時事的な社会・政治問題を、デイリーの報道とは異なる視点から掘り下げる総合週刊誌。多くの媒体が部数減によって取材力を失うなか、業界の雄・週刊文春とその背を追う週刊新潮の2誌だけが、今日もかろうじて「取材媒体」の面目を保っている。その昔、新聞社系の週刊誌に勢いがあった時代には、似たような「保守系誌」に分類されていた文春・新潮だが、競合誌が次々と戦線を離脱するなかで、残されたこの2誌には徐々に「カラーの差」が出てきたように思う。


 同じ保守系誌でも、文春はリベラルな感覚を包含した「中道」のバランスを意識する誌面になり、新潮のほうは、左派だけでなく中道リベラルにも冷ややかな目を向ける「右派色」を強めている。このため、テーマによりしばしば論調は食い違い、時には互いを名指ししての「論戦」も起きている。今週、両誌に見られたのは、明確な「論戦」とまでは言えないが、互いにライバル心が透けて見えるスタンスの違いだった。


 世界的に2020年最大の問題になっているコロナ禍をどう見るか、という話である。新潮の特集タイトルは『人災のコロナ危機! 報道されない「高齢者の死亡率激減!」演出される「医療崩壊」』というもので、要は目下のコロナ危機はメディアを中心に一部勢力が騒いでいるだけで、現実はそこまで深刻なものではない、という主張だ。これに対し、文春の特集タイトルは、新潮を意識してのものだろう、『「コロナは怖くない」を徹底検証する』と付けられている。


 新潮の記事は、宮沢孝幸・京大准教授のコメントで、現在の感染者数はすでに「ピークアウトを迎え、下降フェーズに入っている」としたうえで、むしろ経済危機による「犠牲者」を減らすうえで《無闇に怖がる必要はないのだと安心させる啓発活動》こそ必要だと主張する。PCR検査の拡大などにより、高齢者の致死率はむしろ低下傾向にあると指摘、医療の逼迫は新型コロナが指定感染症2類に分類されているために、専用病床にしか患者を入れられない制約が原因だ、などとコロナへの「過剰対応」を戒めている。


 かたや文春は、「インフルエンザのほうが死者が多い」という楽観論に対し、感染者数を母数とする死亡者の比率では、インフルエンザの「0.1%以下」に対しコロナは「1%以上」と開きがあり、コロナは「健康な高齢者でも死ぬ可能性のある病気」(大谷義夫医師)と警鐘を鳴らす。医療崩壊に関しては、病床数以上にマンパワーの不足が深刻で、限界に近づきつつあること、若年層の患者にもさまざまな後遺症が見られることなどを挙げ、《総じて新型コロナの怖さは、その得体の知れなさにあるのだ》と記事を結んでいる。


 両記事とも互いの報道を前提にした書き方にはなっていないため、論点がぴったりと噛み合うわけではない。ただこの際、せっかく対照的な記事も出たことだし、今後、業界の両雄として四つに組み、「徹底誌上論争」をしてみるのも面白いと思う。読者にしてみれば論点の整理に役立つし、両編集部にとっても、白熱するほどに売上にプラスになる気がする。


 私自身はサイエンスに疎く、この手のテーマは遠巻きに観戦することにしているが、期待したいのはなるべく右左、政権へのスタンスとは切り離した議論になることだ。ネット上の議論にはあまりにこの色合いが強く、春先にPCR不足が論じられたときには、拡大論者には反政権、抑制論者には親政権という色分けが露骨だった。専門知識のない素人は素直に自分の無知を認めたうえ、無闇に論争に飛び込まず、虚心坦懐に諸々の専門家の声を聴くようにする、そんな「大人の対応」の人が増えてくれることを願う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。