もうすぐ還暦を迎えようとするロートルライターの私だが、ノンフィクションや雑誌の取材のためインタビューする相手は、未だに自分より年長者が多い。若者の世界に関心が薄い、という点は確かにそうなのだが、それより私が書き手として「時間軸を重視する作風」にこだわっていることが、おそらく最大の理由だろう。「現在進行形の社会事象」を書く場合も、ことがここに至るそもそもの経緯、つまり「歴史的文脈」を、最低でも数十年分は辿るようにしている。そのほうが問題を深く理解できる。そのために古い事情も知る関係者をいつも探すのだ。
ネット検索の断片情報で満足してしまう今どきの書き手には、このような手法をとる人はあまり見当たらない。ノンフィクションやドキュメントで「現代」を書く行為に、「歴史の一断面を切り取る」という意味合いがあることを認識せず、時間軸を重視しないのだ。そもそも読書習慣が乏しく、一時代前はある種、ノンフィクションを書く際の定石であったノウハウを知りもしないのだろう。「紙文化」の時代の蓄積が「ネット時代」への移行期に、すっぽりとこぼれ落ちてしまう。そんな一例のように思われる。
年配の証言者の貴重さは、とりわけ戦争中、もしくは終戦直後に関する調査時に痛感する。もう少し早く訪ねていたら肉声が聞けたのに、という場面にしばしば遭遇する。ちなみに昭和期の宰相・田中角栄は、生前「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」と警鐘を鳴らした。最近はそう言っても、訳知り顔の手合いがすぐ「平和が大事とか、そんな話だろ? 年寄りの話は退屈だし、聞く価値はない」と冷笑するだろう。
そんな上っ面のことではない。「国家の暴走の恐ろしさ」をたとえ無意識にでも、あの世代は骨身に感じたのだ。輸入された“民主主義”の概念など、一部インテリしか正確には理解しなかった。それでも民衆は、理屈でなく肌感覚で「国家主義の行くつく先」の光景を見て、強権的な政治や国家への盲従を警戒するようになったのだ。イデオロギーの左右とは別の話。保守本流と呼ばれた政治家も「権力の行使は抑制的であるべきだ」と、昭和期は大多数が考えた。前述した角栄の言葉は、そういう意味合いのことだった。
大衆の思いはあくまでも「直感的教訓」であり、これを正確に言語化してわかりやすく説明できる人はさほどいなかった。そのために、ある時期まで間違いなく存在した、この「国民的感覚」は、次世代にはあまり受け継がれず、世代交代とともに消え去ろうとしている。子供世代、孫世代の継承者は、文字や映像で過去を知ろうとした少数者に限られる。
そこに来て、近年の読書人口の減少である。「歴史的文脈」を知る意味を理解しない人が多数派になりつつある。終戦直後だって、固い本を読むインテリはひと握りだったはずだ。それでも300万以上もの人命が無残に失われ、焼け野原の風景に立ち尽くす体験をしたならば、誰しもが何らかの感慨を持つ。そんな国民的な体験がかくもあっさりと色褪せてゆくことに、やるせなさを禁じ得ない。
週刊文春で今号から『きれいに生きましょうね』という新連載が始まった。筆者は87歳になる大女優・草笛光子さん。彼女が初回に綴ったのは、被爆直後の長崎での有名な写真「焼き場に立つ少年」についてのことだった。スキャンダルを売りにする、あの文春からの執筆依頼ということで、驚き、身構えた草笛さんだったが、自分なりに《私の人生も、あともう少しで終わりだろうから、歯に衣着せないで、言うだけのことを言って消えて行こうと思っています》と思い、引き受けることにしたという。もちろん、彼女の文章も、活字情報である限り、読者は一部の少数者に限られる。それでも、文春のようなメジャー誌が、戦争を知る世代の切実な思いを地道に残すという「らしからぬ企画」に踏み切ったことは、高く評価したい。彼女がその胸中を思いのまま語り尽くすまで、何年もの長寿企画として続くことを期待したい。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。