「同調圧力」や「ムラ社会」など“世間”というあいまいな物差しが個を縛る現象は、昭和の感覚では、農村部等に残る「悪しき因習」としてもっぱら語られてきた。ところが地方の村々でも、今やコミュニティーは崩壊寸前だし、職場がそれを代替した“企業社会”もすでに過去のもの。多くの国民が、砂粒のように個々の世界を生きている。にもかかわらず、「世間の目」と呼ばれる摩訶不思議な圧力は、令和の今日もいまだ健在だ。


 先日、ワイドショーで報じられた芸人・渡部建氏の“不倫会見”があまりに痛々しく、改めてそう感じた。集団で彼を吊し上げるレポーターたちは、いったいその口から何を語らせたかったのか。復帰会見だとしたら時期尚早、謝罪会見なら遅すぎる、なぜいま頭を下げるのか。テレビはもっぱらそう叩いていたようだったが、私個人の印象では、レポーターたちの“なんちゃって使命感”のほうが、よほど意味不明だった。


 近年は各局とも、ひな壇芸人による安上がりなバラエティー番組を数多く放映しているが、各出演者によるエピソードトークが眼目である以上、視聴者は人気タレントの生い立ちや私生活のあれこれに自然と詳しくなる。そうした「身近な著名人」の不倫が暴かれれば、当然興味を引く。文春をはじめとして週刊誌が不倫の発掘を目指すのは、その需要があるためだが、冷静に考えれば、不倫のニュース価値はただひとつ、万人の「のぞき見趣味」にかなうからであり、正邪はあくまでも家族や関係者の問題だ。番組やスポンサーへの「迷惑」も「世間の憤激」があればこその2次被害だ。


 つまり、週刊誌は「売らんかな」の下衆な動機から不倫を追うのであり、それ以上でも以下でもない。読者は“他人の家の大騒ぎ”を誌面で見て、ニヤニヤと正直に反応すればいいと思う。無関係な庶民が大上段にこれを裁く昨今の光景はグロテスクだ。以前、週刊文春がタレントのベッキーの不倫を暴いたあと、ネットに吹き荒れるバッシングの激しさに驚愕し、編集長自らがその困惑を巻末で明かしていたことを思い起こす。


 世間が許さない。糾弾者の錦の御旗になるこの大義名分は、コロナ禍の「自粛警察」にも感じ取れる。人々が濃密に交わり合う関係性などもはや存在しないのに、「ムラ社会」「村八分」の攻撃性だけは生き残っている。いや、この“御旗”は実際には、人々の身も蓋もない嗜虐性を覆い隠す口実として使われているように私には感じられる。


 今回の糾弾会見で気になったのが、「多目的トイレでの不倫」が注目され、「本来の利用者への謝罪」が焦点になったことだ。ウソをつけ。そう思った。今回、この特殊な“現場”が注目されたのは、あれほどの著名人が、まさかケチ臭くトイレでガツガツと性欲を満たしていた、という驚きによるものだ。嫌悪を催した人もいるだろうし、苦笑した人もいるに違いない。だが「本来の利用者」である障がい者の不便に思いを寄せ、憤慨した「心優しき人」が、本当にそんなに多数を占めるのか。自らの本音、事件への下衆な関心を押し隠し、あくまでも「公憤」を装う「後付け」でこれを言うだけではないのか。


 というわけで今週の各誌は、渡部氏の不倫会見をあまり扱っていない。第1報をスクープした文春は『渡部不倫会見 本誌だけが知る「全舞台裏」』という特集を載せているが、内容のほとんどは経緯をまとめただけ。年末のお笑い番組出演で渡部氏が仕事に復帰する、という情報をスクープした週刊女性の『アンジャッシュ渡部建「地獄の100分」見届けた事務所社長が語り尽くす「日和見復帰」の真相と「それでもアイツは切れない……」理由』も、トーンは大人しい。不倫報道を主導する紙媒体のほうがテレビやネットより、このテーマの“下衆さ”を弁えている。勝手な思い込みかもしれないが、だとすれば少し救われる気がする。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。