フィールドワークとカタカナで書くと、そのまま、研究のための現地調査を意味することが多いように思う。その感覚も間違いではないと思うが、フィールドワークはもともとfieldwork という外国語だったはずで、fieldwork は、(1)畑仕事、(2)現地調査、の2通りの意味がある。生薬・薬用植物に関するfieldwork は、この両方を研究手法として利用する。畑仕事のほうは、研究対象の植物を圃場などで栽培して実験材料に供する、あるいは栽培方法そのものを研究対象とする、などの実例を思いつきやすいと思うが、現地調査とはいったい、何をするのだろうと思われる方もおられるだろう。


 そもそも、生薬の分野に限らず、現地調査とは、普段は研究室に居る研究者が、研究室を出て、研究対象に近づいていって、観察したり触れたりして調査することである。研究対象が存在する場所は外国に限らず、国内である場合もあるし、研究施設がある同じ敷地内かもしれない。研究対象を環境から切り取って、実験室という研究者の土俵の中に持ち込むのではなく、研究対象が本来存在する環境の中にある、あるがままの姿を観察し、その状態で研究を展開する。あるいは、状況を確認した上で、それらを実験室に持ち込むための現地調査というのもある。


 薬用植物の研究など、わざわざそれが生えている場所に出向かなくても、研究対象が生えている場所の近くに住んでいる誰かに採集してもらって、それを研究室で分析したらいいじゃないか、と思われるかもしれない。実際、博物学などの分野も含め、そのような方法で研究している研究者は多いようである。薬学でも、天然物化学など化合物の形や生物活性が最大の関心事である場合は、その方法で良いと考えられる。しかし、生薬学では、その生薬についてのすべて-生育環境、収穫されるまでにかかる年月、乾燥前の植物の形や色、収穫後の加熱や洗浄処理の実際、つきやすい虫、などなど-を知らなければ解きほぐせない疑問や問題点がポツポツと現れるため、生薬そのものに向き合いはじめると、筆者などはどうしてもそのあるがままの姿を原産地に訪ねたくなってしまう。


 原産地に出向いて、その植物のありのままを知ることで得られるものは多い。また、可能な場合は、同時に研究室でも育てて間近にその経時変化を観察する、もうひとつのフィールドワーク(畑仕事)と組み合わせることで、よりユニークな着想や発見の機会を得たりする。沈香の場合も、結果的にはフィールドワークを絡めることで、“乾燥した植物遺体”とも言える生薬をみているだけではわからなかった、さまざまなことや変化に気づくことができた。そして、実はその研究はまだ現在進行形である。


 筆者が沈香を研究対象として現地調査に出たのは、2000年頃が初回である。前回書いた、瓢箪から駒のように大型研究費の受領が決まってから、その研究費を使って調査に出たのである。出かけた先は、沈香の最も有名な産地で、沈香のうちでも最高級品の伽羅が産出するところ、ベトナムであった。



 ベトナムにはそれより以前、1995年にも筆者は現地調査で2回ほど訪れている。その時は、山間の少数民族の貧困対策として換金性のある作物を提案して欲しいという政府の要請を受けたNGOから、民間薬の調査と自生する薬用植物の種類の調査を依頼された自分の指導教員と一緒に出かけたのであった。初めて行った現地調査がこの1995年のベトナムだったなあなどと思い出しながら、ぱらぱらと記録ノートをめくっていてびっくりしたのは、この1995年のノートに「沈香」の文字があったことである。この時には沈香が将来の自分の研究対象になろうなどと、ゆめゆめ思ってもいなかったと思うが、ベトナムで昔から有名な生薬といえば、沈香と桂皮、そういう話をきっと指導教員から教わって書いた、のだろうと思う。


 2000年1月上旬に沈香を探して行った現地調査は、準備期間はわずか2ヵ月ほどだった。今と違って当時は入国にビザも必要だったし、なにかにつけて人民委員会の統制が厳しく、ベトナム国内に我々の案内をしてくれる共同研究者が無ければ、現地調査はできなかった。電子メールや携帯電話がまだ普及していない時分で、現地との最も早い連絡手段は国際電話を利用したファックスだったし、ビザ取得のための招聘状は1週間ほどかかる国際郵便で送ってもらうしかなかった。この状況下で極短時間ですべてを整えて調査に出発できたのは、先の1995年の現地調査の時に作った、ヒトの繋がりがあったからである。


 2000年1月の現地調査のノートには、1995年と比べてベトナムが大きく変化したことが驚きをもって書かれている。1996年に米国大統領が初めてベトナムを訪問するなど、この頃のベトナムは激しく変化している時期だった。観光客など多くの外国人が入ってくる前の1995年、フランスの植民地時代の面影があちこちに残り、英語がなかなか通じないベトナムで、現地調査に従事したことは、今思えば貴重な経験だったということだろう。



 1995年に初めてベトナムに現地調査のお供で出かけてから後、2000年までの間に、筆者は海外の現地調査で主に中央アジアの国々を何度も訪れている。そこでの現地調査はベトナムでの現地調査とはまったく異質なものだったが、1996年に助手に採用されたこともあり、現地調査の準備から実行、後片付けに至るまで、すべてを任されて実行する役まわりがすっかり定着していた。我々の現地調査は数名のグループで行うことが多く、調査ではそれぞれの得意分野を担当する。筆者は現地研究者との連絡、意思疎通から始まる準備と実行の裏方、それにグループの財布役、通訳、記録、さく葉標本作り、必要な場合は食事作りなどなどであった。


 最もたいへんだったのは、財布役である。調査に行く先の国は、いわゆる発展途上の国が多く、会計はすべて現金である。現地の空港やその近くで換金するが、日本円から直接現地通貨への換金はできないことが多く、米ドルからの換金が常であった。滞在が1ヶ月程度だと、車と運転手の借り上げ費用などがけっこうかかるので、30〜50万円ほどを米ドルにして持っていっていただろうか。ベトナムの場合も、今では日本との繋がりが深くなって、ベトナム国内の多くの場所で日本円からベトナムドンに簡単に換金できるが、1995年や2000年の当時は、日本円を米ドルに換金して持っていって、空港や大都市にある外国人専用の換金所でベトナムドンに換金するか、信用できるベトナム人に現金を預けて両替所で換金してもらうしかなかった。


 日本で米ドルに換金するところで換金手数料がかかり、調査国でそれを現地通貨に換金するところで再度手数料がかかる。また、いったん現地通貨に換金すると、それはもう米ドルに戻すことはできなかった。2度の換金を経て得た現地通貨の会計を、グループの大所帯分、全部ひとりで扱わされていた。しかも、元になった日本円は、すべて自分の個人の現金である。調査終了後帰国して、すべての精算をして、書類を揃えて大学事務に請求して、それからあれやこれやと質問に答えて、修正に応じ、じーっと待ってやっと研究費から自分の口座に返金してもらえる、そういうシステムだった。またこのシステムでは、日本国内で米ドルに換金した時の手数料は支払ってもらえないし、使い残した現地通貨は手元に残るだけでどうしようもないし、現地の言語(外国語)で書かれた領収書は「領収書に見えない」などの理由で経費として算入させてもらえないものが結構たくさんあって、最初に出した自分の現金のうち、毎回、数万円から十数万円分は返ってこなかった。つまり、現地調査に行くたびに、必ず筆者の預金が削られていくシステムだった。現地調査を行う研究費の研究代表者に相談しても、財布を預かっているのはお前なのだから、全部自分で始末せよ、と言われてとりあってもらえなかった。ず〜っとこの仕組みのまま、現地調査を繰り返していたが、状況が少し変化したのは、大学が法人化されて時間が経ち、様々な点で会計システムが変更され、さらに、自分が各種の研究プロジェクトの研究代表者になれるようになって、事務と対処交渉できるようになってから、である。しかし、基本的なところは大きく変わっていない。これまで何十回も行ってきた現地調査で、研究費から支出すべき費用なのに個人の財布から支出して、返してもらえなかった金額を合計すると、軽く100万円は超えるのではないだろうか。


 なんだか、現地調査の記録ノートを開いたことが、パンドラの箱を開けてしまったような状況になってしまった。でも、フィールドワークという綺麗な言葉の響きの裏に、こんな実情があるということは、当事者にしか書けない事実なので少し遠慮気味に書いてみた。良かった事も良くなかった事も、一気に蘇る現地調査の記録ノートであった。


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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。