作家の橘玲氏がどこかの週刊誌で少し前、「近年、世界の潮流は共通してリベラル化に向かっている」「ヨーロッパのネオナチやアメリカのトランプ支持層のような“右派の台頭”は、この大きな流れのなか、あだ花のように発生した一時的・過渡的な現象に過ぎない」という趣旨の文章を書いていた。そのことは本欄でも紹介した。ここ数日、改めてこれを思い出したのは、森喜朗氏の「女性蔑視発言」をめぐるJOCの大混乱を眺めてのことだ。
今回の騒動が日本スポーツ界に君臨し続けた「ドン」の失脚という事態にまでなったのは、この失言が、世界が注視する五輪スケジュールのなかで発せられ、世界規模の「炎上案件」になったからだった。もしこれが、海外の目が届かないドメスティックな席でのことだったなら、麻生太郎蔵相らが日常的に起こしている「ごく普通の舌禍案件」として国内ニュースになっただけだろう。森氏は今回、よりによって世界中が注視する席上で、日本社会の「後進性」を開陳してしまったのだ。
橘氏が言うように、このネット時代、男女平等、環境保護、反差別などの価値観は国境を越えて共有されはじめ、多国籍企業もビジネス上、それを支える側にいるために、「おらがムラの流儀・価値観」はどんどん通用しにくくなっている。この彼我のギャップこそが、今回の騒動の根本にはあったように思う。また、この件で私はもうひとつ、女性差別以外にも「国外の目」が気になることがある。日本のいわゆる「体育会的なタテ社会」、理不尽を理不尽と拒めない軍隊的先輩・後輩関係の存在だ。
女性メンバーは会議でしゃべりすぎて困る、発言を規制する必要があるのでは――。そんな愚にもつかないトップの「冗談」に、イエスマンたちが追従の愛想笑いをする。今回は発言の差別性だけでなく、これがまかり通る「場の雰囲気」という点でも、JOCの体質が問題視された。世論の反発が日に日に拡大するなかで、右往左往するだけの「イエスマン集団」の情けなさ。「余人に代えがたい」と森氏を擁護する表現も、裏返せば、森氏が築き上げたこの組織が「先輩・後輩型秩序」を優先するあまり、自主的に意見を戦わせ合意を形成する文化も能力も持ち合わせない、という問題を示すように思えてしまうのだ。
私たちは昭和期から「体育会的」「運動部的」という形容で、学校教育の一部“スポーツ村”において、不合理な上下関係が続いてきたことを黙認してきたのだが、その慣行や実情に関しても、国外に知られてしまったら、相当な波紋を引き起こす気がする。振り返れば、前回の東京五輪時も、東洋の魔女へのスパルタ的指導方法が、国際的な論議を引き起こしたわけだが、半世紀余が過ぎても日本はまだ……というネガティブな印象を持たれてしまうのでは、と危惧するのだ。
今週の週刊文春は『東京五輪を壊す男 森喜朗「黒歴史」』、週刊新潮は『政界のシーラカンス「森喜朗」の図太い神経に触る「二人の女」』と、両誌ともこの問題をトップで取り上げた。とくに新潮はJOCの山口香理事、ラグビー協会の谷口真由美理事両人の名前を挙げ、森氏が疎ましく思う女性だと指摘した。通常の新潮なら、決して好意的に書かないであろう彼女たち「モノ申す女性」だが、さすがに今号では《森会長に“睨まれた谷口理事”が言う通り、「日本社会の問題」は根深いようだ》と、その肩を持つ書き方をしている。ともあれ、思わぬハプニングに見舞われたことを奇貨として、今回の東京五輪開催が日本における女性の地位向上、そして「体育会的」なタテ社会の改善につながってゆくことを期待したい。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。