コロナのおかげで雑音なしにプロ野球観戦できるようになったと思ったら、なんと声援を録音し大音量で場内放送する愚行が各球場で広がっている。近年の飛び跳ね喚き散らす集団的な応援が大嫌いだった。無観客試合は、数年前に一部で実施された「球音を楽しむ観戦デー」の再来で、これを機に普及するかと期待していた。しかし現状はまったく逆で、各球団の営業部は、無観客であっても観客に阿ることしか念頭にないようだ。まったく、選手を馬鹿にした話である。


 コロナ以前から定着しているプロ野球の一斉応援は、広島カープが初優勝した1975年あたりが起源と思われる。前年にⅤ9を阻止した中日に続いて、今度は地方球団の初制覇に湧き立った。その年の球宴で衣笠・山本浩二が2打席連続のアベックホームランを放ったあたりから、カープの応援はヒートアップ。その勢いで初優勝を遂げた。そのときは、さして五月蠅いとも感じなかった。


 それ以前のプロ野球の応援は、基本的に野次を飛ばす人が何人かいて、場を楽しませたりしていた。その後、人数にして10人前後の私設応援団が、三々七拍子で笛(文字通りのホイッスル)と太鼓を吹き鳴らし打ち鳴らして、手拍子を統率するスタイルだった。それが広島の応援には、トランペットと大太鼓に掛け声が加わり、大音声に発展していく。このころには他球団の応援も同じスタイルになっていった。



 しかし、これでもまだ、この声出しスタイルはせいぜい熱心なファンの間にだけ限られていて、ホームチームの試合を見に来た観客の2~3割程度だったように感じた。それが今はどうだ、球場の8割近くは本拠地球団のファンで埋まり、残りも相手球団の応援が陣取る。こうして攻撃権のあるチームの応援が、絶えず否応なしに耳に入る仕組みに変わっている。


 加えて、応援グッズをはじめ、応援の過剰演出が当たり前のように行われている。ジャリタレや芸のない芸人たちの始球式、風船飛ばしや選手の登場曲、聞いているほうが恥ずかしくなるほどの意味不明な選手紹介アナウンスなどなど。それこそ、枚挙に暇がないとはこのことだ。


 いろんな楽しみ方があるのはいいことではないか。何も一部のファンだけのものではない。応援にケチをつけると、必ずこんな反論が出る。そりゃそうだ。しかし、小は大を兼ねないのである。ヒステリックで過剰な応援が大勢を占めている現状で、「球音を楽しませろ」と求めても、搔き消される。だからせめて、テレビの実況中継では、副音声に球場内の五月蠅い応援向けの集音マイクや場内放送を流さないようにしてくれれば済むのだが、中継局に同好の士がいるはずもなく、この願いは届かない。



 プロ野球パリーグでは福岡、仙台の2球団がこの録音声援を流しており、近ごろ埼玉の球団も追随した。ここは最も音量が大きく感じられる。すり鉢型の球場で素晴らしい施設だが、ここの応援は本当に五月蠅くて球場の形状から地響きのように耳をつんざく。ここと同じくらい五月蠅い千葉では、意外なことに今のところ録音声援がない。京セラドームと札幌も同様で、応援に対する考え方が異なる。セリーグはあまり見ないのでわからないが、ほぼ全球団が録音声援を流しているように思われる。


大相撲もやがては「多様性」に屈する?

 

 大相撲は今のところ集団応援の危機にはないが、それでも2年ほど前だったか、贔屓の力士の勝利を期待する声出し応援が自然発生的に起きて、解説の芝田山親方(元横綱・大乃国)や舞の海氏が「やめてほしいですね」などと眉を顰めたことがある。先ごろ引退した大関・豪栄道に対する応援だったように記憶している。しかし、この世界にも危ない兆候は出てきており、応援タオルなどが幅を利かせつつある。四股名を書いたタオルを突き出して何が面白いのか。意味不明である。


 土俵の周囲は、審判部に属する親方衆が四方を固めている。取り組みを控えた力士や勝ち残り、負け残りの関取、行事や呼び出しも取り囲む。観衆はそれらを見下ろすように、取り囲むようにして全体を覆っている。そこに手拍子を合わせたり力士の名を連呼すれば異様な雰囲気になる。この世界もまた、「多様性」に屈して自由な応援スタイルが徐々に浸透し、プロ野球の二の舞を演じることになりかねない。タオルなどの応援グッズが広がっているのだ。


 集団応援といえば、サッカーにとどめを刺す。プロ野球で今、幅を利かしている応援の原型はここにあるかもしれない。歌い踊り叫ぶ。のべつ幕なしである。サッカーの応援は、それ自体が自己目的的のように映る。勝ち負けに一喜一憂するが、ストレス解消のツールではないだろうか。イギリスは典型的な階級社会で地域格差があり、イタリアは大都市が1つの王国として存在し競合していた歴史を持つ。属する階級や地域に対する帰属意識、帰巣願望がサッカーの応援に深く刻まれて、応援自体が存在意義を持つようになっていったように思われる。


 サッカーは、絶えずボールが動くスポーツで、間断ない声援があるのは理解できなくはない。ボールデッドの場面を除いて日本人が好む「間合い」がない。しかし、相撲には充分すぎる仕切り時間があり、野球は1球ごとにインターバルがある。どんな立ち合いをするのか、どんなボールを投げてくるのか、どんなボールを待っているのか。そんな想像を掻き立てる時間は至福のときである。声を枯らして飛び跳ねて目前のプレーを満喫できるのか。そもそも、応援にスポットが当たることが本末転倒である。目の前の一流のプレーを見ることが最高の喜びではないのか。それがなければ、応援は存在しないのだから。(三)