国富増大の大望
平賀源内(1728〜79)は、当代随一の天才・鬼才ともてはやされたが、実業家としては失敗・不成功のオンパレードであった。
四国・高松藩の武士の子として誕生。もちろん少年源内は、儒学、本草学、医学、俳句など学業全般にわたって超優秀であった。「おみき天神」というカラクリ人形を作って「天狗小僧」とあだ名されるほどの才溢れる少年で、彼の才能は藩主からも認められ、25歳の時、長崎遊学を命じられる。
1年間の長崎滞在で蘭学を学び、世界を知る。ここにおいて、源内は、一高松藩ではなく日本国の殖産興業の大志を抱く。特に、貿易実態が「外国品輸入、金銀輸出」を知り、外国製品の「国産化」に大なる野心を抱くことになった。
長崎からの帰路、鞆之津(広島県福山市)で、良質の陶土を発見するや、山の地主に陶磁器の生産を勧める。当時は、かなりの陶磁器が輸入されていたが、源内にすれば、デザインをエキゾチックにして少々の技術改良をなせば、容易に国産化できると思った。そうすれば、陶磁器を輸出でき、金銀の輸出を減らせるために、国益に合致する。しかし、山の地主は青年源内の憂国の情などにはまったく無関心。陶土だけを売ってボロ儲け。青年源内は、その家の「福の神」として、とっても感謝されただけに終わった。「あぁ、目先の利益だけにとらわれ、国益を考えぬ小物よ」と残念がるのみであった。
郷里に帰るや、さっそく陶器製造の技術・デザインの指導をし、世界地図やローマ字をデザイン化した「源内焼き」を製造したが、田舎での、それだけのことで終わった。結果論としては、陶土を売って大儲けした山の地主のほうが商売人として賢かったということか……。
また、長崎土産として、綿羊を4頭、連れ帰った。毛織物、特に羅紗の国産化を意図したのだが、これも、それだけで終わった。
さらに、長崎で見た『量程器』(万歩計)、『磁針器』(羅針盤)も製造した。ちょいと見ただけで作っちゃうんだからスゴイ。スゴイには違いないが、これまた事業とはならず、「源内先生は珍しいカラクリをおつくりなさるなもし」でおしまい。
そうなんですねー。源内先生は技術者の域を出なかったんだなー。いかに「グッチやシャネルと同じような品質」を作る技術があっても、それだけじゃ事業は成功しない。
しかし、源内は「田舎じゃダメだ。大望実現には、江戸へ行かねば」と決意したのであった。それで、家督を妹婿に譲り、浪人すなわち自由人となって、江戸の人となる。
日本初の博覧会
神田紺屋町の本草学者・田村藍水に入門する。藍水は朝鮮人参の国内栽培を実験していて、源内もその手伝い。そして、栽培成功。そのニュースに、輸入朝鮮人参でボロ儲けしている業者は、「国産品は効能がない」とPRした。
そこで、源内の反撃PR作戦が実行される。
火事で行き倒れになった少年に、通りすがり、源内は懐から藍水の朝鮮人参を取り出すや、ひと欠片を少年の口に含ませる。少年をすぐさま元気になり、立ち上がって歩けるようになった。その時、取り囲んでいた見物客に、「高価な舶来品を買うのはバカだ」と演説して、拍手喝采。
そんな出来事もあったが、源内には大望があった。朝鮮人参に限らず、日本の殖産興業である。藍水への入門の翌年、源内は物産会を開いた。これは、わが国最初の物産会・博覧会と言われるものだ。日本の殖産興業をはかるには、国内に、いかなる物産・動植物・鉱物があるのか、その情報収集・情報公開が必要であると考えたのだ。
物産会の案内状に、こう記されている。
「わが国は神さびる秘境だから、よく探査すれば、未知の物産が発見されるに相違ない。それらが、ことごとく世に出れば、中国や南蛮の船を待たずとも事足りる」
この物産会を通じて、時の権力者・田沼意次の知遇を得る。招かれるや、源内の唾が田沼の顔にかかるほどに持論をまくしたてた。
「利尿剤の原料である芒消(硫酸ナトリウム)は、わが国では産出されないとされている。そのため、舶来品を購入しなければならず、日本の金銀が流出しております。しかし、わが物産会に伊豆の鉱物の中に、芒消がございました。国産化が実現すれば……」
田沼意次は、土産として砂糖1箱を与えた。砂糖の中には、小判が100枚。源内は「天文暦数、酸いも甘いも噛み分けた大親分」と絶賛するのであった。
物産会は5回開催されて大成功。そして、源内は博物誌『物類品隲』を著す。こうして源内は、押しも押されぬ大先生となった。
吉原の美女ガイドブック
大先生になったが、田沼の100両を別にすれば、物産会も博物誌も、あまり儲からなかった。それに源内先生は吉原のお勉強も始めてしまったから、金欠状態。
本屋が「大先生、学術本よりも大衆娯楽小説のほうが儲かりますよ」と勧める。そんなもの朝飯前のお茶の子さいさい、ということで一気に書いたのが『根南志具佐』という小説。閻魔大王が人気女形にベタ惚れ……というストーリーで、一躍ベストセラー。
ついで、天狗の羽扇で大人国、小人国、女護ケ島を旅する『風流志道軒』を著す。
ともに奇想天外、エロ、滑稽、風刺の大サービスで、大評判であった。
しかし、「吉原の美女ガイドブック」を書くほどの吉原通い。で、やはり金欠状態。
ホラ吹き源内、山師源内
第5回物産会に、秩父の鉱物の中に石綿があった。石綿で織った布は「火浣布」と言われ、燃えない布は伝説的珍品かつ超高価なもの。竹取物語では「火ねづみのかわごろも」として登場している。これが国産化できればと、勇躍、秩父へ。石綿の鉱脈発見、火浣布の製造、試作品は2センチ平方の小さいもの。田沼意次を通じて、将軍に献上すると同時に「大きなものでも製造できる。輸出すれば日本の国益になる」と自信満々。
幕府が動き、長崎奉行が動き、中国から、縦270センチ、横70センチの注文がくる。しかし、どう工夫しても小さいものしか作れず、「ホラ吹き源内」のレッテルを頂戴してしまった。
しかし、源内先生は、くじけない。
坑内排水のため廃坑となった金山が秩父にあると聞くや、自作の測量機器を利用して見事、排水問題を解決したのだが、鉱石の質が悪くて、今度は「山師源内」となった。
借金だらけの源内に、本屋が「大先生、エロ満載、エロだらけ、そのほうがドカーンと売れますよ」と呼びかける。
源内先生はポルノ浄瑠璃『長枕褥合戦』を書いて金策とした。鎌倉の尼将軍・政子未亡人が、媚薬をもられて超淫乱となり、天下に大魔羅探しの大号令を発するというもの。大衆小説よりも、ポルノ浄瑠璃のほうが儲かるので、さかんに書きまくり、ますます人気者となるのだが、金が入ると吉原へ……当然、金欠継続。
ポルノでひと息
しかし、源内先生の日本の殖産興業の大望は不変であった。
大博物図鑑出版計画を発表したものの、それにはオランダの博物図書を翻訳しなければならない。そのためには長崎へ行かねばならない。旅費がないにもかかわらず、出発。旅の途中でポルノ浄瑠璃を書いて路銀をひねり出しながらの旅であった。
長崎に到着するや日本人通訳士に翻訳を依頼したが、ラテン語もあり専門的すぎて翻訳困難と断られてしまう。
同じ頃、友人の杉田玄白は『解体新書』を同志とともに独力で翻訳に挑戦して成功する。源内と玄白の差はナニカナー。
源内は通訳士に断られると、今度は、長崎で『陶器工夫書』を著し、陶磁器製造輸出計画を企画したが、これも不成功。
ただし、長崎で、独学自習で西洋画法の油絵を身につける。それと、壊れたエレキテルの機械(摩擦による電気発生機械)を譲り受ける。
そして、再び江戸の人。
今度こそはと、秩父で鉄山開発するも、やはり失敗。
そして、秋田藩の鉱山開発のため秋田へ出向き、オランダ製や自家製の測量機械で技術指導を行い、秋田藩からの謝礼を手にして江戸へ戻ると、ワッと債権者が押し寄せ、やっぱり金欠。
小間物で「中」成功
それやこれやで、「天下国家はさておいて」の心境となったみたいで、江戸の消費文化を対象に商売を開始する。金唐革(革製の超高級たばこ入れ)に目をつけ、源内は革を和紙にしてコストダウンする。また、豪華な櫛を「源内櫛」として売り出す。さらに、現代と同じガラスの裏に水銀を塗った鏡を製造して、商品名「自惚鏡」として売れ出した。
こうした小間物商売は、PR上手もあって、そこそこ成功。吉原大学の優等生だけに、人気絶頂の遊女を口説いて、源内櫛を常に髪に飾ってもらったりした。
それから、有名な「土用の丑の日の鰻」のように、鰻屋、もち屋、歯磨粉屋、麦とろ屋……江戸の消費文化のど真ん中で商売繁盛のアイディアを湯水のごとく提供し、「お知恵拝借」の客が詰めかけ、源内先生は超人気者。
獄中死
さらに電気の原理もわからぬままに、エレキテルの復元に成功した。
針先の先から火花パチパチ、触れればピリピリの機械を見世物にして、小遣い稼ぎをしたのであった。
しかし、源内先生の心は晴れぬ。
「日本の殖産興業のため、東奔西走したものの不成功。骨折り損のくたびれ儲け、とは自分のことよ。今日からは、かの放屁男と同じ、エレキテルの見世物師よ」と、やけくその心境。
放屁男とは、屁の音を自由自在に操り、屁で音楽を奏でるという当時人気の芸人で、源内は『放屁論』の中で、自分の工夫で古今東西初めての独自の芸を樹立したとして、その芸を擁護している。
源内の最期は、酔っ払って殺人罪。牢の中で病となり、友人・杉田玄白の手当ての甲斐もなく52歳で獄中死。
夢破れて……、でも、みんなから愛された源内先生であった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。