(1)田沼時代から寛政の改革


 大田南畝(1749~1823)は、狂詩、漢文、狂歌、随筆、洒落本、黄表紙など膨大な文筆活動をなした。とりわけ、狂歌のナンバーワンであり、江戸の「天明狂歌」の爆発的大流行の中心にいた。


 南畝(なんぽ)は号、つまりペンネームである。本名は、覃(ふかし)という。ペンネームは、南畝のほかにも、寝惚(ねぼけ)先生、四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)、杏花園、風鈴山人など多数ある。狂詩の場合は寝惚先生、狂歌の場合は四方赤良を称することが多かった。

 

 大田南畝の家は御家人である。旗本の下が御家人で、御家人でも一番下の徒歩(かち)である。徒歩は、約500~600人いた。「徒歩」はその名のとおり、馬に乗らず走り回る歩兵の役割で、俸禄は70俵5人扶持である。現代の感覚からすると、年収約400万円という感じかな……。5人家族ならギリギリ生きていけるが、大半は札差(ふださし)なる高利貸しから借金をしているため、内職をしていた。


 下級武士なので家屋は小さいが、敷地は200坪以上ある。だから庭が広い。そのため、鈴虫、こおろぎ、小鳥、金魚、植木などの内職が広がった。さらに、傘張り、竹細工……なども多かった。徒歩の公務時間は、特別なことがない限り、月に5~6日の勤務であった。暇だったので、内職が可能だった。


 なんにしても、一番下の下級武士の家である。出世をするためには、泰平の世であるがゆえに、学問で秀でるしかない。


 当時の学問の基本は儒学(漢学)である。15歳のとき、内山椿軒(ちんけん、1723~1788)に入門し、儒学を本格的に学ぶ。内山椿軒はコチコチ・ガチガチの儒学者ではなく、漢詩、狂詩、国学、狂歌なども教えていた。「広く浅く、硬く柔らかく」という感じなのであろう。内山の門下から、やがて、狂歌の達人が続々と育った。


 18歳のとき、漢学者の松崎観海(1725~1776)からも学んだ。松崎観海は荻生徂徠(1666~1728)→太宰春台(1680~1748)系統の人物である。分類すれば、古学派である。江戸時代の儒学は、大雑把に言って、①朱子学派、②陽明学派(基本は朱子学であるが、現状批判の精神がある)、そして、③古学派がある。古学派は、朱子学・陽明学は宋や明の時代のもので、孔子・孟子に帰ろう、ということであるが、現実の社会・経済の改革政策に大きな関心を持っていた。荻生徂徠は、大都市集中を抑制するため、武士の土着化を説いた。太宰春台は武士の商業活動を推奨した。


 幕藩体制は、行き詰まりを見せていた。当然、改革が実行されたが、上手くはいかなかった。時代を認識するうえで、次のように認識すると便利かと思う。「徳川吉宗の享保の改革(1716~1735または1745)」→「田沼意次の田沼時代」→「松平定信の寛政の改革(1787~1793)」→「徳川家斉の大御所時代」→「水野忠邦の天保の改革(1841~1843)」である。


 若干補足すると、田沼時代とは、巨視的に眺めれば、享保の改革と寛政の改革の間の時期であるが、狭く解釈すれば、田沼意次(1719~1788)が側用人に昇格した1767年(明和4年)から失脚した1786年(天明6年)の時期をいう。


 また、「大御所時代」とは、第11代将軍徳川家斉(1773~1841、在任1787~1837)の時期をいう。家斉が将軍職についた1787年は、松平定信(1759~1829)の寛政の改革が始まった(田沼意次の失脚)ときである。家斉は、まだ15歳であった。寛政の改革6年目の1793年に、家斉と松平定信が喧嘩となり、定信は失脚する。その結果、将軍家斉の側近政治となり、幕政は腐敗横行、インフレ政策で物価騰貴となった。


 家斉自身も側室40人、子供55人(内27人は早世)で、大奥ハーレムを中心に贅沢三昧という有様。家斉は1837年に隠居しても、死去まで大御所として君臨した。大御所として君臨したのは、わずか4年であったが、松平定信失脚から家斉死去までを「大御所時代」(1793~1841)と呼ぶようになった。


 なお、大御所時代は元号で言え、寛政(1789~1801)、享和(1801~1804)、文化(1804~1818)、文政(1818~1831)、天保(1831~1845)に該当するが、文化文政時代(化政時代)とも呼ばれ、江戸文化が大いに栄えた。


 大幅に、横道に逸れたが、大田南畝(1749~1823)は、田沼時代、寛政の改革、大御所時代の人物である。あらかじめ言えば、田沼時代の大田南畝は、狂歌で大活躍した人気ナンバーワンの狂歌の人であった。しかし、寛政の改革、それは幕政批判・風刺を許さない風紀取締を伴っていたため、南畝は狂歌と縁を切って、役人職務を第一とする真面目人間に変身する。ただし、昼は真面目役人であっても、夜は一流の遊び人、一流の作家であった。


(2)狂詩狂文『寝惚先生文集』で一躍、有名人に


 前述したように、大田南畝は、2人の儒学者から学んだ。1766年(明和3年)、18歳のとき、漢詩参考書『明詩擢材』(みんしてきざい)を書いた。そして、翌年の1767年(明和4年)、19歳のとき、狂詩狂文の『寝惚先生文集』を出版した。狂詩26首、狂文10編、そして序文は、風来山人である。風来山人とは、平賀源内(1728~79)のペンネームである。


 天才・平賀源内は江戸では超有名人であった。『昔人の物語・第11話』をご参照ください。『寝惚先生文集』は、序文が平賀源内ということもあったが、内容も大したもので、狂詩を滑稽文学として確立した。


 26首の狂詩のひとつが、『貧鈍行』である。原文は漢文なので、現代文で紹介します。


 貧鈍行

 貧すれば鈍する 世を奈何(いかん)

 食うや食はずの吾が口過

 君聞かずや 地獄の沙汰も金次第

 かせぐに追い付く 貧乏多し


 そうだ、そうだ、「稼ぐに追い付く貧乏なし」なんて、噓っぱちだ。世の中は、働いても働いても、貧乏だ!という本音がズバリ。題名の『貧鈍行』は、唐の杜甫(712~770)の『貧交行』のパロディです。蛇足ながら、杜甫は李白と並んで、唐(中国)の2大詩人である。参考までに、『貧交行』を掲載します。


 貧交行

 手を翻(ひるがへ)せば雲と作り 手を覆(くつがへ)せば雨となる

 紛紛たる軽薄 何ぞ数ふるを須(もち)ゐん

 君見ずや管鮑(かんぽう)貧時の交はりを

 この道 今人(こんじん)棄つること 土の如し


 状況では雲にも雨にもなるように、ころころ態度を変える軽薄な様子は、数える必要もないくらい多い。君は知っているでしょう。管仲と鮑叔の貧しい時の交わりを。この大切な交友の精神を今の人は土くれのように棄ててしまった。

 

 当時の教養人は、杜甫の『貧交行』を知っている。寝惚先生の『貧鈍行』を読めば、必ず、杜甫の『貧交行』も思い浮かべる。読者の頭の中は、『貧鈍行』と『貧交行』がミックスされ、今の世は、貧しいときの友情は捨て去られ、すべては金次第、なさけなや……という強烈な社会風刺を感じるのである。

 

 大田南畝は『寝惚先生文集』のヒットで、一躍、売れっ子作家になった。次々に出版依頼が来た。どんどん書いたが、現代のように著作権などなく、1冊書いても、お小遣い程度の謝礼が貰えるだけである。しかし、出版社は作家を茶屋・遊女屋で接待するのが常態であるため、南畝は「色と酒」の世界へ一直線。


(3)「天明狂歌」爆発


 1769年(明和6年)、狂名・唐衣橘洲(からころもきつしう、1744~1802)は、大田南畝(21歳)、平秩東作(へづつとうさく、1726~1789)らを誘って、初めて狂歌会を実施した。3人とも、内山椿軒の弟子である。唐衣橘洲は、田安家の家臣であり、大田南畝と同類の下級武士である。平秩東作は煙草商である。ほかに2人いて、5人の集まりであった。日本初の狂歌会は、下級武士と町人の5人の、ささやかな集まりだった。


 平秩東作に関して一言。彼は煙草屋であるが、非常に興味深い人物で、田沼意次の手足(忍者・情報屋)となって動いていたようだ。田沼の命での夷地調査にも出かけている。平賀源内を田沼に紹介したのも平秩東作のようだ。田沼の懐刀で勘定組頭の土山宗次郎(1740~1788)とも懇意であった。


 ささやかな狂歌会であったが、町人・大根太木(おおねふとき)、湯屋の元木網(もとのもくあみ)、その妻の知恵内子(ちえのないし)、内山門下の朱楽菅江(あけらかんこう)、その妻の節松嫁嫁(ふしまつのかか)、宿屋の宿屋飯盛(やどやのめしもり)……続々と狂歌愛好家が増えていった。


 大田南畝は狂名を「四方赤良」(最初は四方赤人)とした。当時、日本橋で売られている「四方の赤味噌」が評判だった。味噌から糞を連想するのが気に入ったのだろう。


 若干の狂歌の説明をしておきます。和歌は、5・7・5・7・7で、狂歌もその形式。和歌は、『古今和歌集』以来、花鳥風月を基本として、「雅」(みやび)を重んじる。いわば、教養ある上流階級の文化である。庶民に文化が及ぶようになると、「何をお上品ぶっているの!」花鳥風月、雅なんて関係ない、面白ければいい、という潮流が発生したのだろう。面白ければよいのであって、狂歌のなかには、有名な和歌のパロディ(替歌)であったり、社会・政治風刺であったりする作品もある。とにかく、笑い、である。


 ここに問題が発生する。「狂歌の質」で、庶民に流行すればするほど、質は低下する、という一般法則を、どうするか、である。昨今のお笑い芸人は「質は関係なし」の様相だが、狂歌にも同様の現象が発生することになる。


 1771年(明和8年)、23歳の南畝は、富原氏の里与(りよ)17歳と結婚する。理与の実家も南畝と同じく貧乏御家人であった。貧乏御家人が貧乏御家人の娘を妻にしても、やはり貧乏なのである。せっせと洒落本などの原稿を書いても、薄謝をもらうだけで、貧乏御家人の内職仕事と変わりない。


 出版社は、茶屋・遊女屋で接待してくれる。さらに、狂歌会は必ず酒宴となる。要するに、酒の日が多くなった。


 狂歌は金にならない。狂歌会は仲間が狂歌を披露して、大いに笑って酒を飲むだけである。参加者は帰宅後、「昨日の狂歌会では○○が『・・・』という狂歌を発表して大笑いしたよ」と周囲に話すだけ。面白ければ、どんどん話が広まる。そして名前が高まる。しかし、金にはならない。


 狂歌会への参加者がどんどん増えていった。人脈も広がった。


 盲目の大学者・塙保己一(はなわほきいち、1746~1821)とも、狂歌を通して友人になった。塙保己一は膨大な史料を蒐集・編纂して『群書類従』『続群書類従』をつくった。ヘレン・ケラー(1880~1968)は母親から「塙保己一を手本にしろ」と教育された。


 狂歌で有名になっても、狂歌は金にならない。1775年(安永4年)9月、27歳、皮膚病の疥癬のため床に臥す。そのため、まったくの金欠状態に陥った。塙保己一が、検校(けんぎょう)の下の勾当(こうとう)に出世したお祝いに何も贈れず、文だけとなった。あまりの金欠を見かねて朱楽菅江ら仲間が「病気見舞い」と称して、お金を置いていったほどである。


 1776年(安永5年)、疥癬が治った直後、将軍の日光参拝の徒歩の役を無事勤める。病後なので、かなり辛かったようだ。洒落本などの原稿書きも再開した。


 狂歌はドンドン流行しつつあった。狂名「四方赤良」は、超有名になった。


 1777年(安永6年)29歳の時、俳人・大島蓼太(おおしまりょうた、1718~87)が、大田南畝(四方赤良)の人気を、こう詠んだ。


 高き名の ひびきは四方(よも)に わき出て 赤ら赤らと 小どもまで知る


 なお、大島蓼太は、与謝蕪村とともに俳諧中興のひとりである。3000人を超える門人がいた。代表作は「世の中は 三日見ぬ間に 桜かな」である。


 大田南畝は、洒落本、黄表紙などを続々と書いて、いわばベストセラー作家となった。狂歌会は盛んに開催されるようになった。大田南畝の四方連、朱楽菅江の朱楽連、蔦屋重三郎(出版人)の吉原連、市川団十郎(歌舞伎役者)の堺丁連など数多くの狂歌連が生まれていった。そのなかでも大田南畝は目立っていた。


 大田南畝は江戸ナンバーワンの文筆系文化人になった。でも、金欠である。


 やけくそで、1779年(安永8年)31歳、高田馬場で5夜連続観月会を狂歌仲間に呼びかけた。南畝自身は金欠だが、参加者が祝儀を持ってくるだろう。イベントをやるなら、ど派手にやって注目されよう。狂歌仲間の江戸の狂歌師の大半が集まった。要は、5日連続のやけくその乱痴気騒ぎである。


  わが禁酒 やぶれ衣と なりにけり ついでもらおう さしてもらおう


  世の中は 色と酒とが 敵(かたき)なり どふぞ敵に めぐりあひたい

  ※「色と酒」が「色と金」になっている本もある。


 大田南畝は5日目にぶっ倒れた。そりゃそうだろう。南畝は天才文人と信じていたが、ひょっとしたら大馬鹿なのかもな~。


 1781年4月、安永10年は天明に改元された。いよいよ「天明」となった。


 大田南畝は文芸評論家の役割も果たすようになった。1782年(天明2年)、南畝34歳、黄表紙の評判記『岡目八目』を書いた。そのなかで、山東京伝(1761~1816)の『御存商売物』(ごぞんじのしょうばいもの)を1等賞と評した。現代なら、直木賞受賞というわけで、若き山東京伝は一躍注目された。山東京伝に関しては、『昔人の物語・第47話』をご参照ください。


 同じ頃、土山宗次郎と懇意になる。彼は、勘定組頭で、やたら金回りがよい。土山は頻繁に南畝を芸者つき高級宴席に誘う。いわば、相撲取りとタニマチという関係になったのであろう。宴会が連日続く。酒を飲まない日がない。金は土山が出すから、心配ない。色と酒に、どっぷり浸かる日々となった。


 狂歌界に嵐が吹いた。狂歌は、狂歌会で詠んで、それっきりである。参加者の記憶に残るだけである。唐衣橘洲が、狂歌人の狂歌を集めた『狂歌若菜集』を刊行しようとした。それに対抗して、大田南畝も狂歌集『万載和歌集』を準備した。


 1783年(天明3年)、唐衣橘洲編の狂歌集『狂歌若菜集』が出版され、次いで大田南畝(四方赤良)編の狂歌集『万載和歌集』も出版された。勝負は決した。大田南畝の『万載和歌集』は、大ヒット・バカ売れした。「天明狂歌」が爆発した。大田南畝は、狂歌ナンバーワンの地位を確立した。蔦屋重三郎ら、出版人は、続々と狂歌本を出版した。


 1785年(天明5年)南畝37歳、狂歌集『徳和歌後万載集』を出版した。この狂歌集のため作品を募集したら、応募作品は車5台分、1000箱になるほど集まった。作品の質はともかくとして、狂歌の人気は爆発し続けた。


 余談かも知れないが、1782年(天明2年)~1788年(天明8年)は江戸時代最大の飢饉、天明の大飢饉が発生した。1783年(天明3年)は浅間山の大噴火があった。得体の知れない社会不安が江戸に蔓延し、そのことが「天明狂歌」大爆発と関係があるかも知れない。不安だから、とにかく大笑いしたい。人間の本能の業かも知れない。


 1786年(天明6年)、南畝は、吉原松葉屋の遊女・三穂崎を身請けし、妾として囲う。名を、お賤という。いかに人気絶頂といえ、南畝に遊女を身請けする金などない。また、永続的に囲う金などない。土山宗次郎が出したのか、出版商人が工面したのか……わからない。南畝と遊女・三穂崎(お賤)の恋愛物語を想像力たくましく推理しようと考えた。が、阿保らしいので止めました。大田南畝は、完全に惚れてしまったことは確かである。


 我が恋は 天水桶の水なれや 屋根より高き うき名にぞ立つ

 

(4)世間の達人「世間師」だった


 しかし、世の中、甘くない。1786年(天明6年)、南畝が遊女・三穂崎(お賤)とのラブロマンスにのめり込んでいる頃、田沼意次が失脚した。翌年の1787年(天明7年)6月に松平定信が老中主席となり、7月には文武奨励令を出した。寛政の改革が始まったのだ。


 南畝は徒歩の上役から、質問(事実上の取り調べ)を受けることになった。質問内容のひとつは、土山宗次郎との関係、南畝の遊興費(遊女の身請け金など)の出所であった。もうひとつは、文武奨励令を批判する狂歌のことである。


 世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜もねられず

 

 この狂歌の作者は、南畝じゃないか? と疑われたのである。上役の質問には切り抜けたが、「このままではヤバイ」と確信し、狂歌と絶縁する。権力から睨まれない内容の執筆は継続した。実際、寛政の改革による言論弾圧は、恋川春町、山東京伝、宿屋飯盛(やどやのめしもり)、蔦屋重三郎などを処罰した。土山宗次郎は汚職で死罪となった。


 1794年(寛政6年)46歳のとき、幕府の人材登用試験を受けて、御家人クラスではトップで合格した。旗本クラスでのトップ合格者は遠山金四郎景晋(かげみち、遠山の金さんの父)であった。そして、1796年(寛政8年)に、支配勘定に役につく。それまで、70俵5人扶持であったが、100俵5人扶持にベースアップした。南畝は役人としても相当優秀であって、重要職種への転勤、臨時ボーナス支給、ベースアップが続いた。


 大田南畝は変身した。昼は謹厳実直な幕府の役人、夜は遊興の達人であり一流文筆家であった。


 1801年(享和元年)、南畝53歳、大阪の銅座へ転勤となった。そして、号(ペンネーム)を「蜀山人」とした。中国では銅山を「蜀山」と言うので、いわば「銅座の人」というわけだ。私的な執筆活動をしていても、公務を忘れていませんよ、という意思表示なのだろう。この頃、狂歌も、静かに再開したようだ。爆発のような「天明狂歌」の時代から、10年以上経過していた。時代は、寛政の改革の時代(6年間)は終わり、大御所時代になっていた。


 有能役人の顔、遊興・文筆家の顔、2つの顔を上手に使い分けた。一流作家として、上田秋成(1734~1809)らの作家との交友は当然として、姫路侯ら大名からの招待もあった。


 大田南畝は、世間を上手に渡る達人、「世間師」である。私は、そう思う。


 1823年(文政6年)、75歳で没する。辞世の歌は次のものである。


 今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん


 追記として。


 大田南畝が亡くなって、約20年後の1843年、『蜀山先生 狂歌百人一首』が大阪の出版社から刊行された。蜀山人の作品は、数首に過ぎないと評論されていますが、「いかにも天明狂歌らしい」ということで、現代でも人気があります。そのなかの一首、喜撰法師のパロディ(替歌)は、蜀山人に間違いなし、ということで、掲載しておきます。


喜撰法師の元歌

 我が庵は 都のたつみ しかぞ住む よを宇治山と 人はいふなり


蜀山人の狂歌(替歌)

 我が庵は 都の辰巳 午ひつじ 申酉戌亥 子丑寅う治


 すごいですねー、十二支を全部詠んで、最後は「うぢ(宇治)」でしめる、すごいですねー。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。