雑誌文化の衰退を如実に感じる場所がある。東京の京王線・八幡山にある大宅壮一文庫である。総合週刊誌や月刊誌、あるいはファッション誌、芸能誌、実話誌など多分野の雑誌約1万3000種、80万冊ものバックナンバーを所蔵する図書館だ。しかし、最近はいつ行っても人影は疎ら、閲覧スペースに数人しかいないこともある。複写した資料を受け取るカウンターの待ち時間が大幅に短縮したことは、個人的に喜ばしく思っているのだが……。


 雑誌記者であれ、テレビや新聞の記者であれ、それなりに深い取材をする際には、大宅文庫や公的な図書館でひと通りの下調べをする。以前はそれが当たり前だった。最近のライターは、ネット検索ですべて済ますのか。大宅文庫でも一線に立つ20~30代の若手より、ロートル組ばかり目立つ。しかし、試してみればわかる。ネット検索で見つかるのは、「紙の世界」の情報のごく一部。昭和期の事柄なら両者の分量は雲泥の差だ。


 取材の開始時に、一気に雑誌データをかき集める。大宅文庫は、そんな使われ方をする。不確かな雑誌情報と馬鹿にするなかれ。物事の概要をつかむには、専門書を紐解くよりはるかに効率がいい。信頼度の高そうな記事、怪しげな記事を一瞥して見分ける能力も、慣れればすぐ身につく。一度に閲覧できる上限は、会員なら100冊。端末のキーワード検索で、まずタイトルや雑誌名によって閲覧誌を選び、その場で斜め読みをして、精読すべき記事を複写して持ち帰る。その束にひと通り目を通せば、取材の道筋がある程度浮かんでくるのである。関係者や専門書に当たる直接的取材は、それからの作業になる。


 締め切りに追われる雑誌記事の取材では、最初の1日か2日でこのプロセスを終え、取材に取り掛かる。年単位の作業でノンフィクション書籍を書く場合も、入り方は同じだ。硬軟さまざまの記事を最初に読むことで、押さえるべき文献や関係者の人名が芋づる式に見えてくる。当事者や識者の肉声を聞くにあたっても、この事前作業の有無によって、的を射たインタビューになるか否かが左右される。


 まっとうな調査とトンデモ陰謀論を見分けられない人が増えた今日この頃、「リテラシー」なる言葉がもっともらしく語られるが、自分自身の手で一定量の資料類に接し、調べものをする習慣を身につければ、まがい物はすぐわかるようになる。いったいなぜそんなことが言えるのか。個々の論点で論拠を示さない書き方をした文章は、危なくてまず使えない。雑多な資料を眺めておくことで、異論の存在も自然と目に入り、慎重に扱うべきポイントが押さえられる。取材の段取りは各ライター十人十色かもしれないが、こうした下準備なしに動き出す人の考えが正直、よくわからない。閑古鳥の鳴く大宅文庫の光景は、取材記事やノンフィクションの劣化を如実に示しているように思われてならない。


 今週の週刊文春『家の履歴書』では、評論家の大宅映子さんが自身の人生を回想し、昭和の大評論家だった父・壮一氏の没後、その雑誌コレクションを一般に開放する「大宅文庫」を設立した経緯などを語っている。テレビ文化人として昔から知られる彼女だが、正直なところ評論やジャーナリズムの実績は、寡聞にして知らない。ネットで著書を調べても、子育てや家族論などのエッセイがいくつかある程度。「大宅壮一の娘」という以上の肩書は見当たらないのである。それでも大宅文庫の理事長として、施設の存続に努力する姿には敬意を払いたい。テレビで世相をそれなりに語れるのも、父譲りの「資料の読み方」を身につけたおかげだろう。そんな大宅文庫もことしで開設50年。無数の取材者の「ベースキャンプ」であり続けたこの施設を、何とか残すべく奮闘していただきたい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。