(1)昆虫・植物採集が大好き
事実を事実として、ありのまま知ることは、案外難しい。
恋心を歌う昭和歌謡曲に、
「死ぬまでだまして欲しかった」「あなたの過去など知りたくないの」
という歌詞がある。
事実を知りたくない、というわけだ。恋愛ゲームに陶酔してしまうと、『あばたもえくぼ』で、事実は事実でなくなってしまう。まぁしかし、恋愛ならば、「勝手にしやがれ」ですむ。
政治経済の場合は、個人的な利害得失と特定イデオロギーが絡んで、事実を捻じ曲げることや事実データの改竄・隠蔽が頻繁に行われ、悲劇をもたらす。当たり前ながら、基本中の基本は、「事実を事実として知る」ことで、それを踏まえなければ、処方箋のつくりようがない。
思うに、文科系タイプの人よりも理科系タイプの人のほうが、「事実を事実として知る」能力に優れているのかも知れない。
例えば、教壇に「白い花」が飾ってある。文科系の学生は、すぐに、白い花から、美女やら値段に関心が移ってしまう。理科系の学生は、まずとにかく、横からも上からも見て、さらに手に触れて匂いを嗅いで、白い花を確認することを優先する。
事実を厳然と直視する理科系タイプの名君となれば、肥後熊本藩54万石、第6代藩主、細川重賢(しげかた、1720〜1785)の右に出る殿様はいない。
熊本藩は、父の第4代宣紀(のぶのり)および兄の第5代宗孝(むねたか)の時代を通して、完全な財政破綻状態が継続していた。江戸の借金だけでも37万両以上で、その返済のため町人たちから江戸町奉行へ訴えられる始末であった。
熊本藩は名目54万石だが、平年度の収支は収入が約35万石、支出が約43万石、差し引き約8万石の恒常的赤字体質に陥っていた。藩士も極端な給与カットで、100石取りの武士の手取りは15石、10石の者の手取りは2石というのが常態であった。
参勤交代の費用にも事欠き、途中で身動きできなくなったこともあった。
宗孝の婚姻も婚礼費用がないので延期となった。
年貢米は大阪の蔵屋敷へ送り込んで現金化するのだが、重賢が藩主に就任する前年などは、送り出す米すらなかった。
熊本藩細川家のあまり金欠状態に、
「新しき鍋釜に、細川と申す文字を書きつけおかば、金気(かねけ)は出ず」(豪商三井高房著『町人考見録』)
と錆止め効用の格言ができるほどバカにされた。
金欠の熊本藩江戸屋敷であっても、重賢はスクスク成長し、儒学・詩歌も剣術・馬術も、それなりに優秀だったということだが、そんなことよりも特筆すべきは、昆虫採集や植物採集が大好きで、採集してはジッと観察し、その絵を描くという変わり種。変な趣味でも、藩にとっては金がかからないから好都合であった。
周知のように、長子相続の封建時代にあっては、弟の立場は、冷や飯の部屋住み生活である。金欠細川家だから、藩主の弟でも、時には、ふんどしの替えもない、空腹のため雀を獲ったが醤油がないので家来から借用、質屋通いは慣れたもの……という正真正銘の貧乏暮らし。唯一の楽しみは、昆虫と植物の採集・観察・写生であった。
運命は突然やってきた。
延享4年(1747)8月15日、江戸城にて刃傷発生。宗孝が殿中の厠で、何者かに斬りつけられた。犯人は、旗本の板倉修理で、本家の板倉勝清を斬り殺すつもりが、間違えて宗孝を斬りつけてしまったのだ。不運な宗孝は翌日死亡。
それで、弟の重賢が家督を相続。28歳であった。
(2)理科系才能で財政再建
突然、金欠といえども54万石の藩主になった。凡人は、少しは贅沢に、一度くらいは吉原に……と思うものだ。しかし、重賢の趣味は昆虫や植物であって、贅沢や吉原ではなかった。そうした理科系頭脳は、「事実を事実として知る」ことに通じ、「金欠は金欠」としっかり直視できたのだ。
重賢の語録に、
「際限ある金銀を以って際限なき事をなすは愚者の愚とも申すべし。大名のおうようは大方この愚者の部類に入る」
とある。事実をしっかり受けとめることが藩政改革の第一歩である。
「大名にはなるまじきものぞ。蚊を一つ打ち殺しても鬼の首を取りしように御手柄なりとほめそやされて、太郎冠者の拍手にのることよ」
重賢は「自分は事実をしっかり受け止める。ホメ殺しにはされないぞ」と言っているようだ。
重賢の趣味のことであるが、藩主就任後ますます本格的になる。鮮やかな肉筆彩色の冊子は植物で6冊、動物で3冊が残っている。また、『押華帳』と題する標本帳もある。それらの出来栄えは、世界史的にみても非常に価値ある博物学の業績である。
植物学の基本は分類学である。生物の分類学はスウェーデンのリンネ(1707〜1778)が二名法(または二命名法)を確立して学問的基礎を築いたのだが、重賢はリンネと同レベルの業績を残している。重賢は、「名君」と称えるよりは、「博物学の先駆者」と称えたほうが、供養になるかもしれない。
さて、重賢の藩政改革は、世に『宝暦の改革』という。「宝暦」とは1751〜63年の元号である。重賢の改革を補佐したのが、堀勝名(ほりかつな、通称平太左衛門)である。堀家は細川家譜代の家臣でもなく、肥後の土着豪族出身でもなく、500石の中級武士に過ぎなかった。
堀は日頃から藩の改革案を練っていた。重賢は堀の才能を見抜き、大奉行(のちに中老、家老)に大抜擢した。そして、藩の行政機構を堀を中心にした機動的な機構に全面改革した。門閥世襲の従来機関は残したが、それは名ばかりの追認機関になった。
決定・実行のスピードアップのシステムを構築する一環として、「刑法改革」(行政と司法の分離)も実行した。
むろん、既得権を維持しようとする守旧派の反発を招くが、絶対権力を持つお殿様の不動の決意の前に、どうにもならなかった。
改革は、多岐にわたった。
まず、財政再建の視点から述べてみよう。
最も効果を発揮したのが産業振興であった。
動植物に詳しい重賢は、櫨(はぜ)と楮(こうぞ)に目をつけた。櫨の木はウルシ科の落葉樹で、その果実から蝋が採れる。楮はクワ科の落葉樹で、その樹皮が和紙の原料となる。重賢以前でも、櫨から櫨蝋、楮から和紙の生産はあったが、重賢は生産・販売の特別機関を設立して、大増産と専売を成功させた。いわば、零細企業を大企業に発展させたのである。
さらに重賢は、肥後ではまだ行われていない養蚕に狙いをつけた。動植物のことなら自信たっぷりの重賢である。新産業たる養蚕の極意獲得のため人材を各地へ派遣し、技術を収得させ、そして、またたく間に肥後国内に普及させた。
重賢の理科系的合理精神は硫黄開発でも発揮された。阿蘇山の硫黄を採って財源確保をはかった。しかし、神様の山だから罰が当たると反対される。そんなの迷信とばかりに硫黄採取を強行した。ところが、洪水が発生してしまう。やっぱり神様の天罰が下った、神様の祟りだ、硫黄採取を止めよう、と非難囂々となる。重賢は、「神様は民の幸福を願っているから民を困らすようなことはしない、洪水は邪悪な魔物の仕業に違いない」と断言し、なんと、洪水発生の池に砲撃を決行する。すると、魔物・怪獣のような得体のしれない死骸が浮いてきた。これにて、天罰・祟りはなくなった。手品の仕掛けは秘密だから、詳細は不明だが、嘘のような実話である。
今日で言えば税制改革も断行した。
百数十年ぶりに検地を実行し、700町歩余りの隠田畑を摘発した。「1町歩」(=10反)は「1ヘクタール弱の面積」で、約10石の生産高に相当する。つまり、検地によって7000石の増収がはかられた。藩からすれば脱税摘発である、農民からすれば増税を強いられたわけだ。
また、税制度の単純化とでも言うべき定免法(じょうめんほう)を採用した。従来の一般的な年貢徴収法は検見法(けみほう)で、毎年収穫量を調査して量を決める方法である。これに対して、定免法は過去の一定期間(過去5年間、10年間または20年間)の平均収穫量から量を決める方法である。もっとも酷い凶作のときは、「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。
検見法のほうが公正なのであるが、調査に手間暇が必要であり、さらに調査する役人の匙加減ひとつで年貢の量が決まったり、あるいは努力して生産高を高めてもガッポリ年貢を取られてしまうので、生産性向上の勤労意欲が低下する……いろいろ欠点がある。藩の立場からすれば、藩の収入が一定しないというマイナスもある。
定免法は、豊凶に関係なく毎年同じ量の年貢を納めさせるやり方であるから、藩収入は安定する。
過去を遡れば、定免法は平安時代からあるにはあったが、あまり普及しなかった。8代将軍徳川吉宗が、享保7年(1722年)に定免法を採用して以後、広く普及するようになった。細川重賢も検見法よりも定免法が合理的と判断したのであった。農民にとっても、定免法のほうが喜ばれたようだ。例えば、宝暦年間の美濃(岐阜県)の郡上(ぐじょう)一揆は定免法から検見法への変更が起爆剤になった。
むろん質素倹約も率先実行した。
こうした一連の大改革によって、藩財政はみごとに黒字に転換された。
なお、江戸時代の最高の名君は、世間一般では米沢藩の上杉鷹山(1751〜1822)と目されているが、米沢藩が黒字転換は鷹山の代では実現できなかった。
細川重賢の改革成功ニュースは全国に知れ渡った。上杉鷹山の米沢藩も、会津藩も、薩摩藩も、津山藩も、みんなが重賢の「宝暦の改革」を学んだ。それなのに、あまり知られていない。江戸時代の文科系頭脳者は儒教イデオロギーに凝り固まっているから、少なからず儒教イデオロギーから逸脱(身分制度に批判的、蘭学好き)している重賢をヨイショしたくないのだろう。
(3)時習館と再春館
さて、細川重賢に関しては、財政再建だけでなく、どうしても藩校時習館と藩の医学校再春館の設立を語らねばならない。
まず、時習館だが、時期的に早い遅いはあるにせよ、儒教中心の藩校なら多くの藩が設立したから、そう自慢すべきことではない。しかし、重賢が宝暦5年(1755)に設立した時習館は一味違う。儒教中心、文武両道は表看板で説明の必要もないだろう。授業科目に、算術、天文測量があり、理科系重視の姿勢が窺われる。そして、門閥家柄重視ではなく、能力本位を基本に据えた。具体的には、試験制度であり、奨学金制度であり、さらには、藩士だけではなく農商でも成績優秀であれば学ぶことができた。
さらに、藩校にもかかわらず、他国の者にも開かれており開校直後から遊学者が学んだ。領民や他藩にも開かれた藩校は時習館が初めてであった。時習館の名声は全国に知れ渡り、諸藩からの視察、諸藩からの学生が続出した。
些細なことかも知れないが、時習館では体罰禁止であった。
時習館の設立と同じ頃、再春館を設立した。これは、いわば日本初の公立医学校である。再春館の教育方針は『壁書』として館内に掲示された。3ヵ条あるが、その第1条は、
医の道は岐黄を祖述し、仁術に基づく。故に尊卑を撰ばず、貧富を問わず、謝儀の多少を論ぜず。専ら本分を守るべきこと
である。「岐黄」とは、伝説の皇帝「黄帝」と伝説の医師「岐伯」の2人で、医術問答をした。それは『黄帝内経』なる本になったが、一部しか伝わっていない。
再春館では薬草研修のため毎年定例的に各地の山谷で採集旅行を行っている。また、再春館には、薬園「蕃滋園」(ばんじえん)が設立された。植物採集大好きな殿様ならではの施策である。
植物に関連した事業としては朝鮮人参栽培がある。最初の場所では失敗したが、2回目の場所で成功した。
なお、再春館の身分差別撤廃(尊卑を問わず)の精神は、重賢死後、急速に喪われてしまい、医師や学生の階級制度が復活してしまう。
最後に一言。
熊本に楽園が誕生したわけではない。江戸時代最悪の飢饉は、「天明の大飢饉」である。天明2年(1782年)から天明8年(1788)にかけて、東北を中心に大飢饉となった。餓死者だけでも20万人と推定され、約100万人の人口減をもたらした。
では、重賢の熊本藩はどうか。別表のように毎年のように大凶作である。
天明2年(1782年)、旅行家の古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は阿蘇路において、農民餓死の話を聞いた。まさか、名君の誉れ高い肥後で……と驚き、詳しく聞き取った。大勢の老若男女が熊本に出て乞食をして生き延びようとした。途中で行き倒れて死んだ(餓死)者もいた、ということだった。そして、「余はここにおいて疑惑し、仁政(じんせい)はなかりしものと思ひき」と記したのであった。
安永・天明年間の熊本藩の天災状況
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天災概要 |
被害額 |
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安永元年(1772) |
強風・堤防破損 |
27万石 |
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4年(1775) |
干ばつ |
15万石 |
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6年(1777) |
干ばつ・大雨 |
27万石 |
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8年(1779) |
大雨 |
21万石 |
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9年(1780) |
天候不順 |
21万石 |
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天明元年(1781) |
干ばつ・虫入 |
29万石 |
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2年(1782) |
風水害・秋作不熟 |
34万石 |
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3年(1783) |
気候不順・大風雨 |
23万石 |
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4年(1784) |
夏中長雨 |
11万石 |
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5年(1785) |
干ばつ・大雨 |
14万石 |
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6年(1786) |
大雨洪水・大風 |
35万石 |
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。