●自由に畳の上で死ぬ、ということ


 意味が変わってきた言葉はいくらでもある。言葉は時代とともに変化するものだというのが、最近の一般的な賢い理解のようだが、筆者みたいな高齢者グループには納得しがたい側面もある。「全然」は筆者らの世代では、否定の述語が続くときに使う言葉だったが、現在では肯定表現で使っても「全然OK」。しかし、慣用句や諺になると、あまり変化は認められていないようにも思える。「情けは人のためならず」を、「いけないことをした人を許してはその人のためにはならない」はやはりバツであり、「気の置けない人」は用心しなければならない人、と解してもやはりバツ。


「畳の上で死ぬ」はどうだろうか。要するに安らかに往生を遂げるという意味だろうけど、最近、「在宅死」を意味するのだと、狭い解釈をしている人と話したことがある。確かに病院で死ねばベッドの上なので畳ではないけれど、「昭和30年代頃までは、地方では入院先は畳のことも多かったですよ」と、年下の友人に告げるとかなり驚いた。「畳の上」はイコール「在宅」ではないと、ようやく理解を得たのだが、説明を尽くすために筆者が10歳の頃に、入院した母親のためにリヤカーに布団を積んで病院を往復した経験を話さなくてはならなかった。


 しかし、「畳の上で死ぬ」の狭小な解釈が、これから大手を振るのではないかとの予感がしないでもないのだ。今や、「延命措置はご免被る」との認識は「国民的合意」になりつつある。死ぬにあたって、家族の迷惑にはならない、国家の医療費を無駄遣いしてはならないのが「常識」であり、「普通」になった。お金のかかる病院医療で死んでは国民の義務が果たせない。


 在宅療養中の患者の急変に慌てて救急車を呼ぶと、ちょっと前は病院に搬送された挙句、警察を呼ばれたりしたので、平穏死や尊厳死を主張する人たちは、家族に向かって「落ち着け、まずかかりつけ医に連絡を」とアドバイスしていたが、最近では救急隊も杓子定規なことは言わないケースが増えてきたという。「この人、畳の上で死にたかったんです」と家族が説明すれば、納得するのだそうだが、やはり言葉としては違う気がする。


 こうした「畳の上」の意味が微妙に変わるなかで、人々の心に死を安易に考え始める風潮が現れないのかという危惧は持っておいたほうがいいと、筆者は思う。寿命は全うするものであり、生きながらえるという価値観が希薄になることが、意味を狭くした「畳の上」の促しと歩調を合わせ始めているような気がするのだ。「畳の上」で死ぬことを選んでも、安楽に自分で死を決めることは選んではならない。


 まして、それに手を貸してはならないと筆者は考えるのだが、日増しに安楽死へのハードルは低くなっていると実感する。延命医療の否定が、どうして安楽死の肯定へ飛躍していくのだろうか。延命医療の否定は自らの命をコントロールすることだという勘違いが始まっている。


●生と死のプロセスを管理してはならない


 安楽死のテーマを最初に扱ったのは森鴎外の「高瀬舟」だとされている。鴎外の孫で、現在は在宅看取り医として高名な小堀鷗一郎は、鴎外が単純に安楽死を触ったのではなく、「高瀬舟」の18年前に訳出したマルチン・メンデルゾーン医師の「安楽死について」の論文で、「死に対する意識的な準備」あるいは、「生きる喜び」という考え方の構築が行われたのではないかと示唆している(一冊の本4月号)。


 そのうえで小堀は、死に際して、人個々の「生活の望」を実現する「カルミネーション」という言葉を提唱する。カルミネーションは最高点とか頂点などといった意味があるが、生活の頂点を淡々と生きる、あるいは淡々と自分らしく生きたままを最高点とするといった、それぞれの多様な死のあり方と理解していいように思える。


 このような「最高点」「頂点」のなかで迎える死をひとつの理想として、それはどのようにあるべきかの議論が深められることなく、一気に安楽死を具体化していきたいという主張には、やはり一時停止を求めなければならないだろう。スイスではすでに認められている、オランダでも、といった流れのなかでの主張に耳を貸す必要はまったくない。


 小堀が語るカルミネーション的な死の選び取りは、安楽死の対極をなすべきものであるとの前提に立って、いくつかの活字を拾い上げると、そこここに重要な示唆が行われていることに気付く。


 米国な著名な外科医、作家のアトゥール・ガワンデは、著書『死すべき定め』で、人が尊厳を持って最期を迎えることは何かを問いかけている。ガワンデは「現代の科学技術の能力は人の一生を根本的に変えてしまった。人類史上、人はもっとも長く、よく生きるようになっている。しかし、科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」と、医学関係者の生と死のプロセスに対するいい加減さを厳しく批判している。小堀が、カルミネーションに気付いたように。


 ガワンデは、そうした医科学の進歩のなかで、人が急激に階段を落ちるように死に至っていた時代には存在した、人生や生の最高の瞬間で生きて、そして死ぬことを理想とする。「引退」して、少しずつゆっくりと生の坂を下っていくことが、本来の姿なのかと問うのだ。このガワンデの「引退」の概念の引き出しが、小堀のカルミネーションという理想から外れていく具体的なイメージを筆者には形作ることができる。


 例えば97歳の女性がフルマラソンを走ったことを聞くと、自分もそうでありたいというファンタジーが現実化しないことに、(現代医科学は)「恥ずべきこと」「申し訳ない」と思わせるようになったとガワンデは言い、小堀は胃がん末期の男性の、死ぬまで飲み続けたいという「小さな望み」を聞き入れ、最期は高級ウイスキーでその患者と乾杯したエピソードを語りつつ、「当人には生死を懸けた生活の質の実現」を尊ぶのだ。


 ガワンデは「実は米国の医師は老年医科学に無関心で、それは自らの所得に関係している」とまで語っている。その視点で探れば、高齢者施設の増え方、その施設のなかで行われている数々の規律、管理的ケアとそれによって作り出されている「不自由さ」は、まさにカルミネーションの不在を象徴するものだ。


●自由を得るための在宅医療、介護


 そうして考えていくと、「在宅死」というのは、ひとつの重要なカテゴリーであることに気付く。実は人々の人生とその終末の質を豊かにするのではないか。施設で行われる床ずれを防いだり、体重管理することは、医学的目標としては重要だが、「しかし、これは手段であって目標ではない」とガワンデは切り捨てる。そのうえで、自宅に帰りたいという入所者の希望は、自宅では「自由」が存在するからである。


 自由に振る舞うことは人生の幕引きの前で、非常に大きな意味を持つのだ。ガワンデは、実はそのほうが延命効果は高いことまで言及しているが、ここではそこを端折る。しかし、小堀が示したエピソードは、ガワンデの主張の体現であることは火を見るより明らかだろう。ただ在宅では、家族の存在が阻害要因になることもガワンデは指摘している。「人は自分には自律を求めるのに、大切な人には安全を求める」は、最期が近づいた人の家族が持つ混沌とした感情を示している。そこに小堀のようなカルミネーションに気付いた医師が傍らにいることが重要になる。


「人は自分には自律を求めるのに、大切な人には安全を求める」というガワンデの視点は重要な意味を持っていると思う。現在の日本でも、施設の高齢者は一見、丁寧に扱われているようにみえるが、それは彼らにとって「幸福」で「生活の望み」なのだろうか。高齢者をマニュアルで縛り、自由を奪うことに何も後ろめたさがないのは、この社会の特質で、そして延命医療の否定の常識化とセットになったとき、たぶん安楽死を促す「世間」に一気に変質するだろう。世間とは「同調圧力」である。(敬称略)