(1)修験道の開祖


 役小角(634~701)の読み方であるが、「えんの」まではいいが、「小角」は「おづぬ」「おづの」「おつの」といろいろある。通称は「役行者」(えんのぎょうじゃ)「役優婆塞」(えんのうばそく)と呼ばれる。優婆塞とは在家の男性仏教信者。女性は優婆夷(うばい)という。


 役小角は修験道の開祖とされている。


 修験道とは何か。日本古来の山岳信仰と仏教(とりわけ密教)が習合した日本独特の宗教である。深山幽谷で厳しい修行をして、山岳が有する自然の霊力を体内に吸収して、「験力」(げんりき)という超能力を獲得する。修験道の行者は、修験者、あるいは山伏と呼ばれる。


 天狗は、山伏ファッションからも推理できるように、修験道の神である。修験道独自の神としては、天狗以外に、蔵王権現(修験道の本尊)、愛宕権現、前鬼・後鬼、一言主(ひとことぬし)、若一王子(にゃくいち・おうじ)、九十九王子(くじゅうく・おうじ)がある。


 平安時代になって、日本古来の山岳修行と密教(天台宗、真言宗)の山中修行とが混じり合って、独自の修験道という宗教が成立したのであるから、役小角が生きていた頃は、まだ修験道は成立していなかった。しかし、役小角の死後、いつの間にやら、役小角は修験道の開祖に昇格した。


 修験道は、明確な教義や組織がないが、日本中の山々が霊山となっていることからも想像できるように、かなり広まっていたことは確かである。


 15世紀に入って、聖護院(京都市左京区)が、熊野から大峯山(山上ヶ岳)の山々の天台宗系の修験道を本山派としてネットワークするようになった。16世紀になると、醍醐三宝院(京都市伏見区)が、奈良県の金峯山(=金峰山、吉野山から山上ヶ岳の山々)を拠点とする真言宗系の修験道を当山派として組織化した。大雑把に言えば、山上ヶ岳の東側は本山派、西側が当山派ということである。


 江戸時代に、幕府の宗教管理政策上、全国の修験道は、天台宗系統の本山派と真言宗系統の当山派のどちらかに属する定めとなった。


 しかし、明治政府は、神仏分離令(1868年)、修験禁止令(1872年)によって、修験道は全面的に禁止弾圧され、ほぼ消滅した。


 戦後になって、エコロジー、自然ブームもあって、やや復活という感じです。


(2)『続日本紀』


 古代律令国家は、国家事業として歴史を編纂した。『日本書紀』の次の正史が『続日本紀』である。『続日本紀』は、文武天皇から桓武天皇まで、697~791年が記載されてある。


 役小角が初登場する文献は『続日本紀』である。この記載は、いわば、ノンフィクションである。『続日本紀』が全部完成したのは797年であるが、役小角の記述がある箇所は760年前後に書かれた。


 次に役小角が登場する文献は『日本霊異記』である。これは、日本初の説話集で、著者は景戒で、行基(668~749)の弟子らしい人物だ。この説話集は最終的には823年頃完成したが、役小角の箇所は、おそらく、もっと早い時期(790年前後)に書かれていたであろう。整理すると、『続日本紀』の役小角は760年前後に書かれた。『日本霊異記』の役小角は、それよりも30年後に書かれた。


 この30年間に何があったのか。


『続日本紀』の役小角は、事実を坦々と述べているにすぎないが、『日本霊異記』では、すごい人物だ、と非常に高く評価されている。おそらく、『日本霊異記』を編集していた時期は、密教が熱烈に歓迎され始めた時期で、密教と役小角の間にある、外観上の類似性のため、役小角はすごい、ということになったのだろう。『続日本紀』の役小角がノンフィクションならば、『日本霊異記』の役小角は密教大ブームを背景にしたフィクションである。


 ということで、まずは、『続日本紀』のノンフィクション役小角の全文(現代語)を紹介します。


文武天皇3年(699年)5月24日

 役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛城山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流(おんる)の罪に処せられた。世間のうわさでは、「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、もし命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」と言われる。


 たった、これだけである。これが、役小角のコア部分である。それでも、次のようなことがわかる。


「伊豆嶋に配流」……伊豆嶋とは伊豆大島のことである。配流とは流刑のことである。『日本書紀』には、675年(天武4年)に、麻績王(おみのおう)が因幡に流刑され、麻績王の子が伊豆島へ流刑されている。677年(天武6年)に、田史名倉が伊豆島へ流刑されている。麻績王は、天武天皇の宿敵・大友皇子(天智天皇の太子)の系列の皇族である。田史名倉は天武天皇を侮った罪である。役小角が伊豆島へ流されたということは、「天皇への反逆罪」と同類かもしれない。『続日本紀』の「小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものである」とは、そんな重い意味が込められている。


「葛城山に住み」……奈良盆地の西側は、北部が生駒山脈、南部が金剛山脈である。金剛山脈の中程に葛城山があり、その南方に金剛山がある。葛城山の東側の麓が葛城の地である。奈良盆地の南西部である。葛城の地は、葛城氏の根拠地である。


 天皇の系譜で、第2~9代を「欠史8代」という。天皇の名前が羅列されているだけで、実在していないと考えられている。ただし、「欠史8代」とは、「葛城王朝」という説もある。葛城氏は最も早く奈良盆地に定住した集団であると推理する。「欠史8代」の次は、奈良盆地の東にある三輪山が根拠地「崇神王朝」(第10~14代)で、「葛城王朝」はこれに併合されたようだ。次の「応神王朝」(第15~25代)の前半は葛城氏も力があり、皇后を出す豪族であった。したがって、「応神王朝」の前半は「大王と葛城氏の両頭政権」という見方もある。しかし、第21代雄略天皇(5世紀末の在位)によって、葛城氏の勢力は弱体してしまう。第26代継体天皇から今日まで継続する「継体王朝」となるが、役小角の頃の葛城氏は弱体のままで、要するに、支配される部族の地位に陥っていた。


「役(えん)の」……「役」とは何か。『日本霊異記』には「賀茂(かも)の役の公」とある。つまり、「賀茂氏の分家」という意味である。賀茂氏自体が弱小豪族であるから、賀茂役氏も、まるで力のない一族である。ただし、京都の賀茂大社や、超有名陰陽師・安倍晴明(921~1005)は賀茂氏から陰陽道・天文道を学んだということから、賀茂氏とは、宗教的呪術的な技術の家系のようだ。賀茂氏と葛城の地とは関係がありそうだが、賀茂氏はいろいろな系統があって、はっきりしない。そんなことで、役小角に箔をつけるため賀茂氏を持ってきただけではなかろうか。何にしても、「役の」とは「どこかの分家の」という意味で、さほどの家柄ではないことを意味している。


「鬼神を思うままに使役」……「鬼神」とは何か。桃太郎に登場する角が生えた虎皮パンツをはいた赤鬼・青鬼など存在しないので、現代では、山中に住む非農耕の「山人」ということになっている。山中で若干の植物栽培・若干の動物飼育はしていたであろうが、里人のような農耕はしない人々である。家族単位の小集団で日本列島の山々に隠れるように住んでいた。


 この非定住型山人は明治・大正時代も存在し、政府は「定住化」「戸籍作成」に苦労した。最後の山人は戦後まで生きていて、「生活保護のアパート暮らし」をさせ、山人は絶滅した。役小角は、山人と濃密な交流があった、ということだろう。彼らから、「山人の知識」を吸収したことだろう。伝説では役小角が「陀羅尼輔」(だらにすけ)を考案したとされている。昭和30年頃までは、我が家にも腹痛を治す「陀羅尼輔」が常備薬として置いてあって、「だらすけ」と呼んでいた。役小角は、山人から腹痛止めの薬草知識を学んだのだろう。


「韓国連広足の師匠」……役小角は韓国連広足の師匠であった。韓国連広足は実在の人物で、732年に、朝廷の呪術師として典薬頭に任命されている。典薬頭とは、朝廷の医療・調薬を担当する典薬療(てんやくりょう)のトップである。したがって、役小角の呪術能力(先端医薬能力)は超一流であったことがわかる。


 こうしたことから、『続日本紀』の文章から、私は次のように推理する。


 葛城の地に生まれた役小角は、山林修行に入った。当時は、山林修行をすれば、呪術が身につくと信じられていた。高尚な学問など関係なく山林苦行をすれば、呪術を体得でき、人々の病気などの苦をなくすことができると信じられていた。現代で言えば、先端医療を獲得できるのだ。役小角が生きた時代は、『続日本紀』の随所に書かれてあるように、毎年のように、どこかで疫病大流行である。さらに、律令国家の租庸調の重税が農民にのしかかっていた。葛城の地の人々は、「昔々、葛城氏が力を持っていたころは、重税などなく幸福な生活だった」と言い伝えられていた。役小角は、山林修行で、験力を得て、人々の病気を直し、かつ数々の奇跡を行った。葛城の人々は、役小角を崇拝した。


 国家権力は、それを恐れた。中国では、民間新宗教が起爆剤となって、大規模な騒乱・内乱が発生した、それも何回も発生した。朝廷の権力者達は中国のそんな歴史を知っている。それゆえ、役小角は弾圧され流罪になった。


(3)『日本霊異記』


 しかし、時代は、国家鎮護の仏教から個々人を救済する仏教へと転換されつつあった。さらに、山林苦行で体得する呪術的密教の高僧の何人かは天皇の側近として活躍するようになった。さらに、十一面観音や如意輪観音(腕が6本)など、説明もなく初めて見れば「怪物」の仏像も盛んに建立された。怪物仏像と呪術密教は、何かしら似た者同士なのだ。最澄も空海も唐から帰ってきた。呪術的密教、山林修行密教は、大流行である。『日本霊異記』に登場する役小角の姿は、反逆者ではなく、スーパーマンとなった。ノンフィクション役小角は、フィクション役小角になった。


『日本霊異記 上巻第28』孔雀王の咒法(じゆほふ)を修持して異(めづら)しき験力(げんりき)を得、以て現に仙と作(な)りて天を飛びし縁


 役の優婆塞と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役の公(きみ)で、今の高賀茂朝臣はこの系統の出であった。


 生まれつき賢く、博学の点では郷里で一番だった。仏法を心から信仰し、もっぱら修行につとめた。いつも心に願っていることは、五色の雲に乗り、大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人たちと一緒になって、永遠の世界に遊び、花で覆われた庭で遊び、心身を養う気を吸い込むことであった。


 そのため、初老の40余歳で、なおも巌窟(いわや)に住んでいた。葛で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食べ※①、清らかな泉で身を清めなどの修行をした。種々の欲望を払いのけ、孔雀経※②の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけることができた。また、鬼神を駆使して、どんなことでも自由自在になすことができた。


 ※①松の葉のレシピは多くあります。昔から薬用に利用されている。松の葉だけでは生きられないでしょうが、それなりに食べられます。

 

 ※②孔雀経を私は読んだことがないが、孔雀明王の写真は見たことがある。孔雀の背中に乗り、一頭四臂(頭が1つ、腕が4本)の姿である。孔雀は毒虫・毒蛇を攻撃する習性があり、それが神格化したようだ。真言宗系密教では、いろいろな呪法があるが、孔雀明王を本尊とした孔雀経法が最も重要とされた。


 多くの鬼神を誘い寄せ、「大和の国の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せ」と命じた。そこで鬼神たちは嘆いた。文武天皇の御代に、葛城山の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)が人に乗り移って、「役の優婆塞が陰謀を企て天皇を滅ぼそうとしている」と告げた。


 ※この部分がどうもよくわからない。平安時代の読者も、そんな感想を持ったに違いない。その疑問の答えは、後述の『今昔物語集』に書かれています。


 天皇は役人を差し向けて逮捕しようとしたが、験力によって逮捕できなかった。それで、役の優婆塞の母を捕らえた。優婆塞は母を許してもらうために、自分から出て来て捕まった。そして、伊豆島へ流された。そこでの優婆塞は、海上でありながら陸上のように走った。また、体を高い山に伏して、飛ぶ姿は羽ばたく鳳凰のようであった。昼は勅命に従って島内で修行した。夜は駿河国の富士山に行って修行した。


 しかれども、優婆塞は刑罰を許されて都近くへ帰りたいと願い出たら、逆に、死刑が言い渡されそうになったが、富士山に逃れて死刑を免れた。伊豆島へ流されて、3年になった。この時、朝廷の慈悲により恩赦があって、太宝元年(701年)正月に朝廷の近くに帰ることが許され、ここでついに仙人となって天に飛び立った。


 さて、我が国の人、道照法師(629~700)が勅命を受けて、仏法を求めて大唐へ行った。あるとき、法師は500匹の虎の招きを受けて新羅に行き、その山中で法華経を講じた。その時、虎衆の中に人がいた。法師が「誰そ」と問うと、それは役の優婆塞であった。法師は、「我が国の聖人なり」と思って、高座より下りて探したが、見つからなかった。


 ※道照(=道昭)は、唐で玄奘三蔵ととても親密になったことで有名。行基(668~749)は道照の弟子である。『日本霊異記』の作者は、行基の弟子の景戒である。行基も道照の弟子、役小角も道照の弟子、そんなことを景戒は意図していたかも知れない。


 例の一言主大神は、役の優婆塞の呪文で縛られてから、今に至るまで縛めが解けないでいる。この優婆塞が行った不思議な現象は、驚くほど数が多すぎて、省略します。仏法の験術が広大であることがよくわかる。仏法に帰依する者は必ず証(あかし)として体得します。

 

 ※一言主大神は、役の優婆塞に完璧に負けたのである。つまり、旧来の日本神様は、もう頼ってもダメですよ。これからは仏教ですよ。そんなメッセージです。


(4)『今昔物語集』


 くどいようだが、役小角の事実は『続日本紀』だけである。前段の『日本霊異記』を読めば、誰だって創作話とわかる。それ以後の多くの役小角伝記も、すべて創作話と断定してよい。だから、「楽しいフィクション」である。現代も、「新しいワクワクどきどきの役小角フィクション」が作られている。


 それはそれとして、前段の『日本霊異記』の疑問のことである。多くの鬼神を集めて、「橋を作れ」と命じたら、一言主大神が讒言した……という部分に関しては、何かよくわからないのであるが、『今昔物語集』にはわかりやすいように書いてある。


『今昔物語集』は、平安時代末期に成立した説話集です。作者は不明です。構成は、天竺(インド)の部が巻第1~巻第5、震旦(中国)の部が巻第6~巻第10、本朝(日本)の部が巻第11~巻第31となっている。本朝の部は、本朝仏法部(11~20)と本朝世俗部(12~31)に分けられている。


 本朝仏法部巻第11の1番目の説話は聖徳太子、2番目は行基、3番目が役小角である。その後は、4番が道照、5番が道慈(奈良時代前期に僧)、6番が玄昉(橘橘諸兄政権を吉備真備とともに支えた僧)、7番が婆羅門僧正(インドから行基=文殊菩薩に会いにきた僧)、8番が鑑真、9番が弘法大師(空海)、10番が伝教大師(最澄)となっている。


 役の優婆塞呪を誦持(じゅじ)して鬼神を駈(か)ること

 (説話の前半は『日本霊異記』と同じ)


 ところで、金峰山の蔵王菩薩(蔵王権現)は、役の優婆塞の祈祷によって生じた菩薩である。それで、常に葛木山(『日本霊異記』では葛城山となっている)と金峰山とを往復していた。そのため、優婆塞は(葛木山の)多くの鬼神を召し集めて、「私が葛木山から金峰山へ参るのに便利なように橋を架けよ」と命じた。鬼神たちは、これを承って嘆いたが、許してくれない。さらに責められるので、やらざるを得なかった。


 鬼神たちは大石を運び集め、準備をし、橋を架け始めた。そのとき、鬼神たちは優婆塞に申した。「我々は極めて見苦しい姿形です。それで、夜々にこっそりと橋の工事をしたいと思います」。そして、夜々に急いで工事を始めた。このとき、優婆塞は葛木山の一言主の神を呼び、「お前はいったい何の恥じることがあって姿を隠すのか(注・屁理屈をついて夜に工事をするだとー、工事が遅れるどころか完成しないぞ!)」と詰問した。


 一言主の神は、「そう言うならば、橋は造れません」と言った(注・山は独立しているから山である。橋で結ばれたら、片方が従属的地位になる。蔵王菩薩(蔵王権現)の金峰山のほうが格上だから、一言主の神は橋を造りたくない)。優婆塞は怒って、呪を以って一言主の神を縛りあげ、谷の底に置いた。


 その後、一言主の神は都の人に乗り移り、「役の優婆塞はすでに謀略をもって国を滅ぼそうとしています」と訴えた(その後の話は、『日本霊異記』とほぼ同じ)。

 

 どうやら役小角はまだ飛行術を会得していないため橋を欲したわけだ。それはそれとして、一言主の神は、葛木山全体の神であるから、自動的に、葛木山に住む鬼神(=山人)の神でもあった。「鬼神の心」=「一言主の心」というわけだ。


 それにしても、鬼神がかわいそうだな、と思ってしまう。取り越し苦労です。本当は『続日本紀』にあるように、水を汲んだり薪を集めたり、といったことですから。しかし、『続日本紀』の鬼神の話は、やがて、鬼子母神のような前鬼・後鬼の話に進化する。あるいは、前鬼・後鬼は陰陽論の陰・陽になり、両鬼が5人の子鬼を生み木火土金水の「五行」となり、陰陽五行へ進化する。


 役小角のフィクションは、これからも奇想天外に創作されるだろうな……。役小角と令和猿飛佐助の闘い、陸軍中野学校超能力開発秘密機関と役小角、役小角対バイオアマゾネス……空想はてしなし、何でも可能、これぞ仙人なり。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。