(1)山本周五郎の『赤ひげ診療譚』


『赤ひげ診療譚』は、山本周五郎(1903~1967)の小説である。ストーリーは、長崎でオランダ医学を学んだ青年医師・保本登(やすもとのぼる)の人格成長物語である。オランダ医学を学んだから、エリートコース間違いなしと思っていたら、なぜが、貧民相手の小石川養生所へ送りこまれてしまう。「いやだ、いやだ、こんな所はいやだ」と抵抗するが、次第に、「赤ひげ先生」こと新出去定(にいできょじょう)の行動・人格に感動し、ついには、小石川養生所の貧乏医師になることを決意する。


 映画『赤ひげ』は、黒澤明が監督、三船敏郎が「赤ひげ」、加山雄三が「青年医師」で、大ヒットした。テレビドラマは、度々制作された。


 いろいろな解説を読むと、「赤ひげのモデルは、小川笙船である」とするものが多い。しかし、これは間違いで、「小石川養生所は小川笙船の発案で設立された。その小石川養生所を舞台として活躍したのが、架空の人物赤ひげである」が正しい。


 新潮文庫版『赤ひげ診療譚』の33ページには次のようにある。


 この養生所の支配は「肝煎(きもいり)」といい、小川氏の世襲であって、幕府から与力が付けられていた。小川氏はべつに屋敷があるが、表の建物にその詰所(つめしょ)があり、そこで与力と共に会計その他の事務をとっていた。そのころ、番医の定員は五人でこれらの詰所は病棟のほうに属し、表の建物とは渡り廊下でつながっていた。


 つまり、小説『赤ひげ診療譚』の「赤ひげ」が活躍した頃の小川氏は、小川笙船の子か孫かひ孫である。繰り返すが、「赤ひげ」のモデルは、小川笙船ではない。


(2)目安箱に投書


 とりあえず、第8代将軍徳川吉宗(在職1716~1745、生没1684~1751)について。かつて、テレビの時代劇は、大川橋蔵の『銭形平次』、松平健の『暴れん坊将軍』、主役交代があった『水戸黄門』が大ヒット三羽烏であった。『暴れん坊将軍』によって、吉宗は、抜群の人気将軍となった。


 実際、吉宗は歴史に残る善政も数多く行った。「享保の改革」と称される。増税、質素倹約、大奥改革(4000人を1300人に削減)、新田開発、公事方御定書の制定(司法制度迅速化)、大岡忠相(ただすけ、1677~1752)など人材登用、江戸町火消設置、洋書解禁などで、そのひとつが目安箱の設置であった。享保の改革は、総じて言えば、幕府財政は持ち直したが、増税政策により農民窮乏化・百姓一揆の頻発、また、庶民にまで質素倹約を押し付けたため不況慢性化、文化停滞となった。


 ただし、吉宗は、病気から庶民の命を救うことが「仁政」という考えを深く認識していたようだ。そして、本人の趣味・関心は、和歌・儒学ではなく、理系の実学に大変な関心を持っていた。農学、天文学、気象学、医学、薬学、蘭学などである。それらの知識は、一流の水準にあったようだ。とりわけ薬草に関しては、熱心に自ら勉強もしたし、その全国的な調査・採集・普及に力を注いだ。


 朝鮮人参の国産化では、対馬藩に朝鮮に自生する人参を密輸入させ、日光で栽培させた。これに成功するや、「御種人参」(おたねにんじん)として、各地・各藩に与えられた。時を経て、会津藩では、特産物になったほどである。武士・藩だけでなく、町人・医師にも与えられて栽培を奨励した。


 将軍家の薬草園は、吉宗が将軍になった頃(1716年)は、小石川(現在の文京区小石川)に約3000坪あったが、吉宗は大幅拡張に乗り出した。1721年(享保6年)には、4万5000坪になっている。さらに、1722年(享保7年)には、下総国に滝台野薬園15万坪をつくった。現在は千葉県船橋市薬円台という地名になっており、かすかに記憶されている。


 さらには、幕府直轄地の京都、久能山など多くの地にも薬草園が開設された。そこで栽培された薬草を一般に普及させた。その際、薬草の検査・基準・価格などを指導した。当時は、偽薬草も多く出回っていたため、強力に統制・管理したようで、薬問屋の抵抗もあった。しかし、幕府の統制・管理によって問屋側の薬知識向上によって、偽薬・薬乱用の弊害も減少していった。


 さて、吉宗が将軍に就任した1716年(享保元年)とは、疫病が大流行していた。その前後20年間は、疱瘡、麻疹が流行しているから、ダブル流行かも知れない。江戸の人口は約50万人、その年の流行ピーク時は、1ヵ月で8万人が死亡し、棺桶は足りない、墓地も足りない、火葬場も順番待ちで遺体であふれている。貧民は遺体を菰(こも)に包んで品川沖に流した。吉宗は江戸の惨状を目の当たりにして、さらには、西国を中心に享保の大飢饉も発生し始めた。


 江戸3大飢饉とは、享保、天明、天保をいうから、享保の大飢饉は、すさまじい大飢饉で、「栄養失調+疫病」のため、九州の小倉藩や佐賀藩では、人口の3分の1が死亡した。吉宗は、「なんとかしなければ……」と思って、医薬対策に乗り出した。


 前述した、薬草の栽培・普及だけでなく、平易な医療書『普救類方』(ふきゅうるいほう)の編纂を命じたり、疫病対処法『救民薬方』をまとめ、全国へ配布した。


 さらには、麻疹の治療薬「白牛洞』(はくぎゅうとう)を無料配布した。1733年(享保18年)、町奉行所は江戸の実態調査を行った。町人人口が53万人で、そのうち30万余人は薬を買う金を持っているが、10万余人は薬を買えない極貧者であった。時代劇ではわからないが、江戸は膨大な極貧者がいたのである。「宵越しの銭は持たない」とは、江戸っ子のきっぷのよさを語る言葉だが、そもそも銭を貯めることができない極貧者が多かった。


 ようやく目安箱の話となります。いくつかの藩でも設置されたりしましたが、通常、吉宗が1721年(享保6年)に設置したもの。正式には、単に「箱」という。目安箱への投書は氏名・住所の記入が必須で、将軍が自ら鍵で開けて読むという手順であった。


 1721年12月、麹町で長屋住まいの町医者(漢方医)である小川笙船(しょうせん、1672~1760)は19箇条からなる意見書を投書した。小川氏の出自は、正確には判明しませんが、戦国時代では近江国の城持ち武将らしいが、関ヶ原の合戦後、改易された。一旦は再興したようだが、結局は改易となっている。だから、小川笙船の頃は100年前は武士だったが、今は町医者という身分であった。


(3)わずか1年間で小石川養生所はできた


 何と言っても、「すごい!」のは、目安箱への投書から、たったの1年間で、日本初の病院が完成したことだ。この頃の日本政治では、「スピード感を持って」というフレーズが多いが、なんか嫌なフレーズだ。「遅くてもいい。感じだけはスピードがあるように」と聞こえて仕方がない。ボヤキは止めて、なぜ、小石川養生所はたったの1年で完成したのか?


 1722年(享保7年)1月、吉宗は小川笙船の意見書を読み、19箇条の中の施薬院の設置を求めた条項に関心を持った。


 施薬院(やくいん/せやくいん)とは、


①聖徳太子が、病気や怪我で苦しむ人々を救済するため四天王寺内に作ったと伝承される施設。現在、大阪市天王寺区の跡地とされる所は、社会福祉法人の四天王寺病院となっている。


②奈良時代、光明皇后の発願により創設された。貧民・孤児の保護施設が悲田院、病人の治療施設が施薬院。しかし、平安時代になると形骸化した。

施薬院は光明皇后の施浴伝説で有名になった。施薬院に浴室を建て、1000人の乞食・病人の垢をこすりとることを請願し実行した。1000人目は酷い患者が来た。皇后は意を決っして背中の垢をこすった。こすり終えると、その患者は阿閦仏(あしゅくぶつ)に変身した。

阿閦仏は大日如来のもとで修行して仏になった。西方の阿弥陀仏、東方の阿閦仏と対比されるが、いつの頃からか、阿弥陀仏が圧倒的に信仰され、阿閦仏は誰も知らない。

光明皇后の施浴伝説は、平安時代末期の文書にあり、その頃、創作された。鎌倉時代に入ると、1000人目の患者はハンセン病患者で、皇后は膿を口で吸い取ったと進化して、あまりに衝撃的なお話のため施浴伝説は大流行した。


 1722年1月、吉宗は、小川笙船の施薬院設立の目論見を取り上げ、側近の有馬氏倫(ありまうじのり、1668~1736)に施薬院設立を命じた。有馬氏倫は、紀州藩時代から吉宗の側近として活躍していた。現代でいえば、筆頭秘書官という感じかな。


 有馬氏倫は、北町奉行の中山時春(奉行在職1714~1723)、南町奉行の大岡忠相の2名に、小川笙船の施薬院設立の目論見を確認するように命じた。2名の奉行は大岡忠相の屋敷に、小川笙船を呼び出し、本人から直接意見を聞いた。


 2月、有馬氏倫は、㋑小川笙船の目論見は難しい点もあるが小川笙船と検討すること、㋺与力に事務方を担当させること、を命じた。その翌日には、北町奉行(中山時春)から与力満田作左衛門、南町奉行(大岡忠相)から与力吉田十郎兵衛、この2人に事務方が任された。


 若干の用語解説を。与力とは、奉行を補佐役で南北各奉行所には各25人の与力がいた。与力の下に同心がいて、1人の与力の下に5~6人の同心がいた。南北各奉行所の同心の定員は各100人(後に140人)であった。


 与力でも同心でも、いろいろな職務に分かれている。悪人を捕まえる役目の同心は、「町回り同心」という。南北各6人しかいないが、臨時廻り同心が各6人いた。とにかく、刑事みたいな現場担当同心は、24人しかいない。もっとも、同心の下には「岡っ引き」がいた。さらに下には、「下っ引き」という末端がいた。テレビの「町回り同心」は侍姿であるが、本当は同心という身分を隠すため町人ファッションであった。現代であれば私服警官である。


 なお、江戸時代のモテ男とは、力士・火消し・与力で「江戸三男」と言われた。与力がなぜ選ばれているのか。与力は朝、女風呂へ入る特権があった。それって何? 関心のある方はお調べください、でオシマイにしようと思いましたが、簡単に説明します。「♬小原庄助さん、なんで身上つぶした、朝寝・朝酒・朝湯が大好きで~♬」の歌にもあるように、ぐーたら人間は暇なので朝湯が大好き。ぐーたら人間→暇人→悪事たくらむ、ということで、悪人たちは銭湯の朝湯で悪事をたくらんだ。与力は、それを女湯から盗聴する。もちろん、朝の女湯には女客はいない。たまには、いるかも……。


 本題に戻して。ここからの部分は、『小石川養生所初期の医療活動について』(山口静子)を参考にしました。


 1722年6月、満田と吉田の2人は、施薬院の管理体制として、与力2人同心10人いれば可能と報告した。


 次いで、7月、施薬院体制の骨格を以下のように報告した。


①施薬院の医師達は小普請医(こぶしんい、公職に就いていない医師)1~2人に毎日見回りを命じる。

夜中急病人のために近所の町医者、扶持人(ふちにん)医者のうち1~2人に、役人から連絡があり次第施薬院に来ることを命じる。※大名の病気を治したりすると、大名から治療代以外に3~5人扶持を生涯支給されることがある。

小川笙船には、昼間の見回り、病人介抱、薬の吟味などを依頼する。

②町奉行与力2人には隔番で1人詰めさせ、施薬院の一式の指図、病人の出入り改め、惣(=総)賄い入用品や薬用人参の吟味をする。

③町奉行同心10人のうち2人には、年寄り同心として賄い惣元締めや必要物品購入時の吟味役とする。他8人には、平同心として薬煎や病人の見回り役を昼夜隔番の勤めをする。

④下男8人には、賄い所や門番として働く者、その他は病人の看病人にあてる。

⑤女2人には、女病人の看病や洗濯物等の世話をする。

⑥施薬院の病人は町々にいる極貧で薬も買えず、独身で看病人もいない者とする。

⑦病人には、夏は単衣の着物、冬は綿入れ1つ、鼻紙貸夜具布団等も渡す。

⑧病人を施薬院に送るには、寺社町方近在の筋々へ申し出て吟味のうえ、施薬院に入れる。

⑨病人が回復し退院時には、医者衆、与力、小川笙船が立ち合い、与力より派遣先へ届けさせる。

⑩病人が回復し、歩行が可能となり外出し帰らなくても、与力は事情を病人の派遣先へ届出る。

⑪通院治療を希望する者も差別せず、与力・小川笙船が立ち合い吟味の上治療する。

⑫病死した無縁の者は回向院下屋敷へ連れて行くこと。この病死者1人につき費用は400文とする。※葬式代もお上が出しますよ。※回向院は無縁仏を埋葬することで名高い。墨田区両国にある。

⑬施薬院は小石川薬園内に普請する。初めは病人40人用として長屋立てとする。その後段々増築する。

⑭施薬院の総費用の見積もりは、建築費は金2100両、物資購入や人件費など経常費は約金289両。


 以上のような7月案は11月に若干改正された。とにかく、貧しい人への手取り足取りの治療・救済である。


 この頃、「施薬院」なる言葉が「養生所」へ変更になった。たぶん、「施薬院」では古代史に詳しいインテリしかわからず、貧困・無知な者には「それな~に?」ということでわからない。そこで、当時、ロングセラーになっていた貝原益軒(1630~1714)の『養生訓』から拝借して「養生所」とした。これなら、貧困・無知な者でも施設のイメージがつかめる。とにかく病院がない時代である。そうしたささやかな気配りにも感心します。


 12月には、医者が決まった。養生所の常駐医師は、2人の幕医、岡丈庵、林良適が任命された。2人とも、本道(漢方で内科をいう)であった。夜中急病人のための医師として、木下同圓、八尾伴庵、堀長慶の3人が任命された。


 林良適(1695~1731)は、前述した医療書『普救類方』を丹羽正伯と2人で刊行した人物で、後に御番医師となった。御番医師とは、江戸城殿中表方の医師である。大奥の医師は別にいて奥医師という。江戸城でも大名屋敷でも、仕事をする「表」と、私生活の「奥」とは厳然と区別されていた。奥医師はほぼ世襲制であったが、御番医師は実力が重んじられていた。


『赤ひげ診療譚』では、小石川養生所の医師は、エリートコースを外れた貧乏医師として描かれているが、小石川養生所の初期は、完全なエリートコースであった。後期になっても、小石川養生所の勤務年数によって幕医に出世した者もいた。


 昼の常勤医2人、夜中の緊急医3人が任命された。小川笙船は、肝煎となった。いわば、医師達の上に立つ医療総監督である。小川笙船は麹町に住んでいたが、小石川養生所から遠いので、小石川の伝通院(文京区小石川3丁目)の門前町に転居した。


 伝通院は徳川家の増上寺に次ぐ菩提寺で、江戸時代では、増上寺、伝通院、上野寛永寺は江戸三霊山として威容を誇った。壮大な伽藍だけでなく、1000人もの学僧が修行していた。明治になって徳川家の庇護がなくなり、廃仏毀釈で縮小化され、大火もあって衰退した。敷地の一部は淑徳女学校(現在の淑徳SC中・高等部)になった。1945年5月25日の空襲で全焼した。戦後、再建されたが、江戸時代の繁栄した面影はない。


 なお、小石川養生所は、吉宗が大拡張した小石川薬園の中に建築された。小石川薬園では丹羽正伯(1691~1756)が薬草の栽培研究をしていた。吉宗は、小石川養生所建設と同時に、下総国に滝台野薬園を開設し、その運営管理者に丹羽正伯を任命した。吉宗は疫病克服のため、「疫病退散」の加持祈祷ではなく、病院建設・薬草栽培普及の策をとったのである。丹羽正伯は前述したように、林良適と医療書『普救類方』を刊行した人物である。


 丹羽正伯は当時のトップ本草学者で、吉宗の命を受けて、全国の薬草を採集研究し、『普救類方』だけでなく、本草学書『庶物類纂』、動植物図鑑『諸国産物帳』も編纂した。あれやこれやで、丹羽正伯は小石川養生所と深い関わりがあったから、養生所建設に積極的を支援した。その結果、丹羽正伯は小川笙船と同じく養生所の肝煎となった。

 

 小石川養生所は町奉行所の支配下に置かれ、与力の満田と吉田は、引き続き、養生所の与力となった。


 そして、1722年(享保7年)12月7日、養生所開設の江戸町触が出された。12月13日より、養生所はオープンした。小川笙船が目安箱に投書してから、1年後であった。これぞ、スピード、すごいね!


(4)患者が来ない!


 入所定員40人、外来もOKである。対象者は、極貧の病人、独り身で看病人がいない病人、家族全員が病気で養生できない病人である。入所治療中は、食事・着衣・寝巻なども支給するので、完全無料である。養生所関係者は、入所者殺到と見込んでいたが、予想に反して、患者が来ない。原因は、すぐ判明した。


 小石川養生所は、小石川薬園の薬草の効果を試す人体実験の施設である。養生所で使用する人参は、「朝鮮人参」ではなく、「和人参」である。「和人参」は効能が薄い。吉宗は「朝鮮人参」の国産化に熱心であったから、あながち虚偽ではないが、和人参は効能が薄いは誤りである。あるいは、やたら、訳のわからない薬を大量に飲ませというものもあった。無料だというが、退所時・退所後に高額な金銭を請求される。世の中、そんなにおいしい話があるわけない、裏がある。……そんな悪評判が江戸市中に蔓延したのである。


 町奉行から養生所に派遣されている2人の与力は真っ青である。なにしろ、将軍からの事実上ご命令の事業である。失敗は許されない。


 町奉行所は、悪風評を払拭するため、名主らの現地見学会を開催して、懸命にPRした。江戸の名主とは、奉行所の事実上の下部行政機関である。奉行所は与力・同心が約250人、江戸の人口は約50万人で、その間を取り持つのが名主で、約250人である。名主1人で約2000人を管轄する。江戸の町数は約1600町だから、名主1人で6~7町を担当する。まずは名主へのPRというわけだ。


 どんな事業でも、実際に始めると、あちこちに不都合を見出すものだ。根拠なき悪風評だけでなく、名主との対話で、実際問題、入所手続きにおいて、名主の事務量増大で、大変ということがわかり、すぐさま簡素化した。


 さらに、常勤は内科2人だけだったが、外科医2人、眼科1人を追加した。困窮者は内科の病人と同じくらい怪我人が多いとわかったのだ。


 かくして、オープン時は閑古鳥が鳴く有様だったが、改革の結果、半年後は入所者激増となった。患者が溢れる状態が続いたので、入所定員を100人以上に増強した。また、多くの病人を入所させるため、入所期間の短縮化も実行した。


 1726年(享保11年)のデータでは、全快134人、難治82人、病死12人、願下(自主退所)22人の合計250人となっている。


 同年、小川笙船は息子に養生所肝煎を譲って隠居した。養生所肝煎は小川笙船の子孫が世襲した。34年間の隠居時代、何をしていたかわからないが、横浜の金沢にいたようだ。病気になり江戸へ戻り、1760年(宝暦10年)に病死した(89歳)。


 小石川養生所は明治政府の漢方医廃止によってなくなった。小石川薬園および養生所は東京帝国大学に払い下げられ、現在は、「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」(通称:小石川植物園)となっていて、養生所の名残は井戸だけである。


 東京に住んでいても小石川植物に行ったことがない人が多いらしい。一般開放しているので、一度、見物してみては、いかがでしょうか。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。