●露わになった無策と糊塗する言葉


 新型コロナウイルス感染が世界中に認知されてからすでに1年を経た。WHOがパンデミック宣言したのが3月11日だから、1年を経たという表現には異論があるかもしれない。しかし、極めて政治的な理由や理屈を考え合わせれば、そんなことなどまるで意味のないことであることは自明で、議論にもならない。


 新型コロナウイルス感染がパンデミックとして世界が認知したのは、中国武漢での報告からほぼ1ヵ月かからなかったはずだ。春節を前に中国当局はこの感染症に対して、極めて感度の低い対応に終始したとみるのは当然で、日本への観光客の流入、大型観光船の漂流と日本当局の哀れな狼狽ぶり、イタリア北部での爆発的な感染と欧州への波及という事態の推移は、ほとんどの人々の記憶にある。


 そしてこの1年に各種の論議、発言、観測が行われてきた。それは医学的なあるいは科学的な視点に集約されたものもあれば、そこから外れて科学としての確率論と、そこに入り込む社会学的アプローチの混在(それはけっして否定されるものではなく、人類の営みとして必要なものである)もあり、あるいは極めてエモーショナルな文学的散文の材料ともなった。それぞれが、さらにまた多くの深堀と増殖を続けていることは間違いない。


 拾い上げ、意識的に収集すればきりがないが、キーワードはいくつもある。思いつくままに挙げてゆけば、3密、マスク、自粛警察、ダイヤモンド・プリンセス号、緊急事態宣言、時短営業、給付金、中等症、実効再生産、リモートワーク、エッセンシャルワーカー、自殺、そして前回に例示したブルシット・ジョブまで、さまざまな言葉がその出番を増やした。


●失敗を恥とする文化が対策を遅延させる


 筆者はまず、2021年2月までのそれらの動きを、筆者の極めて小さな可動範囲で目に留まった活字から拾い上げていきたい。はじめは医学者、それも感染症学の専門家の話を眺めてみたい。


 昨年4月に『新型コロナウイルスの真実』を出した岩田健太郎は感染症の若手専門家だが、ダイヤモンド・プリンセス号の感染爆発対応を支援へ行って、2時間ほどで下船させられた。彼はその著書で、ダイヤモンド・プリンセス号の船内風景について、防護服を着た医療関係者と、背広姿の政府関係者が混在していたとしている。こうしたことに目をつむらず、批判する姿勢で乗り込めば、すぐに船から下ろされるだろうなという観測は誰でもできる。


 岩田は専門家としては正しいが、「背広組」には同意は得られなかった。昨年4月の段階では、ダイヤモンド・プリンセス号のなかで起こったことはあまり理解が進んでいなかった段階だ。この船の対策に関する現在の評価は、国内的にも国際的にもまず「失敗」であり、本質的にはその後も続く政府や専門家群の迷走の象徴である。


 むろん、この本における岩田の主観的主張は、確かにエキセントリックではあるが、筆者には頷けることも多い。とくに、官僚や専門家たちが対等の立場で議論ができないことの不毛だ。また、失敗に対する恥の文化が、改善を拒むこともこの一事でわかる。


 例えば、マスク。あの小さなガーゼマスクを国民に配ることに何の意味があっただろう。政策として失敗である。その失敗から何か学び反映させたものはあるのか。メディアを含めて、あの「アベノマスク」は、終わったことにして何も生まなかった。失敗はあるものだとしてその検証から何を学ぶかという考え方もシステムも欠落している。失敗は恥であり隠すものだという認識が強いことを私は何度も見聞してきた。このコロナ禍においてもその経験は既視感のあるものだったのだ。


「日本の場合は、最初の対策、いわゆる『プランA』を出すのはうまい。それゆえに、ここまでの対策は概ね正しい。でも失敗を認めるのがヘタクソですから、どこかで感染が爆発してしまったときに、それに合わせて対策のフェイズをピシッと変えていけるか、それが今後の肝になる」と岩田は言う。あと何回、緊急事態宣言を出すことになるだろう。


 また、岩田がダイヤモンド・プリンセス号に乗船した経緯、追い出された理由を読むと、岩田が感染管理をすることになり、すでに乗船していた精神科ケアの専門家は船内にいる必要はないこと、PCR検査の同意書取得は必要ない、ゾーニングをきっちりとやること、医療スタッフの疲労回復策の重視など、「船内のいろんな問題点を見出して(指摘して)いったら、入ってから2時間後に『出て行ってください』と言われた」「ぼくが『こういうやり方にしたらいいんじゃないですか』と提案しても、『俺たちが今まで頑張ってきたことを、なんでお前はそうやって否定するんだ』みたいに受け取ってしまう」なんてやり取りがあったこともわかる。


 しかし、こうした岩田の指摘は「言っていることは正しいが、態度が悪い」などという反発にもつながり、彼の発信後も正確に彼の真意が伝わっているかどうかは疑わしい側面もある。「言っていることは正しいけれど、態度が悪い」といった論点ずらしを、安富歩東大教授は「東大話法」と名付けている。欺瞞的で傍観者的な話法を駆使して、テーマに正面から向かい合っていないのに、相手を論破している気になる論法。


 また、法政大の上西充子教授が生み出した「ごはん論法」という言葉も2020年に舞台に上がった言葉だ。福島原発事故以来、政府が好んで使うこれらの論法は、迷走するコロナ対策のなかでも重用されている。


 彼らはこのところ、問題を指摘されると「承知している」とまず答える。その先は東大話法、ごはん論法、チャーハン論法を駆使する。しかし、話法にこういうネーミングがされること自体、すでに市民の大半は話の内容に実がないことに気が付いている。


 1回目の緊急事態宣言では、大学までも含めた学校も多くがクローズされた。しかし、2回目の緊急事態宣言では学校はクローズされなかった。しかし、1回目以後、多くの大学はクローズされたままだ。大学というインフラを閉じたままだ。それなのに学費の再検討は、まったくされない。こんな不作為も堂々とまかり通り、メディアも官僚も触れもしない。


「どうしてですか」と声を上げれば、大学も監督する政府も「言っていることは正しいが、学生の分際で生意気だ」ということになりそうだ。コロナ禍は、こうして多くの公的機関や人物の「不作為」と「詭弁」を表に出し、糊塗することが難しい現実を生み出している。失敗を認めるのがヘタクソだという岩田の指摘は、間違ってはいないが甘すぎる。


●PCR検査と「リンクを追う」の失敗


 辛口の批評を続けているのが元東大教授の上昌広だ。昨年11月に新聞記者との対話形式での『日本のコロナ対策はなぜ迷走するのか』を上梓している。


 どうして日本ではPCR検査が抑制されてきたのか、筆者はいまだによくわかっていない。上は、この本で、厚労省が昨年1月17日に積極的疫学的調査の開始、同28日に感染法上の2類指定の措置をとったこと、とくに2類指定に根本的な誤りがあったという。


「17日に始まった積極的疫学調査路線、つまり濃厚接触者に限定してPCR検査を実施していくという路線を切り替える機会を自ら逸し、無症状感染者や軽症者を自宅やホテルという病院以外で隔離するという道を法的に閉ざすことになったからです。この段階で新型コロナ対策は濃厚接触者の塊りを徹底的に追跡するクラスター調査が主力になりました。何も私はクラスター追跡をするなとは言いません。世界の趨勢に反してクラスター一本足打法になったことを問題視しているのです。この路線のおかげで、一般的な発熱患者が検査を求めてもなかなか順番が回ってこない、あるいは拒否される、という日本的悲劇が生まれました。無症状感染者からの市中感染拡大、という視点もないがしろにされました」


 つまり、クラスター主義によって濃厚接触者に対する検査は徹底的に行われたが、そこから外れた発熱患者が置き去りにされた、ということだ。思い返すとその頃、メディアもいかにも専門家風に「リンクを追う」と言った表現を得意げに使っていた。これは「リンクを追えない」患者がいることを、為政者もメディアも認め、きわめて自覚的にそのことが大きな問題であることに気が付いていたからである。(敬称略)