●新型コロナで「近代医療」を区切る


「明けない夜はない」という言葉を信じ、その夜明けを全世界の人々が待っているのを感じている。いつになるかわからないだけに、その待望は膨らみ続けている。そして、堪え切れなくなって分断を厭わない空気、大声で叫び出したい衝動、自分以外の人々の行動ばかりが気になって仕方がない妬みの充満なども膨らみ続けている。


 100年前のパンデミックとは情報の質量、速度が違っていて、同じ景色だと思うことはできない。死者数で言えばスペイン風邪は多分、今の新型コロナより多かったかもしれないし、人口比で語ればスペイン風邪のほうがより強力なパンデミックだったと言えるかもしれないが、「恐怖」という情報形態の共有とそのボリュームは比較にならないだろう。ロンドンとニューヨークと東京で瞬時に恐怖と希望は伝わる。


 しかし、これは何にでも言えるかもしれないが、共有される情報は詳細にみていくと、濃淡があったり、縦横が違ったり、凹凸の多少も違う。きわめて厳しい悲観論(例えば人類滅亡などの、極端なフィクションレベルの言説)を除けば、方法論や構造論、主体の置き方などでの対立がみえるほか、あまり顧みられない少数意見も控えめだがフラッグが立っていたりする。少数意見は非常に熱のこもったものもあれば、シニカルな見方もある。一方で多数意見に尖った反論を試みるあまりに、揚げ足取りに終始したり、人々の行為をすべて悪意に捉える意見もある。


 そうした意見や主張が存在する情報を現代ではSNSで手っ取り早く受け取ることは可能だ。しかし、それが少数意見だと認めるとしても、巷で言われているごとく信用が置けるのか、つまりフェイクではないのか、あるいは誰かの過激な意見の代弁だったり、誰かを貶める、陥れる、虐めるだけの目的ではないのかなどという危惧が常について回る。そもそも、SNSの大多数の「匿名性」に信を置いていいか。


 このSNSに対する筆者の「疑い」も非常に主観的なものであって、これには激しい異論があるだろうことは当然だろう。だが、やはりここで明確にしておきたいのは、これから始めるシリーズは、多様な言説の収集にSNSを含めない、つまり「活字世界」のみであることの了解を、読んでいただく人々に断っておきたいということである。つまり、これから始める近代から現代までの医療の断面から見た言説の紹介は、インターネットはじめ一切のSNS上のものは無視している。


 そういうことで新たなシリーズでは、以下の6項目の近代・現代の医療の断面、現状のコロナ禍に関しては局面かもしれないが、そこにみられるさまざまな意見、説、そして筆者の遭遇時の記憶等を織り交ぜながら、拾い上げてみていく。


 偏狭な読書体験、乱読する雑誌などの「活字世界」で拾った各種の言説の切り取りを試みる。読んで知った、それも初めて知った、あまりほかでは見ないけど(むろん筆者の勘違いや、基本的な認識不足もある)などといったものを紹介していくだけである。偏屈で偏狭な読書態度から発する今回の試みは、このコラム枠の趣旨からは外れていなさそうだし。


 また、以下に決めたテーマからは逸脱していろんな物語に展開することも許容してもらいたいと思う。


①新型コロナウイルス(前編――2020年1月~現在まで)

②安楽死の時代――死生観の変化と平均寿命至上主義の終わり

③医療従事者の新時代――技術の進歩の中で「聴く力」を求められる臨床現場

④差別の医療史

⑤いわゆる薬害と製薬企業の社会的地位

⑥新型コロナウイルス(後編――ワクチン以後と世界経済をめぐる医療人のアプローチ)


 各項目について、どのような切り取りを行っていこうとしているかをみていく。


●新型コロナで炙り出された社会学的テーマ


 新型コロナウイルスに関する図書、論文、報道、随筆などは百花繚乱で、とてもすべてを追い切れるはずもない。だから無能な筆者の目に止まったものだけがこの連載に登場する。とくに、この感染症の登場は、医学・医療だけではなく、人類学、哲学、社会学、比較文化学などの人文系からの発言が旺盛に行われていることが特徴だと言っていい。したがって、「逼迫」などといった漢語で表現される医療界とまた別の興味深い情報がもたらされることがある。


 一例をあげれば、社会学者の大澤真幸はデヴィッド・グレーバーが言い始めた「ブルシット・ジョブ」が、「エッセンシャル・ワーカー」との二項対立でコロナ禍のなかで改めて認識されたことを告げている(「一冊の本」20年10月号)。


 ブルシット・ジョブは「クソどうでもいい仕事」と一応訳されている。自分が糧としている仕事が、エッセンシャルではないらしいということを突き付けられた人々のアイデンティティーの崩れ方が気になるが、実はそう自覚する人は4割に達するという。こんなことを切り取って書いている筆者も、自分の仕事はどうやらそっちのカテゴリーに入るらしいと思っている。


 さらに、この認識はどうやらブルシット・ジョブのほうが、平均的に収入が多いらしいということに気が付くに及んで、複雑な問題に絡みつかれる。大澤は「この定義は主観に依存している」が、「そうではないフリをする」と2つの条件を示しつつ、コロナ禍が労働格差に加えて、新たな「抑圧」条件をオープンにしたことに言及している。こうした雑読を筆者は切り取っていきたい。


●なぜメディアは「安楽死」に寛容なのか


 2番目に起こしたテーマは、これも20年中に起きたALS患者の自殺ほう助事件から考えさせられたものだ。筆者は、これを報じる大手メディアの混乱を実に嫌な気分で眺めてきた。メディアは、尊厳死と安楽死を混同したり、尊厳死推進論者を安楽死の理解者と断定して報道したりした。


 また、世界の安楽死をめぐる論議もまるで不十分な理解のもとに論じるメディアが多かった。不思議なことにメディアは、いったん認めてしまうと、安楽死の要件も審査もルーズになる「すべり坂」論への関心が非常に低いのも、筆者には気がかりだ。


 このような現象は、100歳以上の人口が7万人を超えるような状況下で、医療経済への影響を過大に考えて、平気寿命に対する認識が大転換したことが背景にある。医療費と高齢化と次世代論、こうした問題を対立軸化する思考形態のひとつの典型として「安楽死」という名の自殺ほう助、つまり殺人事件が起こり、そこに何かの意義やサインを見出そうとするメディアの態度は、非常に不健全だと筆者は考える。いくつかの図書や文献からそこに至っている課題をみつけたいのである。


●克服されるべきだが生まれてくる新たな課題


 3番目の「聴く力」と「差別」に関する切り取りは、近代から現代医療のパラダイムシフトを見ておこうという関心から出発している。


 現代の医師は強力なテクノロジーの進歩のなかで、新たな医療技術の使い手を担わされると同時に、患者の愁訴を正しく聞き、それを正確な診断に結びつけるスキルの強化も問われている。聴く技術と、それによってもたらされる新たなメリットとは何だろうか。いろんな意見を読み取れるようトライしたい。


 差別は、優生学的な医学常識が崩壊するなかで、そこに追いつけなかった医療関係者の問題や、制度改革の緩さを見ていくとともに、新たな差別的観点、性差への対応や職業観の変化、多様化する社会構造のなかで新たに生まれている「差別」の内実と告発、気づき、改善へのトライアルなどをみていきたい。


「いわゆる薬害」は、克服されなければならないテーマだ。しかし、ワクチンの迅速開発など拮抗する期待も小さくはない。薬害という矛盾をどう超えていくのか、製薬企業サイドの見方も見つけていきたい。


 次回から順に一番目の課題から取り組んでみる。(敬称略)