。その動きを国家は危険視した。


『続日本紀』の養老元年(717年)4月23日の記述は、一言で言えば、行基集団はイカサマ集団だ、僧尼令違反だ、と断じた。「見かけは僧侶のようだが、心によこしまな盗人の気持を秘めている」「いま小僧(つまらない僧)の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のことを説き……家々をめぐり、いい加減なことを説き、無理に食物以外のものを乞い、偽って聖道であるなどと称して、人民を惑わしている」「このままでは、僧侶と俗人の区別がなく」「このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」……。


 というわけで、717年、国家(時の最高権力者は藤原不比等)は、行基集団への弾圧指令を出した。しかし、弾圧指令だけで、逮捕や体罰などはなかった。だから、行基集団の活動に影響はなかった。不比等の長男・藤原武智麻呂、次男・房前は行基集団の行動に好意的であった。


 しかし、藤原不比等が720年に突然死去。そして、長屋王(?~729)になると事態は一変した。


『続日本紀』の養老6年(722年)7月10日の記述は、養老元年のものより厳しい表現になっている。そして、事実上の布教禁止、行基は平城京追放となった。平城京の行基集団は解体した。解体された平城京の行基集団とは地方から駆り出された役夫達であった。行基は、故郷の和泉国へ帰った。


(4)後期は飛躍的大発展


 故郷・和泉国の神崎院(家原寺)を中心とする行基集団は健在であった。平城京の監視も及ばない。結果論からすれば、行基にとって平城京追放は「よい結果」をもたらしたのである。平城京では行基の目は、主に、餓死する運脚夫、逃亡する役夫に注がれていた。しかし、和泉に帰った行基の目は、農民や商人に注がれた。


 帰郷した翌年とは、723年で、三世一身の法が施行された。743年は墾田永年私財法である。豪族・有力農民・一般農民の間に、私有耕作地拡大が進行し始めた。そんなとき、行基集団は、いわば「私有耕作地拡大の請け負いプロ集団」の機能を果たすようになった。


 行基集団は、各種の専門技術者集団も抱えていた。行基集団の指導で周辺農民は、喜び勇んで、溜池、溝、堤樋(堤から排水するための門)、堀川の土木作業に参加した。鞭で強制労働をさせるわけではない。土木作業をすれば、生活安定・向上、共同作業の仲間意識、無報酬(布施)だから極楽往生保証つきである。行基集団では、組織の上位集団の出家者、専門技術者も等しく「一枝の草、一握の土を持ち」作業に従事するのである。身分差別のない平等が感動を湧きあがらせていた。


 行基集団の土木作業を目撃すれば、「自分の村でも、ぜひ」ということで、注文が途切れることがない。

 

 農民だけでなく、行基の目は商人にも注がれた。流通インフラである橋、直道、船息(ふなすえ、港のこと)の土木作業も盛んに実行した。


 大阪府及びその周辺地図に、行基集団の49院、布施屋、溜池、溝、堤樋、堀川、橋、直道、船息を書き込むと、地図は埋め尽くされてしまう。


 こうした活動によって、行基集団は、出家者だけでなく、在家の郡司・郷長レベルの下級貴族・地方豪族・有力農民・商人が増加していった。郡司とは国司の下の役職、その下が郷長で、1郷は約50戸である。むろん、無数の一般庶民もいた。


 『続日本紀』の天平2年(730年)9月29日では、「京に近い左側(東方)の丘に、多人数を集めて妖しげなことを言い、衆人をまどわす者がある。多い時では1万人、少ない時でも数千人という。これらの者は甚だ国法に背いている」とある。


 平城京を追放された行基は、再び、平城京での布教を計画・実行し始めた。


 長屋王は前年(729年)に長屋王の変で自害している。行基に好意的な藤原4子政権となっている。藤原4子政権は、行基集団を、国家に反逆する集団ではない、本来は国家がなすべき港整備の土木事業を無料でやっている、と認識していた。さらに、藤原4子政権に対しては、藤原氏以外の貴族は、「長屋王の変は藤原4兄弟の陰謀だ」「4兄弟の妹である光明子(701~760)を皇后にする(729年)とは非常識だ」とみていた。


 皇族以外から皇后になったのは、光明子が初めてである。藤原4子政権を安定化させるには、光明子の権威を高める必要があり、そのため光明子に福田思想に基づく慈善事業を行基に見習って大々的にしていただく。


 そんなことで、731年(天平3年)8月7日、聖武天皇=藤原4子政権は、行基集団を正式に容認した。その前後には、行基は入京も果たしている。


 行基は、その後、国家権力との関係が深まっていく。


 740年(天平12年)には、聖武天皇から直々に大仏建立への協力を依頼され、承諾する。行基の大仏建立の勧進は大きな効果を発揮した。その功績で、745年(天平17年)、78歳の行基は、朝廷から日本初の「大僧正」を任命された。


 行基の大仏建立の勧進に関しては、行基集団の幹部からも「心すすまぬもの」と思われた。行基の内心はわからないが、「反乱集団でない証」として、「やむなし」という感じかな……。


 749年(天平21年)、行基、82歳にて没す。


 752年(天平勝宝4年)大仏開眼の法要。行基の弟子景静が都講(司会)を務める。


(5)『日本霊異記』


 先に、「718年、51歳、大和国添下郡に隆福院(登美院)を起工」と書いたが、隆福院(登美院)に関係した「有意義なエロ話」が、『日本霊異記』にあるので、紹介しておきます。『日本霊異記』は、正式名は『日本国現報善悪霊異記』で、上・中・下の全3巻、日本最初の説話集です。著者は景戒(生没不詳)で、行基関連の説話が多いので、行基の弟子と推測されている。『日本霊異記』は、結構エロ・スケベ話が多いですよ。


「中巻第八 蟹(かに)と蛙(かへる)の命を買い取って放し、この世でよい報いを受けた話」


 鯛女(たいめ)は仏道を修行しようとする心が強い処女であった。行基菩薩に捧げる菜をいつも心をこめて採り、1日も欠かさず師に持っていった(行基が隆福院(登美院))に滞在していた時の話です)。


 ある日、鯛女は山で菜を採っていた。すると、大蛇が大きな蛙を飲みかけていた。鯛女は大蛇に「蛙を許してやってください」と頼んだ。大蛇は聞き入れず蛙を飲み続けた。鯛女は再び「私はあなたの妻になりましょう。それに免じて蛙を放していただければありがたい」とお願いした。大蛇は、これを聞き、頭を高くもたげて鯛女が美女かどうか検分して、蛙を吐き出した。鯛女は「今日から7日たったら来なさい」と約束した。


 そして、約束の日が来た。鯛女は、戸をしっかり閉め、開いている穴はふさいで、身を引き締め部屋に籠っていると、本当に大蛇が約束どおりやってきて、尾で壁を叩いた。鯛女はすっかり恐ろしくなった。


 翌日、鯛女は行基菩薩に、このことを申し上げた(このとき行基は生駒寺=竹林寺に滞在していた)。


 行基は「そなたは逃れることはできまい。ただただ、堅く仏の戒めを守るがよい」と言われた。仏・法・僧の三宝をあつく信じること、五戒(不偸盗・不殺生・不邪淫・不妄語・不飲酒)を守ることを教授されて、帰った。その途中、見知らぬ老人が大きな蟹(かに)を持っているのに出会った。


 鯛女は「どちらのお爺さんですか。どうか私に蟹を譲ってください」と頼んだ。


 老人は「年は78歳になるが、子供も孫もいない。生きていく方法がない。偶然、難波でこの蟹を手に入れた。そなたにやることはできない」と言った。


 鯛女は衣を脱いで代金としたが、やはり聞き入れない。


 次に裳(も、腰から下の衣)も脱いで代金にしようと言うと、老人は承諾した(若い美女のストリップ・シーンです)。


 鯛女は蟹を受け取り、再び、行基のもとへ行った。行基は蟹に対して呪文を唱え、鯛女は祈願を込めて蟹を放してやった。


 8日目の夜、また大蛇がやって来て、屋根に登り屋根の萱(かや)を抜いてなかに入って来た。鯛女は恐ろしさでぶるぶる震えていた。そのとき、床板が跳ね上がり、ドタン・バタンと大きな音が聞こえた。


 夜が明けて、よく見ると、1匹の大きな蟹がいる。しかも、大蛇はズタズタに切れていた。そこで、蟹が恩に報いたのだとわかった。さらにまた、私が仏の戒めを守ったための法力でもあったとわかった。


 真偽を確かめようと、老人を探したが、ついに会えなかった。ここではっきりと、あの老人は聖人が仮にこの世に人間の姿で現れたのだとわかった。これ奇異しき事なり。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。