1月下旬、中古のレンタカーを借りて数日間、福島県の沿岸部を回った。あの日から10回目の「3・11」を迎えるにあたって、久しぶりに被災地を見ておこうと思ったためだった。あの震災の直後、私は月刊文藝春秋の編集者と2人、岩手県と宮城県の沿岸部を回り、その後も週刊誌の仕事で「陸の孤島」と化した福島県南相馬市に乗り込んだり、岩手宮古市から福島県いわき市まで「ローカル歌人」を訪ね、各被災地で詠まれた歌を集めたりと、3県に何度となく足を運んだ。
初夏になる頃には、広域の被災地全体をカバーすることは、零細のフリー記者には到底不可能だと思い至り、福島の会津若松市といわき市を、自らの「定点観測地」に設定。以後3年弱、原発のお膝元・大熊町から両市に避難した被災者に絞ってほぼ毎月、仮設などでインタビューを重ね、2014年そのルポを『さまよえる町』という単行本にまとめた。
福島の浜通りに足を運ぶのはそれ以来だから、約7年ぶりになる。内陸部から沿岸部、いわき市から大熊・双葉両町へと向かう高速道路には、放射能汚染土を中間貯蔵施設へと運ぶダンプカーの車列が続いていた。大熊では2年前、町面積の約5%を占める「大川原」という地区で、避難指示が解除され、かつては田んぼだった場所に箱庭のような「ニュータウン」ができていた。ここに暮らす住民は目下約860人(震災前の町人口は約1万1500人)。しかし、もともとの大熊町民は130人ほどで、それ以外は廃炉作業などに従事する東電や下請けの関係者だった。町役場の職員さえ、ほとんどが町外からの通勤者だった。
町は大川原に続いてかつての中心部・JR大野駅前にも2年後をメドに居住区の新設を進めるが、町民の意向調査などを見る限り、こちらも「新住民の町」になりそうだ。町の名は同じ「大熊」でも、そこに住む人は大部分入れ替わる。“復興”とは果たして何なのか。原発周辺の風景を見ていると、どうしてもそんな苦い思いが湧く。
タイミング的に考えると、多くの週刊誌は来週か再来週、「震災10年」の特集を組むのだろう。大津波のあった場所と原発事故の周辺地区。同じ3・11の被災者でも、両者の悲劇・苦しみには質的な違いがある。私は7年前、3県を歩きながら、東京大空襲の犠牲者と広島・長崎の被爆者を連想したものだった。あのとき、人命や財産の被害という点では、津波による打撃のほうが圧倒的だった。一方でその惨劇そのものは一瞬の出来事で、人々はやがて人生の再建をめざすようになった(めざすしかなかった)。福島は違う。被災直後の打撃は比較的小規模で、避難生活にも一定の補償が出た。しかし、放射能に帰宅を阻まれる状況はその後、一向に改善されなかった。いつまでも延々と同じ苦境に留め置かれたのだ。
今週、サンデー毎日は『復興への無策を問う』というタイトルで、他誌よりも早く「震災10年」の特集を始めた。作家の池澤夏樹、真山仁、奥野修司の各氏がそれぞれに「3・11」への思いを綴っている。奥野氏の記事は「震災と霊体験」というユニークな切り口。他の2氏の論稿は被災地全体を俯瞰した「大きな議論」になってしまい、たとえば原発避難民にあてはまるような繊細なニュアンスはすくい取れていない。来週、再来週の各誌の展開に期待したい。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。