世界中が新型コロナ騒ぎで明け暮れている最中に、ミャンマーで軍事クーデター騒ぎが起こり、急に脚光を浴びている。かつて「ビルマ」と呼ばれたこの国ほど、日本人にとって不思議な関係の国はない。たびたびクーデター騒ぎが起こるが、国民の大多数が親日的であり、クーデターを起こした軍も親日的なのだ。


 例えば、1988年に軍事クーデターが起こったとき、日本政府は現地にいる日本企業に帰国を促し、ダムを建設中だった熊谷組は工事を中止し帰国することになったが、帰国する日本人のために首都、ラングーンの空港まで軍隊がボディガードを買って出たのである。当時、帰国した同社の社員は「クーデターだというのに、まったく緊迫感がなかった」と語っていたほどだ。


 今日では多くの日本企業が進出しているが、日本人が知っているミャンマーといえば、立山道雄氏の児童向け小説で、それを映画化した市川崑監督の『ビルマの竪琴』や、旧日本軍が大失敗したインパール作戦くらいしかない。だが、ミャンマー人にとって日本は特別な友好国なのである。


 週刊誌時代、1988のクーデター直後にミャンマー、当時のビルマと日本との関わりを記事にした。そのころは防衛省の戦史資料室の本くらいしかなかったから、かなり先進的だったと自負している。ところが、週刊誌の発行3ヵ月後、新聞社系週刊誌が同じような記事を書いてきたのには驚いた。ジャーナリストの世界では、同じような記事を書くことは恥ずべきことで、嘲笑されるからだ。だが、副編集長が「すぐに書いたら、みっともないから3ヵ月我慢したのだろう」と笑っていた。その後、いくつかのビルマと日本との関係を描いた本が出版されたが、週刊誌の記事が多少なりともミャンマーに目を向けさせた甲斐があったのだろう。


 それはともかく、日本とミャンマーとの関わりは、太平洋戦争直前の1940年に遡る。大本営が陸軍、海軍、民間人を集めた謀略組織「南機関」を設立したことから始まる。南機関は旧陸軍が第15軍を中心にしてビルマ、さらにインドに攻め込み、イギリス軍を駆逐するため、まず、ビルマでの拠点をつくらせる先遣隊の役割だったらしい。


 記事を書くとき、運よく南機関員だった人物を探し当てて話を聞いた。彼が話してくれた中身はだいたい次のようなものだった。


 南機関は「ビルマ独立義勇軍」を結成させるため、密かに英領ビルマに潜入し、ラングーン大学の門前で学生30人をリクルートして、当時日本が占領していた中国の海南島に連れてきて軍事訓練を行った。もっとも、実際にリクルートできた学生は29人で、員数合わせのため大学前の郵便局員1人を合わせて30人にしたという。集められた30人は高杉晋作など、明治維新の立役者を見立てて日本名を名乗ったそうで、彼ら30人のリーダーになったのは、少将の階級をつけたアウンサン将軍だったという。


 ともかく、30人の独立義勇軍は南機関員とともに日本のパスポートでビルマに戻り、当時の首都のラングーン(現ヤンゴン)を目指して進軍を開始。だが、実際は行く先々の村々が義勇軍を大歓迎し、戦闘らしい戦闘はなかった。それどころか村々の若者が義勇軍に参加し、瞬く間に義勇軍は1万人を超えてしまったという。


 むろん、正規の日本軍もラングーンを目指したが、独立義勇軍のほうが先にラングーンに到着。イギリス国旗を降ろし、ビルマ国旗を掲げた。そこに日本陸軍の正規軍が遅れて到着し、ビルマ国旗を降ろし日の丸を掲げ、日本軍に協力したビルマ人のバウマウを首班にした政府をつくらせるが、アウンサン将軍は「傀儡政権だ」と英米軍側に立つ。が、日本軍はインドへの侵攻を急ぎ、戦闘による死者数よりマラリアによる病死と食糧不足による栄養失調死が上回るという最悪の「死のインパール作戦」になったのは周知の通り。


 日本軍の敗走で、ビルマでは日本軍に代わり、イギリス軍が戻り、再び植民地化を図るが、アウンサン将軍が率いる独立義勇軍は抵抗。最終的にイギリスがビルマの独立を認めるという経緯を辿る。もっとも、アウンサン将軍は独立1週間前に暗殺されたが、ビルマではアウンサン将軍は「ビルマ独立の父」としてアウンサン廟に祭られている。


 アウンサン将軍の死後、ネ・ウイン大佐が実権を握り、世にも奇妙な鎖国政策をとるのだが、彼は南機関員が員数合わせのために誘った郵便局員だった。


 こうした経緯を辿ってミャンマーは独立を達成するのだが、国民の8割を占める仏教徒のビルマ族は、アウンサン将軍を支えた日本に対して特別の親密感を持っているのだ。加えて、独立義勇軍から国軍に代わった軍のなかには、年代は代わっても独立義勇軍を育てた日本に対する親密の感情を持っている人々が多い。こうした経緯が日本に対する親密さを持つ基礎になっている。


 今、ビルマの国家顧問兼外務大臣のアウンサン・スー・チー氏はアウンサン将軍の娘である。彼女は独立後、イギリスに留学し、イギリス人と結婚し、ビルマの民主化のために帰国。NLD(国民民主連盟)を率いている。だが、民主化を進めるはずのスー・チーさんがロヒンギャへの迫害に目を瞑っていると欧米では批判がある。


 昨年の選挙では「民主化を進めない」という理由からNLDの議席数は減少するだろうと、日本を含めた欧米マスコミは予想した。だが、予想に反してNLDは8割以上の議席を獲得した。その背景には、ミャンマーの国民にとって、民主化を求める声以上に独立の父、アウンサン将軍の娘ということで支持が集まっているといえる。


 ところで、ビルマが独立を勝ち取ったことで立場が逆転したのが、カチン族やカレン族など十数の少数民族だ。イギリスの植民地支配は少数民族を警察官、裁判官に起用し、インドと現在のバングラディシュからイスラム教徒のロヒンギャ族をビルマに移住させて金融部門を抑えさせ、大多数のビルマ族を支配したのである。


 だが、ビルマ独立で立場が逆転。報復を恐れた少数民族は山岳地帯に逃れ、山岳地帯で栽培した芥子を麻薬組織に売却し、採取した翡翠を隣国のタイに売り、その資金でタイ軍が横流しする銃を調達。ビルマ軍と戦闘に走った。これが欧米から批判された少数民族迫害の実態だが、100年以上に亘るイギリスの植民地支配でイギリスの代理人として迫害してきた少数民族に対するビルマ族の恨みつらみである。第2次大戦後、パリでナチスに協力した女性の頭を剃り、パリ市内を歩かせ、市民が彼女たちに唾を吐きかけたが、それと同じである。


 ロヒンギャ族への迫害も同様だ。仏教徒のビルマ族がロヒンギャに対して「国外に退去しろ」と迫るのも、100年を超える恨みだ。日本が37年間、朝鮮半島を支配したことで、韓国は今も日本に対して「歴史認識を持て」と文句を言っているのだ。ビルマ族は100年以上に亘って支配されたのだから、ちっとやそっとでは過去の恨みつらみは解消しないだろう。


 日本の大手マスコミは欧米政府やマスコミと一緒になって少数民族への迫害を批判するが、少数民族の手で家族を殺されたり、刑務所に送られたり、殴られたりしたビルマ族の恨みはそうそう消し去れない。イギリスで民主主義を学び、経験したスー・チーさんであっても、過酷な迫害を受けたビルマ族の怨念を止めることはできない。欧米から裏切りだと言われてしまうスー・チーさんが気の毒だ。


 今、クーデターに対して欧米は批判している。隣の中国は表向き「介入すべきではない」と言い、ミャンマーの軍事政権が中国寄りに傾くのを待っている。こんなときこそ、ミャンマー国民から好意を持たれている日本の出番のはずだ。積極的に民主化を守るように説得してこそ、ミャンマー国民も軍も耳を傾けるだろう。


 だが、目下、菅義偉首相は、新型コロナ対策で後手後手に回っている。国民から不評を囲っているようではミャンマーどころではない。「間接支配」という植民地経営のおかげで、ビルマ族から批判されない欧米の主張に追随しているようでは、世界での日本の評価が一向に上がらないのも当然だ。(常)