●PCR検査を求めるのは信仰ではない


 未だに収束が見えない新型コロナ感染。見えないどころか、日本では第3波は1波、2波とは比較にならない猛威である。感染拡大の温床となり、そこで露わになっているのは、PCR検査の不備と、発熱患者の放置だ。


 感染症医療、医学者の重鎮のひとりは、昨年、ある週刊誌のインタビューで「PCR検査信仰」という言葉を使って、PCR検査を求める世論を嘲笑った。クラスターの濃厚接触者重点のPCR検査で感染が抑制されているなら、「信仰」と一般人を嘲笑しても構わない。しかし、実態をみれば感染は拡大するばかりであり、社会不安は募る一方だ。


 首都圏の緊急事態宣言はなぜ再度出されているのだろうか。この「信仰」発言に、筆者は、医師の万能感やパターナリズムを読み取る。そして、彼らは、この新型コロナ対策では明らかに間違えた。じっさい、今までのところ一般人の「不安」のほうが正解だったのだ。


●健康主義者たちのエスケープ


 この「間違い」の構図を作っているのは、医師の万能感と相変わらずのパターナリズムだ。筆者は日本においては、そこにある種の差別意識も存在すると思う。医師は喫煙の害を説いてきた。しかし喫煙者は長く減らない時代があった。長寿社会となって、日本人はなぜ長生きかという話になると、1980年頃までは医師会などは、医師のおかげと国民皆保険制度だと言ってきた。


 しかし、長寿者が増え、寝たきり者が医療費の要因だとなると、とたんに「健康長寿」を言い始め、適正な診療を求め、「健康」を説き始めた。コロナ時代でも、健康主義がイデオロギーとなって大手を振っていたつい最近でも、医療者は一般人を無能者として差別するのだ。


 何度も言う。健康主義も、現況の災厄も、結局は医療者やそこを中心とする官僚、為政者は、市民、一般人、国民を差別し、なめている。そうでなければPCR検査を求める民に向かって「PCR信仰」などと言うはずもない。


 タバコはもはや喫煙者が2割を切るようになると、健康を害するものの筆頭格ではなくなり、医療費の財源は底を尽き始め、医師の存在は薄くなり始めていた。そこに新型コロナ感染が起きた。不思議に思わないか。これだけ医療機関があるのに、なぜPCR検査ができないのか、なぜ医療逼迫が起きるのか、なぜ発熱患者はかかりつけ医から遠ざけられるのか。


 たぶん、この時代、コロナの時間が長引くにつれ、ついさっきまであった健康主義は何の味方にもならず、ほとんどの医師はあてにできず、一部の医師と看護師の献身的な行動だけで、日本のコロナ医療が回っていることに気付くはずだ。


 PCR検査を信仰だといった医学者は、そのエビデンスを明らかにしないばかりか、実態が逆さまになっていることに関する釈明もしない。「リンクを追う」とはどう意味だったのだろう。いまや、日本中がクラスターになり始めているというのに。


 2020年から少しずつ始まっている健康概念の崩壊と、医療への不信は今のところ、「差別」になって姿を現し始めている。すでに昨年初頭には、米国大統領によって、人種差別を政治的課題にすり替えている。「コロナはアジア人が持ち込んだ」という偏見と差別意識をもたらした。欧米で多くの東アジア系の人々が迫害された。


 国内でも、優生主義による不妊手術のあくどさを国がようやく認めたが、医師の間にはそこへの思慮も何もない。健康でないことを理由にして自殺に手を貸す専門家としての医師の存在は象徴的だった。


 つまり、「健康」、ないしは「健康であること」がイデオロギーとして機能したとき、不健康は敵であり、排除されなければならない標的であり、その原因は根拠もなく特定して構わなくなる。クラスターの濃厚接触者でなければ検査を受ける資格はなく、すなわち健康であるからPCR検査を求めるのを「信仰」というのはパラドックスであり、それこそ何やら似非宗教の匂いすら筆者は嗅ぎ取る。似非宗教は人々を階級化し差別する。


『健康禍』を著したペトラ・シュクラバーネクは25年以上も前に「健康主義」は宗教であり、イデオロギーになったと喝破したが、コロナ時代において、たぶんそんなことはないが、健康イデオロギーの時代は終焉を迎えるかもしれない。


 こうすれば感染しない、こうすれば発熱しても医療を受けられると誰も言えなくなった。不安は病気だ。今やみんな病気である。そこから救いを求めたい、きわめて素直な願望を「信仰」と切り捨てるのは、2019年まで存在し強大な宗派と化した「健康主義」が侵される脅威を感じ取っているからかもしれない。


●現代の幸福「健康と若さ」


 シュクラバーネクの主張を、盲目的に受け入れることは幼稚かもしれない。しかし、彼はそうした主張、批判を重ねたうえで「健康を最大化する試みと、苦痛を最小化する試みの間には千里の隔たりがある」と語っている。


 健康を最大化すれば苦痛は最小化されるというのは、当然のことながら成立しない。身体的に健康が最大化されても、それゆえに孤独や孤立の苦痛が最大化している人もいる。心が満たされていても、自分の意思すら伝えられない身体的苦痛の渦中にある人もいる。


「健康」主義は医療費という厄介な化け物から市場を守るために生まれてきたとも考えられる。しかし、健康を最大化しても苦痛は最小化しないのだ。人はいつか病に倒れ、死に至る。それでも健康主義は市場を作る。タバコを吸うな、酒を飲むな、塩分を控えよ、糖質は制限せよ、便秘をするな、血圧を下げよ、コレステロール値を下げよ、運動をせよ、脳トレを欠かすな。そのために生まれたのがこれですよ、という「新製品」の数々。


 そして、この健康主義は「健康ではない」カテゴリーを勝手に作り始め、健康ではないという自覚を持つ人を窮地に追い込み、生きていたくはないと思わせ、生きることをやめることに手を貸す医療者まで現れ始め、いつの間にか「安楽死」を肯定する風潮を作り出そうとしている。


 健康主義には「若々しさ」という附属品もついている。筆者は主観的ではあるが、「健康で若く見える」ことが幸福とはどうしても思えない。健康でも若く見えない人はいるし、若く見えるが病に苦しむ人もいる。健康と若さがイコール幸福だという単純なロジックは信じない。しかし、世界はその単純さに舵を切ろうとしている。


 とくに、コロナによって健康主義に一定の距離ができるとしても、全体主義に向かう方便に「健康」や「生活習慣」が使われることを危惧する。コロナ禍では、「三密を避ける」「マスク着用」「手洗い」がほぼ常識化し、今やモラルとなっている。こうした全体主義が馴染んできたときに、コロナが収束したらどうなるか。清潔が重視され、新たな「生活習慣」を見張る自粛警察が跋扈するのを予感する。


 コロナ以後は生活習慣を規制する「健康主義」は少しトーンダウンするが、そこに「清潔」が入り込むだろう。新型ウイルスの循環は高回転となることが予測されているし、たぶんそれは非常にリアリティに富んだものだ。しかし、清潔であることが通常になると、人間が克服してきたウイルスや菌も復活するかもしれない。そのリスクがないと言い切れるだろうか。


 コロナ禍が生み出す新たな「健康主義」は、「清潔」だろうと思うが、よくよく考えれば何だかおかしいと気が付くはずだ。新型コロナは人と人との接触で感染が広がった。つまり、人間そのものが不潔な存在なのかもしれないのだ。結局、地球を守るには人間をなくさなければならないという発想も生まれてくるだろう。たぶん、とりあえず「コロナ後」は「健康主義」というイデオロギーに、「清潔派」というカテゴリーが加わるだろう。そして、それは環境保護活動と連動する予感がする。


 新型感染症は「持続型社会」運動のストッパーか、その反対なのか。どちらだろうか。とりあえず、健康主義者たちが、PCR検査を求める市民を「信仰」と嘲笑ったことだけは忘れないでおこう。(終)