●露わになった労働観、経済システムの破綻


 COVID-19に関する「文科系世界」の反応について、これまで、希望、畏怖に関して眺めてきた。COVID-19について活字世界を触ってみる試みは、この「活字世界を通じてみる近代から現代の医療」企画の最後のシリーズで再び取りあげる。後編は、変異型ウイルスの動向とその影響、そしてワクチン後の世界を展望できる状況となっていることを期待したいが、そこを見渡せる活字世界が広がっているかどうかは不透明である。


 しかし、とくにワクチンは、世界の姿形を元に戻しているかもしれない。しかし、ウイルスの恐怖は遠ざけられたとしても、人の心の安定感、平安が変質している可能性は高いと考える。実際、国際政治の世界では、米国、EUの西側と、中国、ロシアの覇権をめぐる対立は激しさを増してきた。国家間、地域間の不信の拡大は、すなわち人々の不信の増幅が拡張し、唸り声をあげてきた実証であり、それはさらに深みにはまっていくような印象にもつながっている。


 その意味では、これからみていく前編最後の文科系世界のCOVID-19論は、半年後以降の後編に続く物語の序章となるかもしれない。希望、畏怖の続きは「怒り」だ。


●COVID-19が視覚化したもの


 COVID-19がとくに文科系の活字世界で「怒り」を買ったのは、「差別」の露呈、表面化だ。その多くはCOVID-19のために起きたオリンピックをはじめとする行事の変更を端緒としたり、飲食店やその周辺の事業の破綻であったり、医療従事者をはじめとする職業の問題であったりした。また、緊急事態宣言の地域別実施、政策の階層化が、職業や地域差別に向かったり、人々の「怒り」そのものが、他者への監視意識と被差別感の拡大というわかりやすい世界を簡単に現出してしまうという、没理性の剥き出し感も散見させられるようになった。見ないようにしてきた、見えないようにしてきたものが、COVID-19によって、明瞭な明確な輪郭を伴って、見えてしまった。


 ルッキズム、ジェンダー差別はその典型とみえることもあるし、それらが露わになった途端にその差別を糾弾するテレビをはじめとするメディアが、それによって「報道」と、見世物の薄皮一枚の世界の矛盾に満ちた姿も正体を現しかけているように筆者には見える。


 例えば、地価下落のニュースが流れるとき、映像は人気が消えた銀座などの繁華街を映し出す。インバウンド需要に沸いた2018年頃の大阪・道頓堀の賑わいと、「閑散とした今」を交互に比べて、地価が下がった原因を視聴者に「わかりやすく」演出する。


 一方で、緊急事態宣言後のリバウンドを伝えたい報道は、道頓堀に集まる観光客をグリコの看板のポーズをとらせて「増えた人出」を演出する。東京・目黒川の桜並木は今や全国区だが、人出が多いのか少ないのか、報道する局によって「演出」が違うことまで、視聴者に見破られる事態になっている。根底には、これまでうまくフィルターにかけられていたテレビニュースを制作するほうの「見せる」側の優越感が、「見せられる」側の被差別感と磁石のN極とS極のように、反発的にマッチするようになってしまったのだ。


 英国王室の人種差別騒動を糾弾した後で、白人たちが登場するCMは何の疑いもなく流される。ルッキズムに嫌悪感を爆発させた後で、美容整形や瘦身モデルを使ったサプリのCMにも制作側に違和感はない。たぶん、視聴者はその違和に気付き始めているだろうに。


●人の役に立つ仕事の対価は低い


 差別への怒りは、むろんあらゆる場面でCOVID-19を媒介として表層化し、雪崩を起こしている。エッセンシャルワーカーという言葉と、その定義のありよう、そして人口に膾炙した状況は実に興味深く、労働格差と貧富の差を象徴的に明瞭に映し出した。


 このことは2013年にデヴッド・グレーバーが発信した小論『ブルシット・ジョブ』の再評価をもたらした。ブルシット・ジョブは「クソどうでもいい仕事」と訳されている。社会学者の大澤真幸は「一冊の本」2020年10月号で、この言葉の定義をわかりやすく解説している。


 それによると、ブルシット・ジョブには2つの定義がある。ひとつは、雇用されている本人が、「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償な雇用の形態である」こと。つまり第三者ではなく、本人が自らの仕事を世の中的には必要がないと断じていなければならない。そして第二に、本人はその仕事が有用で必要であると振る舞わなければならない。


 大澤は、この言葉が本人の「主観に依存している」ことに着目しなければならないことを何度も念押ししながら、例えばテレビドラマ「半沢直樹」を例に、主人公の半沢以外は典型的なブルシット・ジョブに加担する連中で、自分の利益しか考えない行動に終始しているとし、実は人の役に立たない自分だけの利益の追従者が高給取りであるという、ブルシット・ジョブの定規にはまり込んだ人々の描写であることを明らかにしている。


 大澤は、そのうえで、主人公の半沢直樹は有言実行で、「銀行は人の役に立たなければならない」と繰り返すことで、彼の仕事はブルシット・ジョブではないように見えるが、実はそもそもそれは当たり前のことであり、「なぜそんな自明なことが感動的な一言として言われなくてはならないのかというと、実際にはそうした仕事は稀だからである」と喝破している。つまり、ドラマ「半沢直樹」はきわめてリアリティのあるドラマなのだが、主人公だけがリアリティがないのだ。


●ホワイトカラーであることの拷問


 エッセンシャルワーカーという言葉が明確な定義で位置づけられ、その反語としてブルシット・ジョブが定義され、再評価されてきたのは、COVID-19下では必然であっただろう。そして同時にエッセンシャルワーカーが押し並べて低賃金であり、ブルシット・ジョブを自認している人々のほうが高賃金であるという現実も白日のもとになってきた。おとぎ話の主人公である半沢直樹以外のホワイトカラーは、実は自分たちがブルシット・ジョブの位置づけにあることに気が付かされ、自覚させられることになった。


 自分たちがいなくても、もしかしたら誰も困らないかもしれないと思わされること、COVID-19下で、余った賃金で飲食すればエッセンシャルワーカーにまたしわ寄せが行くという図式を自覚させられながら、「必要な労働者」として存在をアピールし続け、演じ続けなければならないのは、大澤はある種の「拷問」との認識も示している。


 哲学者の斎藤幸平は、池上彰との対談(文藝春秋4月号)で、ブルシット・ジョブを下敷きに、エリート層のほうが「労働の疎外」が深刻だとの池上の論を受けて、「今回のコロナ禍で明らかになったのも、実は私たちは洋服もそれほど必要とはしていないし、多くの仕事はテレワークで十分で満員電車に乗る必要もない、ということでした。医療や福祉や小売業界の店員、物流や交通機関、ライフラインに関わる従事者など、生活維持に欠かせないエッセンシャルワーカーの重要性が浮き彫りになる一方で、渋谷のスクランブル交差点の広告が止まっても誰も困りませんでした」と応じている。


 生活維持になくてはならない労働が目に見え、言葉(エッセンシャルワーカー)になる一方で、生活維持には困らない仕事(ブルシット・ジョブ)の自覚化と、それが不等感と混在するなかで、人々は差別、階層化の不透明さ、抵抗しなければならない実相の存在に気付き始めた。COVID-19を契機に。それは簡単にいえば「怒り」だ。そして、その怒りは徐々にマルクス主義の再評価というブームに結び始めている。前出の斎藤も、『人新世の「資本論」』をテーマにした本をベストセラーにした。


●新自由主義の崩壊を早めたCOVID-19


 筆者は、この国では「リベラル」という言葉が常に「左翼」という意味で置換されてきたことに、ずっと違和を感じていた。保守系の人、あるいは世間一般の常識に照らせば、リベラルは「普通に自由に考え、行動する人ではなく、左翼」なのである。


 筆者も若い時代には「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)のデモなどに何度か参加したが、そのときの体験を通じて言えば、筆者を含む参加者の大半は社会主義的思想に共鳴はせず、どの左翼セクトにも属さず、しかし米国のベトナム「侵略」には反対するという、自由な人々であった。それを筆者らはリベラル意識のように思っていた。


 むろん、ベ平連活動にセクトの強引な参加は見られたし干渉もあった。そしてそうしたオルグを拒否するたびに、彼らは筆者たちを「ノンポリ」と呼んで蔑んだ。そのうち、あっという間に「ノンポリ」は、「リベラル」と同様の意味合いになり、リベラル側にもそう呼ばれることに抵抗はなくなった。


 リベラルの範囲は広い。今の筆者の記憶は「ノンセクトラジカル」以外の、運動関心派は、すべて「リベラル」でもいいような気がする。ノンセクトラジカルは暴走族と薄皮一枚。


 COVID-19下で露わになってきたエッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブという労働観や、階層差別の新たな視点と同時に見え始めたのが、マルクス主義の再評価だが、筆者にはこの現象は、「リベラル」の復権のような印象がつきまとう。斎藤美奈子は、出版界のマルクス本ブームを総括して、「コロナ禍は現在の経済システムの脆弱さを暴き出した。資本主義の呪縛からいかに脱却するかが問われている」(ちくま3月号)と述べている。


 現在の経済システムの象徴は新自由主義であろう。実はこの新自由主義は、台頭してすぐに、多くの人はいずれこの経済主義は行き詰まる、終焉を迎えるだろうと予測していたと思う。日本も90年代初めにバブルが弾け世界経済も動きが鈍っていたときに、新自由主義がグローバルに視点を拡大させて、経済を再生させたかのようにみえたが、それはある種の刺激策、カンフル剤に過ぎないと考えていたはずだ。それが延々と長続きし、ブルシット・ジョブの振る舞いを見続けさせられることになったのは、なぜか。


 その答えを見つけようとしたグレーバーや、トマ・ピケティの2010年頃からの思潮が、COVID-19によって受粉し、新自由主義の批判につながっているのではないだろうか。SDGsという主張を得て、脱成長論という武器も研がれてきた。怒りは抵抗運動の発端である。


 COVID-19収束までにこうしたマルクス主義の再評価がどのようなうねりをみせているか、ほぼ半年後になるだろうが、この続きは新型コロナウイルス「後半」の章で触れることにしたい。(幸)