新型コロナウイルス感染症が広がって1年が過ぎた。この間、感染の検査体制の不備、病床不足、東京女子医大病院における看護師の一斉退職の危機……とさまざまな問題が起こった。受診・検査の抑制や手術の延期などで病院経営は軒並み悪化した。


 いつでも安価に医療を受けられる日本の医療制度だが、危ういバランスの上に成り立っていることが露呈したのである。2024年度には「医師の働き方改革」で、時間外労働の規制が医師にも適用される。


 今後の日本の医療システムをどう変えていくべきなのか?


『医療と介護 3つのベクトル』は、医師が専門分野に特化する〈専門分化〉、医療機関を経営の観点でとらえた〈事業化〉、患者の所得階層や年齢によるアクセス制限がない〈公平化〉の3つのベクトルで、欧米と比較・分析。高齢化が進む日本の医療・介護の今後のあるべき姿を探る一冊である。歴史的な経緯も解説されているため、共通点や違いが生まれた背景を知ることもできる。


 英国で専門医の資格制度できたのは1917年と100年以上前。眼科医会が作った資格制度が起源だ。以後、他の診療科にも設けられるようになった。当時、有名病院で診療するのは医師の間でステータスだったが、有名病院で診療するには専門医の資格が必須になったという。


 今後さらに医療の専門分化が進むのは明らかである。遅まきながら日本でも近年、法的に専門医制度が整備されたが、懸念もあるようだ。


 ひとつは更新制度の影響。〈多くの市中病院においては、更新に必要な手術や処置の件数を満たすのは難しいので、中堅の医師が大病院に移る可能性〉があるという。


 もうひとつはプライマリーケア(1次医療)への対応だ。専門分化が進むうえで大切な役割を果たすのが、プライマリーケアを担い、難易度の高い患者を専門医に振り分ける一般医である(英国で、患者の9割以上は一般医が対応できると報告されている)。


 ところが、日本では「総合診療」の領域を選んだ専攻医は全体の2%にすぎないという。プライマリーケアの研修は義務化されておらず、専門医制度の〈導入後は医師の専門領域へのこだわりは一層強くなって、一般医として必要な技能をOJTで習得する余裕は少なく〉なる。


 多くの医師が専門に特化した結果、将来、一般医が足りなくなる事態も起こり得る。


■専門分化の進展で病院の廃院・縮小も


 専門分化の流れは病院の事業化にも影響を及ぼしそうだ。診療報酬が厳しくなり、近年は病院も経営の視点を持つようになってきたが、医師の専門医志向が強まると、〈病院は設備を一層整備して事業化する必要〉が出てくる。〈病院を統廃合して医療機能を高める必要があり、廃院・縮小の対象となる病院にとっては厳しい選択に〉なるという。


 事業化の加速で気になるのは、〈改革はあまり進んでいません〉という公立病院の経営だ。公立病院は、そもそも伝染病者の隔離、郡部での医療の提供、都市部の高度医療の提供などを設立の目的としているため、もともと赤字になりやすい構造だが、それだけではない。


 著者は、赤字の原因として、〈病院の事務職員は本庁から定期異動で医事会計について知識のない者が就〉く点を指摘する。診療報酬の改定への対応、計画の策定をはじめ、病院の事務職員には高い専門性が求められるが、数年おきに異動では専門性の習得もままならないはずだ。〈競争入札で受注先を決める際に地元企業が優先〉される点も、コスト高につながりやすい。


 公平化の視点では、日本は今のところ〈患者はどこの医療機関でも受診でき、負担する金額は支払える範囲に留まって〉いる。


 注目したのは、社会保険がありつつ、別の仕組みも併用している欧州の事情だ。ドイツでは〈高所得者と公務員は今日においても社会保険ではなく、民間保険に加入〉、イギリスでも〈中高所得者は民間保険に加入〉、フランスでは〈社会保険によってカバーされない患者の負担額を給付する相互保険〉がある、といった状況だ。優先的に専門医に見てもらえたり、待機時間が短くなったりなどのメリットがあるが、米国ほどではないにせよ、懐具合によって、受けられる医療に格差が生じているとも言える。


 急性期の医療が専門分化する一方で、増え続ける高齢者の医療ニーズにはどう対応するのか? 高齢者の医療は必ずしも完治をめざすわけではない。〈残存機能を活かし、本人と家族のQOLの維持向上を目指す長期ケア〉が大きな部分を占める。


 医療と長期ケア(介護)の担い手として著者が期待するのが、病院全体の8割を占める中小病院である。とかく「過剰な病床の元凶」と批判されがちだが、〈高齢者のニーズに対応し、入院費用も急性期大病院より格段に低い〉という。


“寄木細工”と言われながらも、日本はなんとか公平性の高い医療制度を保ってきた。しかし、さまざまな歪みが露呈している今、現状維持は難しい。過去最高の43兆6000億円を記録した医療費(概算医療費ベース)も際限なく増やせるわけではない。


 医療・介護は制度によって、提供されるサービスが大きく影響を受ける。既存のシステムを上手にナッジ(望ましい行動をとれるよう人を後押しする)していくのか、著者が提言する保険制度の改革のような抜本改革で行くのか。いずれにしても、お金の有無で受けられる医療の質が左右される状況は避けたいものである。(鎌)


<書籍データ>

『医療と介護 3つのベクトル』

池上直己著(日本経済新聞出版1100円)