四半世紀ほど前に新聞記者だったころ、地方版の記者コラムに「思い出の児童書」について書いたことがある。『ツバメ号とアマゾン号』など12冊の「アーサー・ランサム全集」のことだ。1巻目の『ツバメ号~』は、英国海軍将校の父を持つ4人兄妹が田舎の湖でひと夏を過ごし、小舟での帆走や無人島キャンプをする「冒険ごっこ」の話だ。


 各巻とも「子どもたちの“船と冒険”の物語」ではあるのだが、巻によって登場人物ががらりと変わることもある。全体の魅力を簡潔に伝えるのは難しいが、例えばその特徴には、ファンタジー性からほど遠い、実話的な描写、という点がある。著者自身の少年期の回想ではないか、と誤解するほどに、描写が具体的なのだ。


 そのせいで、児童書とは思えぬほど注釈が多く、読みにくくなっているのだが、「はまる読者」にしてみれば、このリアルさこそが堪らない。帆船の部位の名称や機能、ロープの使い方、陸地でのキャンプ技術、実在する場所の地形の描写などが、「本物の探検記」を彷彿とさせるものなのだ。「はまった読者」には、その後自らもヨットマンになったり大学の探検部に入ったりした人が少なくないらしい。


 もうひとつの特徴は、子供たちの会話に海洋史の蘊蓄がやたら飛び出してくることだ。大航海時代のスペイン船や実在した海賊、探検家などのエピソードだ。たとえて言うならば、日本の子どもたちが野山で遊びながら、「桶狭間」や「五稜郭」「真珠湾」といった言葉を例示するようなものだ。それぞれ簡単な注釈はあるものの、読書習慣に乏しい児童だと、いちいち引っかかってしまうだろう。


 それでも複数回読んだり、他の本で同じ固有名詞に気づいたりするうちに、知らず知らず知識は身についてゆく。シリーズは、アウトドア系の趣味人だけでなく、世界史や地理、博物学に興味を持つ人も、輩出してきたに違いない。行動力プラス知性。私が勝手に想像する「ランサム好き少年」の成長後は、今は亡き冒険家・植村直己氏のようなタイプである。


 シリーズの邦訳は、1960年代と90年代、2010年代に岩波から刊行され、第1期の本で育った私は、30歳を過ぎ、第2期の本を書店で見て、思わず全冊を「大人買い」してしまった。新聞コラムには、そのことを書いたのだが、数日後、社内の先輩から一通の封書が送られてきた。愛好者の組織「アーサー・ランサム・クラブ」のパンフと入会の勧誘であった。


 大人になっても興奮を忘れられずにいる熱烈なファン。同世代にもさほど多くないだろうが、封書を受け取った私は「ここにも同志がいた」と感じた。同じ児童書で知的好奇心を刺激され、世界観をつくり上げた「仲間」たち。いつの日か、そんなファンを訪ね歩き、各人の生き方を1冊の本にまとめたい。そんな願望さえ私は抱いていた。


 ところが、である。つい先日ネット・サーフィン中、話題のワクチン担当相・河野太郎氏が以前、ランサム本の思い出を語った記事を見てしまった。私の脳内の「ランサム・ファン選民思想」が脆くも崩壊した。落ち着いて考えれば、愛読書が同じでもいろんな人がいるはずだし、思想信条もバラけて当然だ。ただ、「トランプ流」とまで言われる粗野な強引さは、あの作品の「英国紳士的美学」とは違いすぎる。


 今週の週刊文春は『本当にワクチンは大丈夫か 河野太郎vs.コネクト不倫コンビ』というトップ記事の冒頭、「俺が“よし”といったこと以外は全部フェイクニュースなんだ」と言い切る河野氏の傲岸な発言を報じている。新潮の記事『失政で消えた「コロナワクチン6000万人分」』にもタイトル横に《「河野大臣」トゲトゲ衝突で「ワクチン行政」崩壊》という書き込みがある。


 細かいことは、この際どうでもいい。私が今、彼に願うことはひとつ。あまり公にランサム作品への愛を語らないでほしい、ということだ。それほどに私は、あのシリーズを大切に思っている。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。