●医師に殺させない優しい企み――リヴィングウィル


 前回は小堀鷗一郎が森鴎外の論文からヒントを得た、「カルミネーション」をひとつの道具に、医師及び医療関係者が浅い認識のもとに、人の生と死を判断することの危うさに危惧を示した。


 アトゥール・ガワンデが『死すべき定め』で、「科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった」と語っているのは、おそらくおよそ深い考察や論議や苦悩というプロセスを経ない(ガワンデはそれを「準備」と言っているが)ままで、最もその傍にいる「職業」というだけで、「医学的経験」から人の死を扱っていいと考える姿勢は、明らかにNGだということなのである。


 結論からいえば、「個の死」は、医師やあるいは地域包括医療を担う「カンファレンス」の構成員たちが、「会議」で判断することではなく、個に任せる、あるいはその個を最も代行できる、代弁できる人に任せるべきなのだということである。


 こうしたことの結論はすでに出ているはずだと筆者は思う。なぜなら、在宅看取りを行ってきた医師やホスピス運営経験者、そして「孤独」を肯定的に捉える識者たちが、一貫して尊厳死や安楽死に異論を唱えているからである。その経験を発信する医師たちは、小堀を含めて決しての死生観には言及しない。相手に寄り添うのみである。であるにもかかわらず、多くの医師が尊厳死や消極的安楽死を奨め、さらに安楽死、自殺ほう助に手を貸す「正義」の医師たちが現れるのか。


●生命倫理とは何か


 04年に『覚悟としての死生学』を著した病理医の難波紘二は、日本人の死生観、あるいはそこから生まれる「尊厳死」「安楽死」、そしてそれを実現させるためのリヴィングウィルに関して、哲学、法学、物理学、生命科学のグローバルな分野から、そのあり方を考察している。


 ガワンデの批判「生と死の科学の管理」は、そこで示されている「科学」を「医学」に置き換えるとわかりやすい。医師はしばしば自らを「科学者」という。しかし、それは医学者と言っているに過ぎない。科学のフィールドは広い。人が生きていく、死んでいく話には哲学や文学、法学、生命の森羅万象を見つめることが必要なのは当然である。「生命倫理」という言葉の蓋然性は、そうした理解なしでは語れない。


 難波は『覚悟としての死生学』で、「生命倫理の具体的問題の議論を進める中で、問題のよってきたるゆえんと、それをどう解決したらよいのか、真の回答は個別解答丸暗記のハウツー的理解ではなく、自分の死生観を確立することによって得られる」と述べている。


 つまり、「自らの死生観を確立せよ」と説くのだ。明らかに凡庸な建前論に流されるのではなく、現実的な自分の解を探すよう示唆し、同書自体が著者の「死生学」を示すものだということを宣言しながら、自らの死生観を編んでいくために、「できるだけ科学的事実に依拠し、他を論理的思考で補い、結論を現実に照らして検証する」という自らの手法を紹介する。


 第1章の主題は「他人の価値観に操られないために」だ。そこで、いきなり「尊厳死」と「安楽死」の難しい命題を提示し、前回も触れたが、『高瀬舟』を素材に護送役人が護送する囚人から聞いた話に混乱しながらも、権威の判断を自分の判断とすることで自らの考えを保留してしまう姿勢を、「近代日本における市民的倫理判断の典型」と断じている。その行方が、ある種の「同調圧力」となっていることは自明である。


 アドバンスケア・プランニング(ACP)という厚生労働省の音頭は、自分の判断を持たないが、多数の判断は間違っていないという思い込みに付け込んでいることが仄見えてくる。


●リヴィングウィルの是非


 そうした展開のなかで、難波は「自殺」という刑法上の罪はないのに、「自殺ほう助」が刑事罰となっていることに論旨を進めている。


 筆者はここから展開する難波の考察には異論を持つが、尊厳死を支持する人の見解としては、最もまともな議論だと思うので紹介していく。


 難波は「尊厳死」を、「本人が自己決定権に基づいて、その威厳を保ったまま死ぬ行為であり、それに他人が最低限の補助を行うことだ」と説明する。これを厳密に見つめると「最低限の補助」は、「ほう助」にはならないのかという疑問が頭をもたげる。そのうえで、著者は「安楽死問題とは、人が事前に尊厳死について意思表示せず、『意識のない不治の病人』になった場合に、それにどう対処するのが倫理的に正しいか、という問題だといえよう」と述べる。加えて、安楽死などという危ないことをやらないためにも「リヴィングウィル」を用意する必要を強調している。


 つまり、尊厳死と安楽死は、科学的な状況ではほとんど変わらないということであり、リヴィングウィルが用意されることで、「ほう助」にはならないという暗黙の了解が形成されていることになる。逆にいえば、本人の自己決定が確認されないと「安楽死」は自殺ほう助も乗り越えて「殺人」になってしまう。


 尊厳死と安楽死は、科学的な状況を勘案するとほとんど変わらないという指摘は重要だと思う。そして、「殺人」と「尊厳死」「安楽死」を分けるものは「リヴィングウィル」だという論理はシンプルだが明快だ。


 だが、待てよと筆者は立ち止まってしまう。それではリヴィングウィルが万能になってしまわないか。誰のためにリヴィングウィルがあるのかという話が見えてこなくなる。医師や医療関係者が「殺人」を犯さないための方便として機能することが重視されれば、消極的安楽死の現場で想定される不愉快な事態はまったく起きないのだろうか。


 こうした論旨の前提にあるのは、自殺が刑事罰ではないということは、「自殺はよくない」という社会合意が倫理規範として認識されているからだろうが、患者家族や主治医がもう生還の見込みのない人に、「リヴィングウィル」があれば、安楽死を決断するのは社会的倫理規範からみれば自殺より許容される合意だと簡単に言い切っていいのだろうか。同調圧力に結びつく要素が大きいにもかかわらず、法理的な矛盾をなくすために、社会的倫理規範に関する合意の範囲、解釈も強引に作り出す恐れはないのだろうか。


●「死にとうない」もかっこいい


 福井県の農村部で長く診療所医師を務める中村伸一の、『入門!自宅で大往生』では、彼が看取りのなかで、リヴィングウィルが市民良識として浸透している状況、延命医療が不正義として捉えられる社会のなかで、きわめて自然に死を迎え入れることの重要さを知ることができる。


 しかし、最期の瞬間を穏やかに憂いなく迎えるための、本人と家族の準備に関する“ノウハウ本“ではある。尊厳死や平穏死などという上段構えの話はない。「延命医療か否か」などという二元論もない。「逝き方」を地域診療医としての豊富な経験に基づく具体例で語り、終末期医療の心構えとともに、制度へのアクセス等について語っているノウハウ本。


 中村は、自治医大卒のへき地医療医である。著書では「(福井県)名田庄で見た、家逝きという高度な英知」というフレーズが使われている。在宅看取りのような状態を「家逝き」として、名田庄の伝承的習慣、人々の振る舞いから学ぶ意味で、制度的表現の在宅看取りではなく、家逝きを文化として捉え、それを今後は日本社会に仕組んでいくことを提唱する。「家逝き」は在宅看取りではない。そこに、名田庄医療をウオッチしてきた医師としての矜持が窺える。


 ここで語られているなかで1837年に亡くなった僧、仙厓に関する話が、中村のひとつの信念を示している。彼がシンポジウムで知り合った僧から聞いた話として、仙厓は「死にとうない、死にとうない」と言いながら死んだそうだ。中村はそのなりふり構わない高僧の最期を、「少しもええかっこせんところが、かっこええ!」と感心している。この「感心ぶり」に、私は逝き方を自然にとらえる、何か論理で意味づけする必要はないとの、中村の主張を嗅ぎ取る。


 ただ、中村もリヴィングウィル推奨論者である。次回は中村の見解を読みながら、リヴィングウィルにも懐疑的な活字を読んでみよう。(幸)