五輪やらサッカーW杯やら、メジャー・スポーツのビッグイベントはほとんど観戦する。会場で「ナマ観戦」をするほどのスポーツファンではないのだが、テレビではオンタイムのワクワク感を重視する。五輪期間中は開催国によって、昼夜逆転の生活にもしばしばなる。東京五輪の開催も、そんな4年に1度の楽しみとして以前から待ち望んでいた。「2024年まで五輪はなし」となってしまったら、少なからずがっかりするだろう。


 あえて言うならば、そんなタイプのファンとしては、開催国は正直、どこでもいい。下手に心配材料が多いのなら、いっそのこと異国でやってくれたほうが、無心に楽しめる。何が何でも東京で、というこだわりはない。ただただ、「娯楽コンテンツ」として五輪が好きなだけなのだ。


 無理やりの東京開催で、連日万単位のコロナ感染者が発生、医療現場がめちゃくちゃになる光景を思い浮かべると、そちらはリアルに恐ろしい。「そこそこ無難にやれるなら開催してほしいが、その見通しが立たないなら、中止もまたやむなし」という感覚なのである。なるようにしかきっとならないが、無理は禁物だ――。一定数の国民はきっと似た思いでいるように思う。


 それはそれ、一方で最近の状況を見ていると、ワクチン接種の驚くべき遅さなど、この国の無力さに改めて悲しくなる。「世界屈指の先進国」を自認した時代も遠い昔、国力も人材も相当に貧弱な国になってしまった。たとえば、コロナ患者向けのベッド数、医師・看護師の不足にしたところで、たとえば一時的に一定割合の民間病院を「国営扱い」にし、財政的負担を政府が引き受けるような「国家総動員法的な時限措置」は不可能なものなのか。そんなことを夢想するのだが、国の施策はいつまでも変わり映えしない“お願い的微調整”の繰り返しに映る。この国の衰退は今に始まったことではないのだが、このところの右往左往ぶりで、そのことをまざまざと万人が痛感する、そんな状況にあるように思えるのだ。


 今週の週刊文春で、映画評論家・作家の小林信彦氏のコラム「本音を申せば」を読み、政治的なことをめったに書かない88歳の老作家も、似た思いでいることを知った。今週のコラムタイトルは『急速に転落しつつあるジャパン』。私のようなぼそぼそした嘆き節でなく、その文章は(小林氏のこのコラムでは珍しいのだが)終始、憤懣をぶちまけるトーンに満ちている。氏は菅首相のインタビューを掲載し、その写真を表紙にしたニューズウィーク日本版の前々号を読み、込み上げる怒りを感じたようだった。


《日本政府は自前のワクチン製造をしていないために、コロナ禍というと、ガタッと二流国か三流国に落ちてしまう》《極端に遅れた日本社会はどん底に向かっているのだ。そして、愚かしい政治家・官僚が日本を天国であるかのようにはやし立てている》。全編がこんな調子で書かれている。


 なお、今週の文春トップ『「天皇に会わせろ」バッハよ、何様だ』の記事には《菅首相と小池知事が手を握った》という小見出しがあり、一部から五輪中止という「ちゃぶ台返し」をする可能性が指摘されていた小池知事も最近、首相との会談で「開催」の意思を確認し合ったという。小林信彦氏は今回のコラムで、五輪開催について《第二次大戦での大バクチを考えていた軍部と同じ愚かしさである》と断じている。はてさて現実はどうなるか。開幕予定日は刻一刻と迫っている。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。