「選択制夫婦別姓」論議が大賑わいだ。新聞各紙の論調を見ると、進歩的な朝日新聞、毎日新聞が夫婦別姓を主張する論客や有識者の主張を載せ、暗に選択制夫婦別姓を支持し、保守的な産経新聞と読売新聞はできる限り話題にしない方法で、それとなく反対するような意思を示している。


 どちらもいつものやり方なのだが、新聞は夫婦別姓に賛成なのか、反対なのか、社としての考えを言わない。内心で賛成派は論客が夫婦別姓に賛成しているとか、有名人が賛成しているとか言って世論を誘導しているとしか見えないし、反対派は扱わないことで暗に反対風に見せ、政府がどうするのか見ている。いっそ、各社が態度をハッキリさせるべきではなかろうか。


 とかく、世論を誘導する傾向がある新聞論調に沿ってなのか、政治家も賛否に分かれ始めた。ついにというべきなのか、世論におもねたのか、自民党では浜田靖一元防衛省ら有志議員が「選択性夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」を発足させ、反対派、いや、慎重派も「婚姻前の通称使用の拡大を目指す議員連盟」をつくり時間伸ばしを図っている。


 だが、夫婦別姓が本当に日本にとって必要なのだろうか。


 昨今の夫婦別姓論はヨーロッパから来ているように思える。家父長社会を封建的とするのと同じように見えるし、日本の社会は遅れている、と映るようだ。もちろん、以前から日本でも夫婦同姓に批判的な人は多い。主に多いのが、結婚して夫の姓にしたら、住民票や戸籍謄本を取るときに不便だし、旧姓をそのまま使っている働く女性にとっては、正式な書類を出すとき、姓が違っていることに困惑感がある、という声だ。


 しかし、その程度のことで夫婦別姓が必要だという根拠になるのだろうか。夫婦別姓を主張する人には女性が多い。結婚を機に姓が変わったことで、結婚後も働く女性にとっては姓が変わるというのは抵抗感があるということなのだろう。人格が変わったような気にさせられる、ということもあるようだ。


 筆者が週刊誌記者時代、編集部に離婚後、復帰した女性がいた。映画に明るい優秀な女性で、年配者ほど彼女を尊敬していた。編集部内では彼女に声を掛けるとき、結婚後の姓を呼ぶ人が多かったが、離婚後に戻した旧姓で呼ぶ人もいた。だが、彼女はどちらで呼ばれようと、気にしていなかった。彼女にとっては新姓も旧姓も関係なかったようだ。


 一方、男性から夫婦別姓を主張する声はあまり聞かない。婿に行った人が少ないからかもしれない。義理の従兄弟が婿に入ったが、彼を呼ぶときはたいてい姓ではなく、名前を読んでいた。ファーストネームである。手紙を書くとき、家内に「彼の姓は何だっけ?」なんていう具合だった。実は、彼の実兄でさえ、「弟の姓は何になったんだっけ?」なんていう始末だった。


 日本では姓は家を表すもので、江戸時代は、侍はもちろん、商家でも婿養子が多かった。武士の家では長男は後継ぎ、次男はスペアである。長男が亡くなった場合に急遽、後継ぎにする備えである。長男が無事に成長し、結婚するようになると、もう大丈夫だろうと、スペアから解放される。一族が集まって次男の婿入り先を探すのだから気の毒である。


 その気の毒ないい例が江戸時代、寛政の改革を行った老中の松平定信だ。御三卿の筆頭である田安家の次男で、長男が病弱だったため、スペアとして部屋住みを続けた。が、長男が成人したことから、もう大丈夫だろうと、奥州白河藩松平家の養子になり、後に老中に出世する。


 ところが、田安家を継いだ病弱だった兄が死亡。養子に行った定信を戻すわけにいかないから、御三卿の一橋家の二男が養子に入って田安家を継ぐことになり、田安家は一橋家の下になってしまう。さらに9代将軍が亡くなり、10代将軍には一橋家の長男が継ぐことになる。妻妾22人を擁し、55人の子女を産ませた将軍家斉である。定信は田安家を継げなかっただけでなく、将軍になり損ねたという運命を辿っている。


 武家の三男以下は家を継げないし、兄嫁からお小遣いを貰う部屋住みの身分である。むろん、無職だから結婚などできない。小さいころから剣道や学問に励み、その才能を見出されて幕府や大名から新規召し抱えされる幸運を待つしかない。しかし、それは稀なことだから多くの次三男は婿養子先を探すしかない。町道場に通う次三男の間ではどこそこの家には女性しかいない、とか言っては婿入り先の可能性のある家の噂をしていた、などという記述が多いほどだ。だから婿養子は多く、当たり前のことだった。いや、幸運に恵まれた人だ。近松の浄瑠璃にも商家の養子になった元武士の話が出てくるほどだ。


 それが変わったのは明治になってからである。武士は家に対する録が廃止され、個人に対する給与に代わったことで、婿入りが数少なくなったことが原因だ。「糠3升あれば、婿に行くな」などというのは明治以降にできた話に過ぎない。それでも婿養子に行った男性から「姓が変わって不便だ」などと夫婦別姓を主張する話を聞くことがあまりないのはどうしたことか。


 そもそも夫婦別姓の主張は、欧米の人権意識から来ているような気がする。ヨーロッパのことはあまり知らないが、世界で、いや東アジアで夫婦別姓なのは中国、韓国、北朝鮮である。日本だけが夫婦同姓なのである。不確かだが日本でも平安時代初期ごろまでは公家の間では夫婦別姓だったようだ。いやいや、公家の間では娘に名前すらなかったなんていう話もある。和歌にも藤原のなにがしの娘、といった記述が多いのだ。紫式部など官名で呼ばれている。


 ではなぜ、中国や韓国では夫婦別姓で、日本だけが夫婦同姓なのか。それには儒教の影響が大きい。儒教では「同じ血が流れていないものは同じ姓を名乗ってはいけない」という思想がある。夫婦はそれぞれ違う血が流れているから別姓でなければならないのだ。中国はもちろん、朝鮮半島では儒教が生活にしみ込んでいるから、金さんと文さんが結婚しても亭主は金さんで、お嫁さんは金姓を名乗らず、あくまで文さんでなければならない。


 日本も古代は同じだったようだが、平安時代中期に武士が勃興したとき、武士は地名や、ゆかりの名称を名乗ったというか、周囲から呼ばれている。平将門は地名から「岩井の小次郎平将門」だったし、坂東(関東)八平氏の祖になったのは将門の叔父、「村山の五郎平良文」だ。源氏では後三年の役で知られる源義家は元服した神社の名を取って「八幡(石清水八幡宮)太郎源義家」、その弟で武田信玄の祖に当たるのは「新羅(三井寺内の新羅神社)三郎源義光」と呼ばれている。


 平安時代末期には源氏や平氏という姓を呼ばなくなっている。源頼朝が挙兵したとき、駆け付けた関東有数の豪族である千葉氏や葛西氏は坂東八平氏の秩父氏で出は平氏だし、足利氏や新田氏は八幡太郎義家の次男の義国の家系だから源氏だ。公家でも藤原氏と余りいわず、三条家、九条家、近衛家などと呼ぶようになっている。要は、姓に対しては儒教から脱却して一家を識別する名前になっているのだ。


 ところで、武士や公家以外の庶民はどうなっていたかというと、姓がない。江戸時代でも「江戸近郊、渋谷村百姓、田吾作」とか、「宇都宮の大工、次郎衛門」、商人なら「越後屋太郎衛門」などと呼ばれている。幕府に玉川上水の開削を進言した庄衛門兄弟が将軍から玉川の姓を貰っているように、将軍や大名から苗字を許された者だけが姓を名乗っている。苗字がないからといって卑下する必要はない。天皇も苗字がないのだ。終戦時の占領軍の英文でも「ジャパニーズ・エンペラー・ヒロヒト」と書いている。天皇陛下と同じだと自慢すればいいのだ。


 つまり、日本人の姓は血の流れを表す儒教から脱却したものであり、一家を表すものである。日本の文化そのものである。欧米人の主張だけで判断してはいけない。東アジアでは夫婦別姓は儒教の教えであり、日本の夫婦同姓は儒教の縛りから脱却した「革新的」なものなのだ。


 かつてアメリカから欧米流の要求をされたとき、政界一の英語使いといわれた宮沢喜一首相は「善意の押し売り」と評したことがある。ときとして欧米人は、欧米流の考えこそ民主的と勘違いすることがある。「夫婦別姓のススメ」も善意の押し売りに似ている。


 憲法では結婚は両性の合意によるとしている。どちらの姓を名乗るかは両性が話し合えばいいはずだ。男性側の姓でなければ嫌だ、女性側の姓を名乗りたい、というのであれば、両性の合意ではないのだし、結婚後、喧嘩になるかもしれない。


 だいいち、子供の姓はどうするのか。長男は父親の姓で、次男は母親の姓というわけにもいかないだろう。父親の姓にしたら、家父長制の儒教の教えと同じになってしまう。加えて、河野太郎行革担当相は「ハンコはいらない」といい、住民票などはマイナンバーカードで取得できるという時代だ。東アジアで夫婦別姓にすべきだという主張は、儒教の教えに従え、古代に戻れ、と言っているように感じる。(幸)