新型コロナウイルス禍に翻弄されるなか、政府に対して辛口の提言を続けているのが、東京都医師会の尾﨑治夫会長だ。年末ギリギリまでメディアに引っ張りだこだが、10ヵ月にわたって取材を続けてきた筆者は、ここへきて尾﨑氏が、かつてないほど苛立っているのを感じる。真剣に自粛に取り組む人がいる一方、「単なるかぜでしょ」と、一部の偏った情報を信じる人たちとの間で分断化が進み、繁華街の人出も減らない。東京の新規感染者数が1日1000人に達する勢いを見せているなか、尾﨑氏は、自身の訴えが都民に届かないもどかしさを感じているようだ。この1年を振り返るとともに、尾﨑氏の言う「分断」の意味を考えてみた。
「もう低姿勢はやめる」
東京都の1日あたりの新規感染者数が、はじめて500人台を超えて531人となったのが、11月19日のこと。3週間後の12月13日には、1週間の平均感染者数が500人を超えるなど増加の一途をたどり、インタビューをした25日には、2日連続で800人台を超えた。
12月15日、尾﨑氏は「『stay home』ではなく『let’s go home』」と題して、20代~50代の人に、こう呼びかけた。
「感染がなかなかおさまってこない大きな原因の一つに、20歳代から50歳代の方が、飲み会等で活発に動き回った結果、感染しても無症状で気づかないまま、家庭内や施設内に持ち込んでいるケースが多いと言われています。必要な買い物等以外は寄り道しないで、『家に帰る let’s go home』運動に参加しませんか」(抜粋)
このころは、まだ余裕があった。2日後、自身の愛犬「ピノ」との会話の体裁で、尾﨑氏はFacebookにこう書き込んだ。
ピノ 「このままいくと1000を越えちゃいますね。心配だな〜。何かできることはありませんか。犬の私だって心配です」
尾﨑氏 「ありがとね。でもきっと東京の人もわかっているよ。若い人も含めて、皆頑張るよ。安心しな。ピノ」
これまでの記者会見でも、「飲みに行くならEvery ten days」と自制を促し、「これ以上感染者や重症者が増えれば、コロナ患者も一般患者も両方守れない、そういう状態が近づいている」と警鐘を鳴らしている。
だが、いっこうに人の流れは減らない。年末を迎えた渋谷センター街の夜の人流は、感染が拡大する前の1~2月の平均と比べて30~40%減っているものの、緊急事態宣言の直前と比べれば2倍近い数値となっている日もある。新宿・歌舞伎町も池袋も、渋谷ほどではないが、同様に増えている。
尾﨑氏の嘆きのひとつは、ここだ。
「昼の渋谷が混んでいたって、あまり危険視する必要はない。買い物やデートだってあるでしょう。でも夜9時は、どう考えても買い物ではなくて飲食。要するに、世の中の流れはまったく変わっていないということなんですよ。ぼくたちの声は、もはや若い人たちには届いていない」
やがてFacebookへの投稿も、口調の厳しさを増していく。19日の投稿では、それまで「お願いします」と敬語を使っていたのが、この日の投稿は「お願いする」に変わっていた。
「顔は笑っているけど、心は怒っている。悲しんでいる。1日1000人の感染者は現実だ。2000人だって悪夢じゃない。若い人はコロナも軽症、普段持病もないだろう。でもお父さん、お母さんはどうだ。おじいちゃんおばあちゃんはどうだ。皆に可愛がられて育ったんじゃないのか。何故、彼らを守ろうとしない。ここ3週間が本当の勝負だ。真剣勝負だ。もう低姿勢なお願いモードはやめる。ここで踏ん張れなければ、医療者の心も折れる。真剣に目覚めて欲しい。心からお願いする」(抜粋)
20日にはテレビ出演で「真剣勝負の3週間」と声を荒げて訴えた。21日には日本医師会の中川俊男会長と一緒に「医療緊急事態宣言」の会見に出席し、同日、都医の会見も開いた。
ところが、会見の模様がニュースで報じられると、ニュースサイトやSNSで医師会に対する批判が殺到する。これ以上の自粛を求められることに対する反発や、なかには、新型コロナウイルスは風邪やインフルエンザと同じで、それほど騒ぐ必要はないという記述もある。
確かに飲食店や旅行業に関係している人たちにとっては、「東京発着のGoToトラベルは一時停止をすべき」などと訴えていた尾崎氏に反感を覚えるかもしれない。第一波のときはまだ経営的に耐えられた店も、年末の稼ぎ時に「飲みに行くな」と言われ、行政から時短要請されば死活問題だ。夢を奪われようとしている人たちの悲鳴も、聞こえてくる。
これについて尾崎氏は、「ずっと経済を止めるのではなく、いまは一時停止にする代わりに、補償を充実するべき。このまま医療が崩壊したら、コロナ感染者だけでなく、救急で運び込まれた患者も救えなくなる。急がば回れなんです」と話す。
「利他主義」こそが感染拡大を防ぐ
それに加えて尾﨑氏が気にしているのは、「単なるかぜやインフルエンザだ」と主張する人たちだ。そう主張する一部のインテリ層に、同調する人たちが少なからずいるようなのだ。夜の街の人流が減らないのは、大勢で飲み歩く人たちがいるからで、尾﨑氏には、それが「分断」と映る。
飲食や観光業界の人たちの生活と、感染拡大防止のどちらを優先するのか。今後も、そのさじ加減をめぐって世論の二極化が進むことは避けられない。これは経済維持と感染対策という相反する命題を抱えるパンデミックの宿命でもある。
ロックダウンで強制的に外出を禁じる国々がある一方、日本では私権を制限する強制的な施策に敏感であることは、ある意味で健全でもあるわけだ。今後も、この尾﨑氏の言う「分断」は色濃く世相を照らすに違いない。
今年4月にフランスの経済学者でもあり思想家でもあるジャック・アタリ氏がNHKのETV特集「緊急対談―パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望」のなかでいみじくも言っていたことが、尾﨑氏の主張と重なることに気付いた。アタリ氏は経済や健康、民主主義の危機を迎えているいま、連帯のルールが破られる可能性を指摘したうえで、いまこそ必要なのは利他主義だと指摘する。
「協力は競争よりも価値があり、人類はひとつであることを理解すべき。利他主義という理想への転換こそが人類のサバイバルの鍵となる。自らが感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要がある。利他的であることは、ひいては自分の利益にもなる」
尾﨑氏は、きっとこのことを言いたかったに違いない。
一方、より現実的な問題として、開業医の代表たる医師会の組織に対して、「医療がひっ迫しているのに、開業医はなにをしているのだ」という不満が表出していることに対しては、どう考えればよいのか。
筆者自身、近所の診療所の入り口に、こんな張り紙が掲げられていたのを見つけ、写真を撮って保存している。
「風邪症状(発熱など)がある方の受診をお断りしています」「かるいのどの症状などでも受診をお断りしています」
こういった受診を拒否している診療所があることを、10月13日の記者会見で尾﨑氏に尋ねてみた。
尾﨑氏は「第一波では、そういうこともあったと聞いていますが、『地域医療に邁進していきます』と開業したわけだから、診ることは義務ではないかと思っています。もし、自分の好きにやりたいのなら、保険診療を止めて自由診療にすればいい」と厳しく批判した。仲間意識の強い医師会のなかでこの種の苦言は、会長という立場を考えれば不利に働くはずだ。だが、気にする気配はない。
都医の会員の半数は開業医だが、残りは勤務医だ。尾﨑氏は、「医師会が開業医の団体だという誤解があるんだよ」と不満そうだが、実際に医師会を取材している私たちメディアにとっては、医師会は開業医の利益を優先する団体だ。診療報酬改定の交渉のなかでも、病院と診療所の利益のどちらの利益を優先するかと言えば、それは開業医であることは間違いない。
だが、筆者が尾﨑氏の取材を続けているのは、このコロナ禍で、その既成概念を裏切ってくれる数少ない医師会幹部の一人であるからだ。
第一波のときは、右往左往していた医療機関だが、第二波以降はコロナ感染者を受け入れている一部の病院が疲弊し、保健所がマヒしていくなかで、開業医を動員してPCR検査センターを各区や市部ごとに設置したのが都医だった。宿泊療養のスキームを編み出して感染者が収容されるホテルの管理を担ったのも都医だった。こういった「東京方式」は、やがて全国のモデルとなった。
インフルエンザシーズンを迎えるにあたって、インフルとコロナの両ウイルス検査ができる診療所を募ると、約3000の診療所が手を挙げた。そのうち1300の診療所が年末年始の診療を担うことも決まった。
将来の日医会長の呼び声が高い尾﨑氏にとって、政府批判やSNSを駆使しした過激な呼びかけは、反発を招きかねない危険な賭けでもある。だが、本人は意に介さない。
「誰が(日医会長などと)言ってるんだ。そんなことより、コロナ禍に都民の命を救うことの方が大事だろ」
その尾崎氏が、年末に向けて感染拡大を食い止めるうえで「真剣勝負の3週間」と呼びかける緊急記者会見を開いていたさなかの22日夕方、日医のウエブサイトの問い合わせ欄に、殺害予告のメールがあった。
「尾﨑治夫必ず殺害します」
尾﨑氏本人は、いたって冷静だ。
「日本だったら銃じゃなくて刃物かな。さらしでも巻くしかないか」
大みそかは、テレビの討論番組に出る予定だ。
尾﨑氏は、懲りていない。
ノンフィクション作家・辰濃哲郎