フィールドワークのやり方は、その目的に応じていろいろある。地域の文化や習慣を丸ごと研究対象にして、そこに何年も住み込んで情報収集する場合もあれば、1回の現地調査は長くても数週間ほどで、調査対象を絞り込んで集中的にモノや情報を集める場合もある。薬学の研究者が主たるメンバーだった我々のグループのスタイルは後者で、常にモノとそれについての情報をセットで収集することが肝要な調査だった。これは、集めた資料がその後、天然物化学的研究の材料になるからで、薬学の「資源」をキーワードのひとつとする分野では、昔からオーソドックスなやり方だったと思う。薬学の天然物化学は、いわゆる創薬シーズを探索する研究が中心で、世界的にみても日本の研究者がリードしてきた分野だと言えるのではないだろうか。


 筆者自身は、天然物化学、いわゆるモノ(化合物)とり中心の研究スタイルではないので調査では情報収集が中心となる。そして同じ場所に、季節や主目標を替えながら、何年もかけて何回も通うことが多い。調査対象が植物とそれを利用する文化(= 薬用の知識)なので、季節とともに登場する植物が替わり、その周りに展開される生活習慣も代わるからである。


 調査は研究費の都合で、1年間に複数回おこなう場合もあるし、毎年1回という場合や、数年を隔ててようやくもう一回という場合もある。今回は、この同じ場所に通うスタイルから生じた偶発的エピソードのひとつをご紹介しよう。


 1990年台に、ベトナムの、特に山岳部に住む少数民族等の貧困解消プログラムを実施していた、京都に本部を置くNGOの要請に応じる形で、現地に生える薬用植物や民間伝承薬の現地調査をおこなった。時期を変えて複数回、ベトナム中部の山岳部の村を訪れた。


 その1回目は筆者にとっては初めての海外調査で、かなり後年になって聞いたところでは、同行の指導教員だった男性教授は、筆者の初めての現地調査の行き先が、ベトナム戦争後米国との国交も回復していなかったベトナムであることをたいそう心配した、そうである。刺激が強すぎて、現地で体調を崩したり、この研究分野が嫌いになってしまわないか、と気を揉んだらしい。確かに、行ってみると、空港から1歩出れば英語はまったく通じないし、自動車もほとんど走っておらず、最大の都市ホーチミン(サイゴン)の街中でも足に履き物を履いている人は半数より少なかった。道を歩くと、物乞いがどんどん寄ってくるし、小さな子供が素知らぬ顔で寄ってきては、ウエストポーチのチャックを開けて中から財布を擦ろうとする。市場は入り口から強烈なにおい(それは魚の燻製や干物のにおいに野菜や果物の生ゴミのようなにおいが重なり、まるで夏のゴミステーションのような)を放って存在感たっぷりだし、でもその中に買い物に行かないと調査の準備もできず食料も手に入らない。なるほどカルチャーショックの要素は満載であった。


 ところが、筆者はそれを嫌がるどころか、その中に溶け込んでいたらしい。当人の記憶にも嫌だったということは微塵もなく、底抜けの自由さというか、息苦しさから解放された気分が強く、「ここが好き」という感覚が強かった。


 筆者の身なりは日本人、デイパックを背負ってスニーカーを履いているので周りの現地の若者と明らかに違ったはずであるが、どこに行ってもベトナム人にベトナム語で話しかけられることが多く、滞在期間中に少しずつベトナム語に慣れてくると、ベトナム語で簡単な受け答えができてしまうようになって、ついには、まだ値段表示など何もなかった当時の市場で、果物や野菜を値段交渉の末、ベトナム人値段で買えるまでになった、という有様であった。自分がかなりベトナム人に似ているらしいということは、幼稚園時代にガキ大将が筆者につけたあだ名が“ベトナム人”であったことからも意識はしていたが、現地でそれを体感するとは予想外であった。ベトナムの人たちによくよく聞いてみると、一緒に行動していた男性指導教授は明らかに日本人に見え、その横にいる筆者は、そのお金持ちの日本人に同行するベトナム人ガイドに見えた、のだそうである。シチュエーションとしても出来すぎていた、のかもしれない。



注:1995年当時、薬用動植物の聞き取り調査中の一コマ。情報提供する男性。



注:同じ現地調査期間に別の場所で行った聞き取り調査の一コマ。真ん中の男性が教えてくれた木の葉をかじって、「苦い!」。左端が1995年当時の筆者。


さて、この“金持ち風日本人とそれに同行するベトナム人ガイド”の風体で、我々はホーチミン大学の先生やNGOの職員らと一緒にターゲットエリア内の薬用植物調査を行ったのだが、ある時、森林の中で暮らす一家族に出会った。カンボジアとの国境あたりから移ってきたといい、ずっと森の中で暮らしてきたので、薬になる草木や動物をたくさん知っているという。そこで、この家族と一緒に森の中を歩き、そこにあるさまざまな薬用資源について聞き取り調査した。その家族が使う言葉は都会のベトナム語と大きく異なっているらしかったが、近くの村で雇った若い男性がなんとか聞き取って英語に通訳してくれて、40種類以上の植物性、動物性の薬素材の情報を収集することができた(成果は論文として発表している)。


 この時、主に話をしてくれたのは、夫婦とそのたくさんの子供で構成される家族のうちの夫にあたる男性だったのだが、この地域に後年、我々はまた何度も訪れることになり、10年の年月を経て、まったく予期せず、この男性に再会した。


 再会に至るまでの10年間でベトナムはすっかり様変わりし、森林は切り開かれて農地とされ、我々が男性と一緒に歩いた森は跡形もなくなって、コーヒーその他の有用樹木を栽培する農園に様変わりしていた。舗装は無いが、四駆車か軍用ジープなら走れる道が整備され、農園で働く労働者用の簡易家屋もあった。我々が彼に偶然再会したのは、その農園労働者の休む家屋の横で、ドライバーのための休憩時間をとった時だった。


 なんの気無しに車から降り、ちょうど休憩中だった労働者たちと、我々に同行するベトナム人研究者が話し始めた時、筆者は少し離れてしゃがんでいるオジサンに気づいた。ほかの労働者たちが物珍しそうにこちらに寄ってきてあれこれ話しかけようとするのに、そのオジサンはシャイなのか、家屋の前にしゃがみ込んだままである。ちょっと気になって目をやると、そのオジサンとばちっと視線があってしまった。が、次の瞬間、「あーっ!」とお互いに声をあげていたのである。オジサンは、あの薬用動植物をたくさん教えてくれた家族の男性だった。


 はしゃぐ筆者とオジサンを尻目に、ぽかーんとしていたのは、同行のベトナム人研究者とほかの労働者、それに指導教員の教授であった。ベトナム人研究者と農園労働者たちは10年前を知らないので無理もないが、男性教授は、うっそうとした森がまったく姿を消していたので、そこが10年前にインタビューした同じ場所だと気づかず、まさか10年前の彼がそこに居るとは思いもしなかったようである。また、10年分、お互いに老けて容姿も変わっていた、ということもあった。



注:10年後の2005年、ドライバーのために止まった場所で、下車して雑談する男性教授とベトナム人研究者(左側の2名)。右にしゃがんでいるのが文中のオジサン。


 筆者が同行のベトナム人研究者と男性教授に事情を説明している間に、オジサンは家屋の中に入って何やら手にして出てくると、満面の笑みでこちらにやってきた。手にしていたのは何か液体が入った瓶と古びたプラスチックのコップ1個であった。ようやく事情が飲み込めて驚いた表情の男性教授に、オジサンはコップを差し出し、何か言いながら瓶の液体を注ぐと、飲め、という仕草をする。ベトナム人研究者がオジサンの話を通訳しようとするが、「残念ながら言葉がわからない」という始末である。「え〜、どないしよ〜」と言いながら、コップの中身のにおいを嗅いだ男性教授は「あ、これ、酒や」。オジサンは、思いがけない珍客との再会に、虎の子の濁酒を出してきてくれた、ということのようだった。「そういうことなら、これは飲まんわけにはいかんな」と男性教授、オジサン、筆者、の順に、ひとつのコップからそれぞれ濁酒をいただいた。



注:10年ぶりの再会とわかって乾杯する、オジサン(右)と男性教授。


 その場には、オジサンの言葉を英語に通訳できる人が誰もいなかったので正確なところはわからないが、生活の場であった森が開発されて無くなり、生活に困ったオジサンは、土地の所有者が経営するその農園で労働者として働いている、ということのようだった。10年を経て、周辺環境もオジサンの境遇も容姿も、すっかり変わってしまっていることに驚きつつも、言葉なしでお互いが相手を認識できたという、この再会エピソードは、現地調査ならではの醍醐味のひとつではないかと思っている。

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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。