先頃、森友文書改竄事件で、国側が「赤木ファイル」の存在を認めた。周知のように、安倍晋三前首相夫人の昭恵さんと親しかった学校法人「森友学園」に国有地を格安で売却した森友事件で、当時、近畿財務局職員の赤城俊夫氏(故人)が財務省の指示で売却経緯を改竄したことを記したとされるファイルだ。自殺した赤木氏夫人の雅子さんが弔問に来た同僚から存在を知り、国に対し損害賠償を求めた訴訟でファイルの開示を要求してきた。


 赤木ファイルについては国会でも取り上げられたが、政府は裁判中を理由にファイルがあるともないとも答えなかった。その裁判では財務省側は「公判には関係ない」と突っぱねてきた。さすが、財務省はすごい。ファイルがあろうがなかろうが、「裁判には関係がない」と言い切るのだ。


 国民にとっては、もしファイルがあるのなら是非、公開してもらい、どんなことが書かれているのか知りたいと思う。だいいち庶民の感覚では裁判に関係があるかないのかを判断するのは裁判官だと思うのだが、エリート官僚の発想は違うのだ。まるで「財務省が国を動かしている。三権分立の上に財務省があるのだ!」と言っているように聞こえる。


 この森友事件に続いて問題になったのが加計学園事件だ。こちらは安倍前首相の親友の加計晃太郎氏が理事長を務める学校法人「加計学園」の獣医学部新設である。どちらも当時、首相だった安倍氏にまつわる事件だが、両事件で散々言われたのが「忖度」という言葉だ。忖度とは「相手の気持ちを推し量る」といった意味である。当時、安倍首相本人は事件とは一切関係がない、と語っているからなのだろうか、財務省や文部科学省の高級官僚が安倍首相と昭恵夫人の意中を汲み取って便宜を図った、ということらしい。


 だが、この使い方は正しいのだろうか。国語の研究者ではないから、正確なことは言えないが、忖度という言葉とは違うような気がする。


 たとえば、忠臣蔵の映画で事実かどうかは知らないが、こんな場面がある。大石内蔵助が浅野家再興の望みを絶たれ、最早、討ち入りしかないと決断し、京から江戸に下る。このとき、「九条家ご用人」と称して宿場に泊まるのだが、そこに本物の九条家ご用人が現れる。


 本物の九条家ご用人は自分の偽者が本陣に泊っているのを知り、偽者のご用人の大石内蔵助と対決する。隣の部屋には大石と行動を共にする赤穂の遺臣数名が控え、もし、偽物と騒がれたら即座に切りつけようと刀の柄を握り締めている。一方、廊下には本物の九条家の従者である武士が、事と次第によっては切り込もうと、これもまた刀の柄に手を掛けている、という緊迫した場面である。


 大石と対面した本物の九条家ご用人が大石に通行手形を見せるよう要求すると、大石は背後の手箱から紙包みを渡す。その紙包みを開けると、何も書いていない白紙である。本物のご用人は訝しげに大石の顔を見、その脇の手箱に目をやると、漆塗りの手箱には二枚鷹の羽の御紋が描かれている。大石の家紋は二つ巴であり、二枚鷹の羽の御紋と言えば、浅野家の御紋である。咄嗟に、播州浅野家の遺臣、大石であると悟った九条家のご用人は「確かに本物でござる」と言って白紙の紙を大石に返し、さらに自身の懐から紙包みを出して「近頃は偽の通行証が出回っていると聞きます。私も偽物を持っております。ご覧ください」と言って大石に手渡す。大石がそれを開けると、「九条家御用」と書かれた本物の通行手形だ。本物の九条家ご用人は「手慰みにご笑納ください」といって立ち去る。その九条家一行の後ろ姿に大石と赤穂の遺臣たちが畳に手をついてお辞儀する姿が続く、という忠臣蔵の名場面のひとつだ。


 武士の意地として吉良上野介家に討ち入りをしようとする大石たち、赤穂浪士の立場を理解して暗に支援している。上手い演出だと感心する。


 もうひとつ、能狂言に「安宅」というのがある。この能の安宅を脚色したのが歌舞伎の「勧進帳」である。さらに、終戦直後、黒沢明が「虎の尾を踏む男達」という映画をつくっている。


 物語のあらすじは源義経が兄、頼朝に会うのを拒否され、奥州・藤原氏の元に山伏姿に変装して落ちのびるとき、加賀の安宅の関所で、頼朝から追捕するように指示されている関所の関守である富樫某と、義経の忠臣、武蔵坊弁慶とのやり取りだ。


 義経の一行と危ぶむ富樫に対し、弁慶が東大寺復興資金を募る勧進だと主張。ならば勧進帳があるはずだ、と難詰され、弁慶が白紙の巻物をあたかも本物のように読み上げる……。さらに一行の中に小柄な義経らしい人物がいるのを咎められると、弁慶が「お前のおかげで疑われる」と杖で主人の義経を打つ。その姿に富樫が「疑いが晴れた」と関所を通す。能では、その後、富樫が弁慶を酒宴に招き、詫びを入れ、それに対して弁慶が舞を舞って草々に退散するのだが、それはカット。


 かくの如く、忠臣蔵では将軍の意向に反して討ち入りを果たそうとする赤穂浪士の気持ちに与し、勧進帳では武家の棟梁である頼朝の指示に反して奥州へ落ちのびる義経一行の気持ちを汲む。最高権力者の意向に反してでも理のある人の気持ちを汲んでいる。これこそが本当の「忖度」ではないだろうか。


 翻って、森友、加計学園問題で高級官僚たちの行動をマスコミはたびたび「忖度」と言ったが、最高権力者である首相の気持ちを推し量って便宜を図った、というのは忖度とは言えなかろう。こういうのは忖度ではなく、「へつらい」「おべっか」ではなかろうか。


 官僚の主人は国民である。東大を卒業して官庁に入省したときは全員が「国民のために働く」と思っているのだが、1年も経つと、その気持ちがなくなるという。主権在民が失せ、首相が主人になってしまっている。安倍内閣では「忖度」が横行したが、どれもへつらいであり、おべっかではなかったか。マスコミが繰り返した「忖度」という言葉使いは間違っていると思うのだが……。(常)