●なぜ排除できないパターナリズム


 本稿ではペトル・シュクラバーネクの著書『健康禍』を基本に読みながら、シュクラバーネクが教科書としている哲学者イヴァン・イリッチの、健康の概念を医学に委ねるべきではないとの「医学独裁説」が、コロナ後に本質的にどのように評価されるのかに関心を持ちながら、かなり偏った説を紹介している。


 いわゆる「健康主義」がイデオロギーとなり、一部の医療関係者の教条主義や、コロナで露わになったマスメディアのヒステリックな「煽り」につながっているのは、こうしたイリッチやシュクラバーネクの偏向的な「言説」を一部ながら踏襲しているかのようにみえる。その意味では、これらの批判を偏向とみなすほうが奇異に見えなくもない。


 例えば、シュクラバーネクの著書には、麻薬に手を出したことがある若い女性の婦人科疾患の治療を拒否する医師や、喫煙者の心臓手術を拒否する医師が登場する。信じられないが、こうした医師に共通するのは、「医師の万能感」である。それは、自殺を幇助する医師と同じ万能感である。また、そこにあるのは「医師であるゆえの万能感」に支えられた不勉強の口実、認識不足の言い訳につながっているとの見方もできる。


 麻薬中毒者の治療を担当する医師の悩みのひとつとして、専門家以外の医師による不作為による治療の中断がある。覚せい剤患者のなかには専門医のコントロール下で、激しい禁断症状を緩和するために少量の覚醒剤を治療として使うことがあるが、その患者が他の医療機関で治療する機会があると、そこの医師が警察に通報し、患者が検挙されて治療が中断してしまう。


 これらの状況に見え隠れするのは、実は医師の職能のプライドを確保する手段として「健康主義」が唱えられている側面だ。


 前回はそうしたなかで、2020年9月に邦訳が出されたミヒャエル・デ・リッダーの『わたしたちはどんな医療が欲しいのか?』で、リッダーの7項目のアドバイスを取りあげた。リッダーは、激しい「健康主義」批判論者ではないが、健康教育の不在やそれへの医師の無関心を指摘して、1番目に「より健康であるためにはもはや医療に頼ってはいけません!」とのメッセージを送っている。


 また2番目には、「医療費の無駄遣い減らしてより公正な分配を!」として、健康は人生の手段であって目的ではないことが完全に無視され、それによって大部分の医師の社会的な役割が著しく高く評価され、おまけに所得も増加しているとの認識を強調している。現状の医療と「健康主義」が医師を無能化しているとの指摘は、ある意味、医師の万能感助長を厳しく非難するシュクラバーネクとベクトルは重なっている。


 今回は、そのリッダーの7つの提言から残りの以下5点をみていく(なお、リッダーは緩和医療の専門家として、安楽死には独自の姿勢と見解、つまり、自死幇助は最終緩和措置であり、医師の良心が正しく機能すれば問題なく、この持論については反論を受け付けないという断固たる姿勢を示し、スイスなどで行われている「安易な診断」に基づく安楽死には明確な否定を示している)。


③将来の医師には幅広い教養が不可欠

④将来の患者さんには自己責任が不可欠

⑤医療倫理と専門性は患者さんの信頼を得るための基本

⑥統合医療

⑦医療は「人間工学技術」ではない


●不寛容社会の中での自己責任論の拡大リスク


 3番目の「将来の医師には幅広い教養が必要」では、「教養が高い医師ほど優れた臨床医である」という前提のもとで、体外受精、出生前診断、慢性疾患との共生、臓器提供への態度、終末期への対応など、新たな医療的課題に向き合うには、高い教養を持つことが必要だと繰り返している。


 このなかで、とくに筆者が関心を持ったのは、リッダーが医師と患者という非対称の関係にあることを医師がその教養のなかで理解しなければならないことを強調していること。わかりやすく言えば、患者との共感など、臨床医にとって不可欠な資質はそのこと(非対称性)を理解していることから始まると示唆していることだ。


 1960年代以前の臨床医は、患者は知らしむべし寄らしむべしとして、一定の距離を置くことが大事だとされていたが、リッダーはむろんそれに異を唱えているわけで、彼がまだそれを言い続けなければならない医療現場の現状に危機感が強いということである。背景には、急速に進む医学医療の進歩のなかでは、それを倫理的にかみ砕くための「教養」がさらに必要だという危機感も含まれる。


 4番目の「将来の患者さんには自己責任が不可欠」は、字義通りに受け取ると健康主義論者と同じように聞こえるが、リッダーは学校教育において「健康教育」を怠ったことが現下の医療費財政問題の主因であり、個人と国の財産を守るという観点から教育現場での健康教育が必要だと説いている。そして、それは自らの生命に対する自己決定の涵養にもつながるとする。


 また、健康情報弱者、すなわち健康に対して著しく知識を欠いたり、理解ができなったりする人を罰してもならないという。社会には強い人と弱い人がいる、それを寛容の精神でカバーし、社会全体が寛容でなければ健全な医療社会は作れないとリッダーは強調する。

 

 シュクラバーネクは不寛容な医師、喫煙者の心臓手術を拒否するような医師に対して極めて厳しい姿勢をとるが、リッダーも不寛容さは逆の作用しか生まないと強調する。喫煙者と非喫煙者では、肉体的にも精神的にも生活の質と量が豊かになるとの教育を充実させよいうのが本意であり、筆者はそうした主張には異論はない。


 しかし、健康教育の必要性を促すなかで、「自己責任が不可欠」と述べ立てるのは、リッダーの本意が誤解されるのではないかとの危惧を抱く。こうした言説が、「自助」などという主張のエビデンスになってしまう危険はないか。リッダーは、自国ドイツの医療財政の増高を指して、「政治的な失敗であり、それも刑罰に値する大失敗」だと指摘し、彼の言う健康教育はその失敗を糊塗するものであってはならないとのスタンスは明確にしている。


 本邦で言えば、医療財政の失敗はもともと老人医療費の無料化から始まった医療サービス対価に対する国民の誤解から出発していると筆者は考える。それを推進してきた政府が、福祉政策に対して抑制のキャップをかぶせたり、「自己責任」を言い立てたりするのは懲罰的な勘違いである。そして、権力はこうした医療者から発せられた「自己責任」を都合よく偽装し、使う。


 5番目の「医療倫理と専門性は患者さんの信頼を得るための基本」は、パラメディカルな治療法や、メディカルウェルネス分野の市場が拡大していることへの嫌悪とそれを招いた近代医療の「患者を診ない医療」への強い反省である。とくにこうした「怪しげな治療者」が指示を得る背景に、彼らが患者の話に耳を傾ける、患者を大切にするというポリシーのみで信頼を得て、マーケットサイズを拡大していることに気付くよう声を上げる。「これほどまでに(臨床医は)信頼を失った」とリッダーは嘆く。


 そして、その本質にあるのは、医師のパターナリズムであり、早くそれと決別するよう求めている。このことも筆者には大きな異論はない。医療を求める人々は医師に診てもらいたいが、医師は人々のほうをみないで最新の技術や研究や臓器ばかりをみている。筆者が言う「医師の万能感」の根底は、まさしくこのパターナリズムである。


 6番目と7番目は、主張の根幹はほぼ同じである。臓器別医療、技術重視医療からの脱却がメインテーマだ。主張はわかりやすいし、異論も少ない。しかし、こうした医療を持ち上げ、スポットライトを浴びせるのはメディアである。ある意味、こうした点にリッダーの関心は薄い印象もある。


 次回はシュクラバーネクの著書を解説し、コロナ禍でのヒントを探ることで、このシリーズを終わりたい。(幸)