(1)アイヌと和人の抗争


 アイヌで一番名高い人物は、シャクシャイン(1606?~1669)だと思う。1669年に、日高地方のいち部族長であるシャクシャインは、松前藩に対して一斉蜂起を呼びかけた。一部の部族を除き、アイヌ諸部族は一斉蜂起したが、結局は敗北した。これを「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)と呼び、アイヌ史上、最大の蜂起と言われる。


 古代史では、どうなっているか。


 古代にあっては、「蝦夷征討」なる歴史がある。7世紀中期の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、3回にわたって蝦夷征討を行っている。


 774年から811年にかけては、「38年戦争」とも呼ばれる蝦夷征討となる。この時、有名な坂上田村麻呂(758~811)が登場する。


 さて、この「蝦夷」とは何か、である。古代中国では、中央政権からみて北から東方向の政権に服さない地域の人々を「蝦夷」と呼んだ。大和政権もそれを真似て、北陸・関東北部・東北・北海道・樺太に住む人々を「蝦夷」と呼んだ。要するに、人種的に関係なく、北から東方面で朝廷の支配に服さない人々が「蝦夷」であった。


 だから、古代の「蝦夷」には、和人もいればアイヌもいる、ということです。


 なお、「蝦夷」の呼び方であるが、古代史では「えみし」と呼ぶが、中世以降、「えぞ」と呼ぶようになった。そして、「えぞ」と「アイヌ」が同一視されるようになった。人種的差別意識が濃厚になっていったのだ。


 さて、人種的に「アイヌ」とは何か。「アイヌ」はアイヌ語で人間を意味します。だから、「アイヌ人」とは言わない。「アイヌ人」と言うと「ヒトヒト」になって、おかしな言葉になるからです。


 和人とアイヌの差異に関しては、いろんな学説がある。例えば、「和人は縄文人+弥生人がベース。アイヌは縄文人・続縄文人がベースのようだ」、あるいは「アイヌはモンゴロイドには違いないが、モンゴロイドでも新モンゴロイドではなく古モンゴロイドではなかろうか」など……、「和人とアイヌは別民族」ということは一致しているが、今のところ「アイヌ」に関して、明確な学説は定まっていないようだ。もっとも、和人(倭人)の成立でも、いろいろ学説があるようで、この種のことは難しいらしい。


 さて、和人とアイヌの抗争であるが、その前に一言。アイヌで歌われる叙事詩・ユーカラ(ユカㇻ)には、少年が主役の英雄叙事詩が多くある。敵役は和人ではなく、どうもオホーツク人のようだ、という説を読んだことがある。3世紀から13世紀にかけて、オホーツク海沿岸に海洋漁猟民族のオホーツク文化が栄えた。その担い手がオホーツク人である。オホーツク人が如何なる民族が定まっていないが、1000年間にわたって、アイヌと縄張り争いをしたのだろう。オホーツク文化は13世紀に忽然と消え去るが、その原因は謎である。


 アイヌと和人は、交易が盛んになっていった。同時に和人の力が増大していった。そして、衝突が発生する。細かい衝突はいろいろあったろうが、蜂起と呼ばれる大規模な衝突は、3回ある。


 1457年のコシャマインの戦い。現在の函館辺りの首領コシャマイン(?~1457)が蜂起したが、コシャマイン親子が函館の西隣の北斗市の七重浜で、弓で射殺され蜂起は失敗する。


 江戸時代になると、松前藩が交易を独占した。独占により交易はアイヌにとって極めて不利になった。ということで、冒頭に記述した、1669年のシャクシャインの戦いとなる。日高地方のいち部族長であるシャクシャインが松前藩に対して一斉蜂起を呼びかけ、松前城に向かって進軍したが失敗した。


 1789年には、北海道の道東で、クナシリ・メナシの戦いが発生した。クナシリは国後島、メナシは目梨(知床半島の国後島側の郡)である。和人商人・飛騨屋の搾取が酷すぎるので蜂起した。首謀者は処刑されたが、飛騨屋は交易権利剥奪、労働条件は若干改善された。しかし、改善されても、この地のアイヌは奴隷以下の生活であった。


 幕末・明治の探検家・松浦武四郎(1818~1888)は、1845~46年に知床を訪れ、『知床日記』を出版したが、そこにはアイヌの絶望的な悲惨が記されている。アイヌ女性は14~15歳になると国後島に行かされ漁師達の慰安婦にされ、人妻は会所で番人達の妾にされ、男達は離島で5~10年間酷使され、独身者は妻帯も難しい。日記だけでなく、箱館奉行所へアイヌの悲惨な境遇の改善を嘆願している。しかし、どうにもならなかった。


 なお、松浦武四郎は北海道の名付け親で、北海道各地に記念碑などがある。また、彼の書斎は、あれこれの経緯の末、国際基督教大学(東京都三鷹市)構内に保存されている。


(2)困窮化一途


 アイヌは基本的には狩猟採集民族である。そして、周辺の他民族と交易(物々交換)をしていた。交易の条件が江戸時代になると悪化したが、基本的には、自然と共生するおだやかな生活であった。しかし、幕末になるにつれて交易条件は極度に悪化した。長期の強制労働も通常化した。


 さらに、蝦夷地が天領になり和人が増え、また、幕末=開国によって、人の移動・接触が激増し、各種感染症が猛威を振るって、アイヌの人口は激減した。1800年頃は約2万4000人であったものが、明治維新の頃には約1万9000人となり、その後も減少が続いた。


 明治になると、北海道は国有地となり、開拓民(和人)に格安で払い下げられた。アイヌにも土地が分配されたが、アイヌにとっては「土地が私有財産」という観念が理解できず、和人に簡単にだまされてしまうのが常態化した。基本的に狩猟採集と物々交換経済であったものが、急に貨幣経済、自由競争、利子、担保などの近代経済システムに放り込まれたわけで、そんなもの理解できるわけもなく、眼前の焼酎1本、酒1升、米1斗のため、何が何だかわからないまま無産者続出となった。


 明治政府も、アイヌ保護救済の政策を実施するが、数千年か数万年か、太古から続いた狩猟採集民族に、急に貨幣経済だ、農業をせよ……そう簡単に変化できるわけがない。さらに、アイヌへの差別も当然のこととされ、アイヌの困窮は進行した。アイヌの運命は、滅びしかないのか……。


 希望は、知里幸恵(ちり・ゆきえ、1903~1922)である。アイヌに関心のある人は、必ず彼女を知る。シャクシャインの名を忘れても、知里幸恵を知ってほしい。アイヌの文化も言葉も風前の灯であった。そこに、若き知里幸恵が『アイヌ神謡集』を書き上げた。書き上げた、その日の夜、心臓発作で亡くなった。19歳であった。1年後に出版された。そして、アイヌの伝統文化の生き残りへと連なった。


 最初に、『アイヌ神謡集』の序を掲載します。


 序


 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天智でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。


 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山を踏み越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐもどりの波、白い鷗の歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。


 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、純(にぶ)りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。


 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。


 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがて来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。


 けれど……愛する私たちの先祖は起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。


 アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。


 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。


 大正十一年三月一日

 

 知里幸恵


 そして、13の神の謡となります。左ページにアイヌ語のローマ字、右側ページに日本語訳となっています。題名のみ掲げておきます。


梟の神の自ら歌った謡「銀の滴降る降るまわりに」

狐が自ら歌った謡「トワトワト」

狐が自ら歌った謡「ハイクンテレケ ハイコシテムトリ」

兎が自ら歌った謡「サンパヤ テレケ」

谷地の魔神が自ら歌った謡「ハリツ クンナ」

小狼の神が自ら歌った謡「ホテナオ」

梟の神が自ら歌った謡「コンクワ」

海の神が自ら歌った謡「アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!」

蛙が自らを歌った謡「トーロロ ハンロク ハンロク!」

小オキキリムイが自ら歌った謡「クツニサ クトンクトン」

小オキキリムイが自ら歌った謡「この砂赤い赤い」

獺が自ら歌った謡「カッパ レウレウ カッパ」

沼貝が自ら歌った謡「トヌペカ ランラン」


 最後に、金田一京助の「知里幸恵さんのこと」という後書がある。


『アイヌ神謡集』は、現在、岩波文庫になっているが、弟でアイヌ語学者になった知里真志保の「神謡について」という解説が載っている。


(3)その一生


 知里幸恵は、1903年(明治36年)、現在の北海道登別市(室蘭市の東)で生まれた。祖母・モナシノウクはユカラクルであった。すなわち、アイヌの叙事詩・ユーカラの謡い手であった。叙事詩・ユーカラは膨大な量であった。文字のない時代、あるいは文字のない民族では、膨大な過去・知識・価値観を叙事詩として口承することが、しばしばみられる。そして、豊かな美しい口承文化へと発展していく。ユカラクルである祖母の娘、そしてその娘・知里幸恵もユーカラを常に聞く環境にあった。テレビもラジオもない時代である。美しいユーカラを聞くのが、心温まる最高の楽しみであった。


 6歳で現在の旭川市にある「近文(ちかぷに)コタン」で一人暮らしの伯母(母の姉)金成マツ(1875~1961)の養女となる。祖母・モナシノウクも近文コタンの金成マツの家に住むことになった。金成マツの家は、近文のキリスト教の伝道所でもあった。


 少し横道に逸れますが、「近文コタン」について。


 コタンとはアイヌ集落のことで、「近文コタン」は、明治20年にアイヌ保護のため近文の地(現在は旭川市)に、上川アイヌなど点在するコタンを集約させた。約50戸が移住して「近文コタン」となった。約1.6㎢がアイヌに無償供与される予定だったが、陸軍第7師団の移転計画、鉄道敷設、近隣和人の人口増……すったもんだの騒動が続いた。戦後の農地改革では、アイヌ保護地が「アイヌ地主」から「和人小作人」へ移った。


 現在、旧「近文コタン」のアイヌの人口は100人に満たないようだ。旧「近文コタン」の旭川市北門町には「川村カ子トアイヌ記念館」がある。


 川村カ子ト(かねと、1893~1977)は、上川アイヌの長の子で、苦学して国鉄の測量技師となり、難工事であった「三河川合・天竜峡」の測量をアイヌ測量隊で実行し、工事を完成させた。測量技師として蓄えた資金で、父が自宅を「アイヌ博物館」としていたのを「川村カ子トアイヌ記念館」として発展させた。アイヌ文化の資料館の最初のもので、敷地内には、アイヌ家屋を忠実に再現している。


 話を知里幸恵に戻して……。


 13歳、上川第五尋常小学校を卒業し、上川第三尋常高等科へ進んだ。当時、尋常高等科へ進むアイヌは、ほとんどいなかった。さらに、旭川区立女子職業学校に進学した。かなり成績は優秀であった。つまり、アイヌ語も日本語も極めて上手であった。


 15歳の時、金田一京助(1882~1971)が、金成マツの家に来た。金田一は誰も見向きもしないアイヌ語・ユーカラの研究者であった。金田一は、祖母・モナシノウクのユーカラを、夜遅くまで熱心に聞き取り記録した。


 その熱心さに幸恵は尋ねた。「ユーカラは、価値のあるものなのですか。そんなに熱心に取り組むべき価値のあるものなのですか」。


 金田一は答えた。「貴重な文学だ。このままでは、貴重なものがなくなってしまう」。


 金田一は、1泊して東京へ帰った。


 その頃から、幸恵は持病の心臓病が一進一退であったが、女子職業学校は無事卒業した。


 金田一とは手紙のやり取りがあった。そして、ある日、金田一からノート3冊が届いた。後世のため、アイヌ語をローマ字で書いて、と依頼されたのだ。幸恵はローマ字は読めても書くことができなかったので、伯母・金成マツからローマ字を習い、アイヌ語を書き始めた。1冊、その後、2冊と書いて、金田一に送った。金田一から、それを本にしたいと手紙がきた。


 1922年(大正11年)5月に、幸恵は、持病の心臓病をおして、上京して、東京・本郷の金田一宅に寄宿する。ノートを整理整頓したり、アイヌ語の学問的整理をしたり、英語を学んだり、忙しい日々となった。


『アイヌ神謡集』の原稿は完成したが、心臓病は悪化した。9月13日に、出版社から活字になった校正用原稿が届いた。9月18日、校正が終わった。その夜、幸恵は心臓発作で亡くなった。19歳であった。


 1923年(大正12年)8月10日、柳田國男(1875~1932)編集の『炉辺叢書』の1冊として出版された。


『アイヌ神謡集』は、まさに、命と引き換えの作品であった。


『アイヌ神謡集』は出版直後から、大反響であった。そして、『アイヌ神謡集』はアイヌ民族とアイヌ文化に光を与えた。アイヌ文化復活の転換点となったのだ。


 前述した「川村カ子トアイヌ記念館」も、そのひとつだ。


 伯母(養母)の金成マツは、金田一の勧めもあり、知里幸恵の遺志を継いでユーカラをローマ字で記録し始めた。その分量は膨大なもので、1959年に一部が『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として発行された。なお、1956年に無形文化財の保持者として受賞された。


 幸恵の弟である知里真志保(ちり・ましほ)は、アイヌ語学で、北大教授になった。


 萱野茂(かやのしげる、1926~2006)は、アイヌ人初の国会議員で、委員会においてアイヌ語で質問をした。彼は、直接的には金成マツや知里真志保の影響を受けたわけだが、やはり知里幸恵から誇りと勇気を得た人物である。1972年に二風谷アイヌ資料館を設立、1998年に『萱野茂のアイヌ神話集成』全10巻を発行した。


 また、アイヌ3大歌人と称される森竹竹一(1902~1976)、違星北斗(1901~1929)、バチュラー八重子(1884~1962)の活躍も、アイヌの社会的復権に足跡を残した。


 そして、1997年(平成9年)、アイヌ文化振興法が成立した。


 2010年(平成22年)、「知里幸恵 銀のしずく記念館」が、知里幸恵が生まれた登別にオープンした。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。