(1)日本へ来た最初のインド人
菩提僊那(704~760)はインド出身の僧である。インドで生まれ、唐にわたり、そして736年(天平8年)に日本に来て、752年(天平勝宝4年)東大寺大仏殿の開眼供養会の導師を務めた。
菩提僊那(ぼだいせんな)が一般的と思うが、サンスクリット語で「ボーディセーナ」と発音したり、「菩提僧正」、あるいは、僊=仙なので「菩提仙那」とも称される。また、婆羅門僧正とも言われる。
菩提僊那に関しては、あまり知られていないように思う。でも少しだけ脚光を浴び始めた。その理由は、2013年(平成25年)の日印国交樹立60周年に際して、インド政府(インド大使館)が菩提僊那の記念事業を開催するようになったからである。そして、インド大統領主催晩餐会においても、平成天皇の挨拶では菩提僊那の名が登場した。その部分は次のとおりです。
貴国と我が国とは地理的に離れ、古い時代には両国の間で人々の交流はほとんどなかったように考えられます。しかし、貴国で成立した仏教は6世紀には朝鮮半島の百済から我が国に伝えられ、8世紀には奈良の都には幾つもの寺院が建立され、仏教に対する信仰は盛んになりました。8世紀には、はるばるインドから日本を訪れた僧菩提僊那が、孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后の見守るなかで、奈良の大仏の開眼供養に開眼導師を務めたことが知られています。このときに大仏のお目を入れるために使われた筆は、今なお正倉院の宝物の中に伝えられています。
菩提僊那は日本史の大事件に絡む話としては、「大仏開眼の導師をした」ということが唯一で、政争にはまったく無関係、そのためか、次第に記憶が薄らいでいったようだ。しかし、平安・鎌倉時代までは、大変に有名な人物であったようだ。例えば、平安時代末期に成立した『今昔物語集』の本朝仏法部(巻11~巻20)の最初である巻11は38話が収められているが、第1話から第12話までは、仏教史のほぼ順番通りの超有名な人物が登場している。
第1話は聖徳太子(574~622)、第2話は行基(668~749)、第3話は役小角(634~701)です。行基がナンバー2ということは、絶大な人気があった証拠でしょう。役小角は、現代では仏教というよりは修験道と認識されているが、当時はごちゃ混ぜだったということでしょう。
第4話が道照(629~700)、第5話が道慈(?~744)、第6話が玄昉(?~746)です。いずれも、唐で教学を学んだ。
道照は玄奘三蔵(602~664)から、とても信頼されて教学を学んだことで有名である。
道慈は、当時の日本仏教が本当の仏教からズレていると批判し、僧尼の質向上のため唐から授戒師招請を提案した。
玄昉は藤原宮子(聖武天皇の母)の病気回復を成功させ、政治的な基盤を獲得した。藤原4兄弟政権の後の橘諸兄政権では、吉備真備と玄昉の2人が、橘政権を支えた。
そして、第7話が婆羅門僧正、すなわち菩提僊那である。第8話が鑑真(688~763)である。7~8話は、来日僧で並べてある。鑑真の来日は754年で、道慈の提案は、その後、隆尊(後述します)の建議となり、栄叡・普照(後述します)によって実現したのであった。
第9話は弘法大師(空海、774~835)、第10話は伝教大師(最澄、766/767~822)。説明を要しないだろう。
第11話は円仁(794~864)、第12話は円珍(814~891)となっている。世に、入唐八家なる用語がある。最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡の8人であるが、円仁も円珍も、そのひとりである。円仁の『入唐求法巡礼行記』は、とても有名です。
ということで、平安・鎌倉時代までは、菩提僊那は超有名だったことがわかる。しかし、その後は、なんとなく時間とともに記憶が遠ざかっていったという感じである。
(2)『今昔物語』
とりあえず、平安時代末期につくられた『今昔物語』の巻第11の第7話「婆羅門僧正、行基にあわんが為に、天竺より来る」を紹介します。史実は、婆羅門僧正を行基が難波津で出迎えた。婆羅門僧正が大仏開眼の導師をした。それ以外は、たぶんフィクションです。
今は昔、聖武天皇が東大寺を建立し開眼供養をなさろうとした。そのとき、行基を講師(導師)に任じようとした。
行基は「私は、その任に不適格です。やがて、外国から講師を勤め得る人が来るでしょう」と申し上げた。
そして、その講師を迎えるため、天皇に奏上して、100人の僧を引き連れ、行基は100人目に立ち、治部省玄蕃寮(僧尼の管理、外国使節の接待を担当する役所)の役人を引き連れ、摂津国難波津へ行った。だが、見渡しても、来る人はいない。
そのとき、行基は、ひとつの閼伽(あか=客人をもてなす水を入れた器)を海に浮かべた。その閼伽は波で壊れることもなく、はるかに西へ流れていって、見えなくなった。しばらくすると、1艘の船が現れ、その船の前に閼伽が浮かんでいる。その船には、婆羅門僧、名を菩提という僧が乗っていた。この人は、南天竺の人で、東大寺供養に参列するために来たのである。このことを行基は予知して迎えに来たのである。
婆羅門僧は船から上陸して、行基と互いに手を取って喜び給うこと限りなし。
はるかに天竺より来た人を、日本の人が待ち受けて、昔からの知り合いのように睦まじく語り合うとは、奇異なことだ。皆が不思議がっていると、行基が歌を贈った。
霊山(りょうぜん)の 釈迦の御前にて 契(ちぎり)てし 真如(しんにょ)朽(くち)せず 相(あひ)見つるかな
(現代訳)霊鷲山のお釈迦様の御前で、約束しましたね、真理が永久不変のように、不変な約束どおり、再び会うことができましたね。なお、「霊山」とは霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。インド北部・ネパールの南にあり、釈迦が『法華経』や『無量寿経』を説いた山。この山は場所も忘れ去られていたが、第1次大谷探検隊が発見した(1903年)。
婆羅門僧の返歌
迦毘羅衛(かびらえ)に 共に契りし 甲斐(かひ)有りて 文殊の御顔(みかお) 相(あひ)見つるかな
(現代訳)迦毘羅衛の地で、共に約束したかいがあって、今、文殊菩薩であるあなたの御顔に、再び会うことができましたね。迦毘羅衛は釈迦生誕の地。
これを聞いて、人々は、行基は、さては文殊菩薩の化身だったのだ、ということがわかった。
その後、行基は婆羅門僧をつれて都へ帰った。天皇は喜び、この人を講師として、念願どおり東大寺の開眼供養をした。婆羅門僧正とは、この人を言う。以後、大安寺の僧となった。
この人は、元、南天竺迦毘羅衛国の人である。文殊菩薩にお会いしたいと祈願していると、貴人が現れて、「文殊は震旦(しんだん)の五台山におはします」と告げた(震旦とは古代中国の異名。五台山は文殊菩薩の聖地とされている)。そこで、天竺から震旦へ行き、五台山を尋ね詣でたら、途中の道でひとりの老婆に会った。その老婆が「文殊は日本国の衆生を利益(りやく)するため、日本国に誕生しました」と告げた。それを聞いて、本懐を遂げるため日本に来たのである。
その文殊がこの国に誕生なされたというのは、行基その人です。従って、「菩薩が渡来なさる」と予知して、ここに来て、お迎えしたのである。また、婆羅門僧もそのことを知っていて、旧知の人のように互いに語り合ったのです。
凡人は、そんなことを知らないので不思議がっている、それは実に愚かな光景である、と語り伝へているということだ。
以上が、『今昔物語』の巻第11の第7話「婆羅門僧正、行基にあわんが為に、天竺より来る」です。婆羅門僧正もスゴイが、行基もスゴイな……という感想が多いのではないかしら。
なお、平安時代初期の説話集『日本霊異記』にも行基は「文殊菩薩の化身なり」と記載されてあり、たぶん行基は生存中から文殊菩薩の生まれ変わりと信じられていたようです。
(3)『南天竺婆羅門僧正碑並序』(『婆羅門僧正碑文』)
菩提僊那の資料は、インドや中国にもなく、日本に少し存在しているだけだ。最も古い資料は、『南天竺婆羅門僧正碑並序』である。
菩提僊那は760年に死亡した。そして、弟子の修栄(生没年不詳)は、師の業績を後世に残すため、像を造り、像に「辞」を付した。その際に、修栄の気持も含めて、菩提僊那のいわば総集編として「序」を書いた。その「序」が『南天竺婆羅門僧正碑並序』である。
「序」の最後に、「神護景雲四年(773年)4月21日 故婆羅門僧正のお近くに侍った弟子である伝燈住位の僧、修栄がこれを記した」とある。
この『南天竺婆羅門僧正碑並序』は、永らく存在を忘れられていたが、江戸時代に卍元師蛮(まんげんしばん、1626~1710)が、『本朝高僧伝』を編纂執筆するため東大寺戒壇院で諸書を探索していて発見したものである。
さて、『南天竺婆羅門僧正碑並序』の現代語訳は、中央公論社の『日本の名著2・聖徳太子』の中に「婆羅門僧正碑文」という題名で掲載されてある。分量は6ページですから、すぐ読めます。私なりに、そのエキス中のエキスと若干の補足を交えて要約してみます。
太陽にたとえられる仏(釈尊)は西に沈んだが、遺された教えは東にひろがった。
この僧正は、諱(いみな=死後の呼び名)は菩提僊那(ボーディセーナ、ぼだいせんな)、姓はバーラドブヴァージャ、バラモン階級の出身である。インドの16ヵ国は彼の高徳を景慕し、95種の異教徒の学派は彼の秀でた姿を賛仰した。
彼は月支(アフガン辺り)の支讖(しせん、ローカクシェーマ)や安息国(パルティア、西域の国)の安世高を模範としていた。支讖も安世高も西域の僧で中国へ行き、経典を中国語に翻訳し、仏教普及の基礎づくりをした。菩提僊那は、雪峰(ヒマラヤ)を越え、雲海(南海)に船を浮かべ、ついに大唐に到った。
若干、菩提僊那から横道に外れるが……。
聖武天皇は、第10次遣唐使の大使に多治比広成(?~739)を任じた。733年4月に難波津を4隻で出発し往路は無事だった。なお、「第10次」と書いたが、数え方によっては、「第9次」になるので、ご注意を。
しかし、734年10の帰路は大変。4隻とも遭難。
それでも、第1船は11月にかろうじて種子島に到着した(同船者に、大使・吉備真備・玄昉)。
第2船(副使乗船)は唐に押し戻され、船を修理して736年には帰国できた。
第3船(判官・平群広成が乗船)は、もう大変大変の連続。南ベトナムへ流され、現地勢力の襲撃とマラリアで生き残ったのが100人中の4人だけ。それも逮捕・抑留。脱出してやっと唐へ戻った。帰国のため渤海国へ行き、渤海大使と一緒に日本海を渡ろうとしたが、2隻のうち1隻が転覆した。残り1隻は出羽国に到着(739年)。平群広成(へぐりのひろなり=?~753)は「古代日本人で最も広い世界を見た人」である。
第4船は、行方不明となった。
第10次遣唐使の目的は、むろん唐の皇帝への朝貢であるが、それ以外にも留学生・留学僧の入れ替え、さらに才能ある唐人などを日本に招くことがあった。第10次遣唐使の派遣者の中には、僧・栄叡(ようえい、?~749)と僧・普照(生没年不詳)がいた。栄叡・普照の最大任務は伝戒師招請であったが、それ以外にも優秀な僧、音楽・舞踊家も招くこともあった。伝戒師招請は、実に20年の歳月の後、754年に鑑真の来日で実現した。普照は鑑真と一緒に帰国できたが、栄叡は中国で病死した。
そして、第10次遣唐使の帰路の第2船には、禅と華厳経の道璿(どうせん、702~760)とともに菩提僊那もいた。菩提僊那の弟子でベトナム出身・舞踊が得意な仏哲もいた。さらに、唐人楽師・皇甫東湖、唐人楽師・袁晋卿(大学の音博士となる)、ペルシャ(現在のイラン)人の李密翳(りみつえい、得意技能不明)もいた。
余談ながら頭の整理。インド人で最初の来日した人が菩提僊那、ベトナム人で最初に来日した人が仏哲、イラン(ペルシャ)人で最初に来日したのが李密翳です。
関連して、鑑真の随員として来日した如宝(?~815)は、胡国の人(西域の人)である。安如宝と言われたから、安国(ブラハ、古代からオアシス都市国家として栄えた)出身ではないか、と推理されている。となると、ウズベキスタン人で最初に来日したのが如宝である。鑑真死後、如宝は鑑真の後継者として唐招提寺の伽藍造営などに尽力した。
まったくの余談ですが、私の住む杉並区西荻のJR西荻窪駅南口にウズベキスタンのワインの店がある。たぶん、ウズベキスタン人は、そのことを知らないのではないか……。
菩提僊那の伝記の本筋に戻して……。
唐にいた菩提僊那は、第10次遣唐使の大使・多治比広成および在唐の日本人僧・理鏡からの要請で来日に応じた。ベトナム僧の仏哲、唐僧の道璿といっしょに第2船に乗った。暴風雨で遭遇したが、なんとか736年5月18日、筑紫の大宰府に到着した(「序」では734年となっているが、史実は736年。「序」には、ほかにも年の間違いがあるので、修正した)。
そして、同年(736年)8月8日、難波に到着。ここで、行基のお出迎えで、あたかも旧知のごとくであった。
菩提僊那は僧侶からも俗人からも、都市でも村落でも大歓迎を受けた。聖武天皇の勅により、大安寺に住むことになった。
日常は『華厳経』を読誦し、「呪術」にも詳しく、弟子に伝授した。
751年、僧正の位に就く。
760年2月25日、死亡。同年3月2日、火葬。57歳であった。
以上が、『南天竺婆羅門僧正碑並序』のエキスである。菩提僊那の「像」も「辞」も間違いなく造られたに違いないが、紛失してしまった。従って、『南天竺婆羅門僧正碑並序』が菩提僊那の最大の資料である。
(4)『続日本紀』
当時の勅撰の歴史書、すなわち公式記録は『続日本紀』である。それには、3ヵ所、菩提僊那が記載されている。
第1が、来日直後の記載である。
736年(天平8年)8月23日、遣唐使副使・従5位上の中臣朝臣名代らが、唐人3人・ペルシャ人1人を率いて、帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。
同年冬10月2日、天皇は唐僧の道璿、婆羅門僧の菩提らに、時節に適った服装を施した。
たぶん8月23日の時点は、菩提僊那は唐人と見なされていたのだろう。
第2は、751年(天平勝宝3年)4月22日、天皇は詔して、菩提法師を僧正に、良弁法師(689~774)を少僧都に、道璿法師と隆尊法師(706~760)を律師にそれぞれ任命した。
大仏開眼供養は1年後の752年(天平勝宝4年)4月9日である。その準備人事である。
良弁は、東大寺の開山。受験的丸暗記ならば、良弁―華厳経―東大寺―華厳宗で完璧。
隆尊は、授戒師招請を建議した。それが契機となり、栄叡・普照の派遣となった。そして、道璿、鑑真の来日となった。
第3は、758年(天平宝字2年)8月1日、孝謙天皇が譲位された際のことである。この日の記述は長いが、菩提僊那に関係する部分を要約すると、孝謙天皇に宝字称徳孝謙皇帝、光明皇太后に天平応真仁正皇后の尊号を上申したということです。
不思議に思うのは、日本史上最大級イベントである、752年4月9日の大仏開眼供養の『続日本紀』の記述は、あっさりしていることです。
752年4月9日、東大寺の廬舎那仏が完成して、開眼供養をした。この日、天皇(孝謙女帝)は東大寺に行幸し、天皇自ら文武の官人たちを引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行った。その儀式はまったく元日のそれと同じであった。5位以上の官人は礼服を着用し、6位以下の官人は位階に相当した朝服を着た。僧1万人を招請した。それまでに、雅楽寮および諸寺のさまざまの楽人がすべて集められた。
また、すべての皇族・官人・諸氏族による五節の舞・久米舞・楯伏(たてふし=楯・刀をもって舞う)・踏歌(とうか=群舞)・袍袴(ほうこ=袍や袴をつけた舞)などの歌舞が行われた。東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、いちいち書きつくせないほどであった。仏法が東方に伝わって以来、斎会(さいえ=食事を供養する法会)として未だかつてこのような盛大なのはなかった。
この日の夕は、天皇は大納言の藤原朝臣仲麻呂の田村第に入られ、御在所とされた。
この記述からは、大仏開眼供養の中心である菩提僊那らの儀式は何も語られていないのである。おそらく、神仏の秘事は書くべきではない、と信じていたのであろう。ただし、後日の『東大寺要録』などには、書かれてある。
大仏開眼供養の盛大なる規模をイメージするならば、当時の全人口は700万人で、全官人、僧1万人、全楽団・舞人が参加したのだから、オリンピック開会式の数十倍以上の超大イベントだった、と想像する。そのハイライト中心人物がインド人僧の菩提僊那であった。
蛇足ながら、超大イベントは成功したが、奈良の血みどろ権力闘争は終息しなかった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。