昭和史研究の名著を数多く書き残した作家・半藤一利氏が亡くなった。90歳の大往生とはいえ、前月のなかにし礼氏に続き、「あの戦争の代表的語り部」がまたしても他界、国の行く末に不安が込み上げる。私自身は大昔、代表作『日本のいちばん長い日』と出会い、あとは昭和史にまつわる対談本を何冊か読んだ程度だが、昭和期に成人したひとりとして「保守」という言葉に否定的感情を持たずにすんだのは、少なくとも20~30代のころまでは、半藤氏のように深い教養と誠実さを併せ持つ保守系文化人を何人も目にしたからだった。近年のエキセントリックな「ホシュ」とは、対極にいた人たちだ。


 もともとは文藝春秋社の編集者。月刊文藝春秋や週刊文春の編集長も歴任した人でもあり、今週の週刊文春は『歴史探偵の教訓、永遠に さようなら、半藤一利さん』と題し、見開きのグラビア特集をつくっている。文中には、やはり文春出身の後輩作家・竹内修司氏がコメントを寄せ、和歌や日本舞踊、版画など興味の幅が驚くほど広かったこと、原稿が誰よりも早かったこと、編集者として付き合った坂口安吾や司馬遼太郎、松本清張らから多大な影響を受けたことなどを明かしている。半藤さんが歴史を描くスタイルは、「(司馬、松本の)お二人から受け継いでいるのだと思います」と竹内氏は語る。


 サンデー毎日に長期連載を持つ保阪正康氏は、半藤氏より9歳年下だが、2人とも戦前・戦中の時代に主眼を置く昭和史研究者で、半藤氏が1950年代から旧軍の将官クラスに数多く聞き取りをし、保阪氏は70年代以後、中佐以下の佐官や尉官、下士官に膨大なインタビューをするという「ズレ」が存在した結果、2人の対談は、軍事作戦を裁可した側と起案した側の双方から歴史を確かめる作業になったという。その数は単行本だけでも計15冊、それ以外も含めれば50回ほどにも及んでいる。


 それほどに、戦争体験の風化と歴史修正主義の台頭に、2人は深刻な危機感を抱いてきた。保阪氏によれば、半藤氏のスタンスには「実証主義」と「一市民の目」という2つの柱があり、左翼の唯物史観であれ、右翼の皇国史観であれ、「史観をもって史実を裁断すること」を忌み嫌い、「権力者、有力者の目」で歴史を語ることを排したという。軍国主義、共産主義を念頭に置いてのことだろう、半藤氏は「一つの思想や哲学を信じてしまった者は、なぜあれほど狂信的になるのか」とも語っていたらしい。


 この保阪氏の追悼記事を読むと、私は自分がなぜ、彼らの書く作品を好み、史実の「つまみ食い」をする「愛国者」に抵抗を感じるのか、その理由が自分なりに整理される。「一市民の目」という点では、沖縄通いをした数年で、私もその大切さを痛感した。自分がもし、沖縄戦で嵐のような艦砲射撃に晒される日々、一兵卒もしくは一民間人としてあの島にいたならば、念じたことはたぶんひとつ、自軍が一刻も早く白旗を上げてくれることだったろう。それ以外に自分も家族も仲間たちも生き延びる術はない。それほどに凄惨な地獄だったのだ。


 ところが、市民よりも統治者の視点に立ち、半藤氏を非難する人もいる。週刊新潮巻末に“名物”コラム、『変見自在』を持つ元産経新聞記者・高山正之氏である。氏は今週の同欄で、「歴史探偵」を自称した半藤氏を「虫眼鏡で細部を見ること」にこだわりすぎた「残念な人」というニュアンスでこきおろした。あの戦争では、米英にもとんでもない所業があり、日本軍はアジアの植民地を解放する「正義の戦い」をした。にもかかわらず、視野の狭い半藤氏はそれを理解しなかった、という批判である。


 私に言わせれば、高山氏のような「愛国的歴史認識」に立つためには、そういったストーリーに合致しない史実はすべて、なかったこと(もしくは、とるに足らないこと)にする以外にない。要は「信じたいことだけを信じる」のだ。正直、ここまで我が道を行く頑冥さには、アメリカのQアノンにも似た空恐ろしさを覚える。「半藤氏亡きあとの令和」を懸念する所以である。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。