(1)映画『ブーベの恋人』『慕情』に似てるかも


 建礼門院右京大夫(1157~推定1234以降)の『建礼門院右京大夫集』を読んでいたら、60年代のイタリア映画『ブーベの恋人』を思い出した。第2次世界大戦末期のイタリア、反ファシズムのレジスタンス運動をしている青年ブーベと、その恋人マーラの物語である。2人の心の距離が離れたり接近したり、恋心は複雑・微妙・繊細である。青年ブーベは、ある事件によって、ファシスト・ナチスの協力者とみなされ、気の毒にも懲役14年となってしまう。マーラは2週間に1回、必ず面会に行く。わがままな田舎娘が、恋によって人格向上がなされた。


 ハリウッド映画『慕情』も思い出した。香港が舞台で、戦争未亡人のスーインとアメリカ人記者エリオットの恋物語である。『ブーベの恋人』に比べ至極単純な恋心の軌跡である。イイ女とイイ男が出会って、若干の障害を乗り越えて、愛を深めていく。しかし、エリオットは朝鮮戦争で死亡し、映画のラストシーンは、スーインがありし日のエリオットの姿をまぶたに浮かべる。そして、主題歌が流れる。『慕情』の主題歌は、すばらしい名曲で大ヒットした。数ある映画主題歌のなかでも最高ランクと言われている。主題歌が大ヒットしているから、映画を見に行った人も多かったと思う。


『ブーベの恋人』も『慕情』も、背景は大戦争である。建礼門院右京大夫の恋も、源平合戦という日本初の全国的戦乱によって、恋人が死亡してしまう。抜け殻状態の彼女は、恋に悶えた日々を回想しては、それを書き留めた。それが『建礼門院右京大夫集』である。基本的に個人の歌を収録した私家集であるが、歌の前に置かれる詞書(ことばがき)が散文のように長文なので、蜻蛉日記(藤原道綱の母)、和泉式部日記(和泉式部)、紫式部日記(紫式部)、更科日記(菅原孝標の女)、とはずがたり(後深草院二条)といった女流日記文学に近似した作品とも言われる。


 建礼門院右京大夫は、『ブーベの恋人』のマーラのように、『慕情』のスーインのように、極めて悲しい出来事ではあるが、すばらしい恋をしたのだ。


(2)『建礼門院右京大夫集』の経緯


 まずは、「建礼門院右京太夫」の「建礼門院」について。平清盛(1118~1181)の長女が平徳子(1155~1214)である。彼女は1172年、第80代・高倉天皇(1161~1181、在位1168~1180)の皇后(中宮)となり、「建礼門院」と称された。建礼門院(徳子)は、第81代・安徳天皇(1178~1185、在位1180~1185)を生む。建礼門院は壇ノ浦で入水自殺を図るが助け出され、京で出家し、大原の寂光院で安徳天皇と平家一門の菩提を弔った。


 さて、建礼門院右京大夫の父は、中流貴族の藤原伊行である。彼は一流能書家であり『源氏物語』の研究者である。母は、大神基政の娘・夕霧である。大神基政は一流楽人で、娘・夕霧も一流の筝の名手である。


 余談ですが、筝(そう)と琴(きん)とは別の楽器です。現在、通常使用されているのは筝であって琴ではありません。でも、琴と呼んでいます。ごちゃごちゃしていますが、そうなっています。構造的に、柱があるのが筝、柱がないのが琴です。


 本筋に戻って…。


 1157年、父・藤原伊行、母・夕霧の間に女子誕生。


 1173年、その女子は、17歳のとき、建礼門院の女房となる。女房名は「建礼門院右京太夫」となった。


 その間、その女子が、何をしていたか、エピソードもなく不明である。でも、父母のことからも推測されるように、書・古典・筝など英才教育を受けていたのだろう。評判になるほどの才能があったからこそ、飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一門の建礼門院の女房になれたのだろう。


 1157年~1173年の間、平家は怒涛の勢いであった。1159年は平治の乱で勝利し、事実上、平家の天下となった。1172年に平徳子が高倉天皇の皇后(中宮)となり、平家の天下は盤石となった。つまり、建礼門院右京太夫は平家全盛時、建礼門院(徳子)に仕えたのである。


『建礼門院右京大夫集』(以下は『集』と略します)の冒頭は、序文のようなもので、何となく忘れがたく思われることを思い出すままに書きました、といった詞書(ことばがき)である。その和歌は、次のとおりです。

  

 われならで たれかあはれと 水茎(みづぐぎ)の 跡もし末の 世に伝はらば (『集』の1)


(現代訳)私以外に、誰がしみじみと(読んでくださるでしょうか)。(※水茎は筆の意味)筆跡がもし後の世に残ったならば。(私の父は能筆家で私も能筆なのよ。私の字って上手でしょ、という意味も)


 誰も読んでくれないだろうな、でも読んでほしいな……って感じかな。そもそも、平家全滅、恋人も死亡し、魂の抜け殻状態ながら、少しは心が落ち着き、過去を追憶して書き始めたものである。


 それが、1232年、彼女が76歳のとき、第86代・後堀河天皇(1212~1234、在位1221~1232)が、新しい勅撰集を作るよう藤原定家(1162~1241)に命じた。そこで、定家は多くの歌人らに私家集を提出してください、と依頼した。勅撰集に自分の歌が選ばれることは、とても名誉なことである。彼女も応募することにした。元原稿は手元にあるので、それに、加筆補筆して定家に渡した。『建礼門院右京大夫集』が完成したのは、この年であるが、元原稿は20~30年前に書かれたものと推測されている。「世に伝はらば」の真意は、藤原定家大先生、どうかわたしの和歌も選んで、後世に残してください、という思いが込められていると思う。


 その甲斐あって、『新勅撰和歌集』に2首選ばれた。


 さらに、定家の書庫に『建礼門院右京大夫集』が保存されたため、彼女及び定家の死後も、その後の勅撰集に建礼門院右京大夫の和歌は多く掲載されることになった。


 そして、彼女の恋の物語、それは『慕情』のようなストレートな愛情表現ではないが、恋人を戦場に取られた多くの女性の心に共感された。


(3)恋のお相手は、中年オヤジとイケメン青年


 17歳で宮中女性となった。前段で述べた「序」の次は、宮中の華やかさを詠っている。「雲の上」は、素晴らしく豪華絢爛で、私は夢心地です、って感じ。「雲の上」とは宮中を意味する。


 そして、宮中での楽しい自由恋愛ゲームが続々と語られ詠われる。処女の建礼門院右京大夫も青春を満喫していた。そして、運命の恋人が登場する。それも、ほぼ同時期に。


 ひとりは平資盛(すけもり)、もうひとりは藤原隆信(たかのぶ)である。


 1176年、20歳の建礼門院右京大夫は平資盛(1161~1185)と知り合う。平清盛の嫡男が平重盛(1138~1179)で、その次男である。平家全盛の時代であるから、平資盛は、スーパー血統である。しかも、誰もが認めるイケメン青年、そして4歳年下である。


 『集』の61番目の歌の詞書は、意味深長です。


「普通の人のように恋愛などしないと思っていたのに、朝夕、顔を見合わす男が大勢いたなかで、あの人が特別あれこれ言い寄って来たのを、恋なんて決してしないと思っているのに、前世からの契り(契り=因縁)は逃れがたく、恋の悩みが起こって、さまざま思い乱れる」


 夕日うつる こずゑの色の しぐるるに 心もやがて かきくらすかな (『集』の61)


(現代訳)夕日の色がだんだん薄くなる梢に、時雨(しぐれ)が降り、私の心も、暗く曇っていきます。


 61番目以降の歌からの推理は、右京太夫は平資盛に惚れてしまって、悶々と悩んでいる。年下のイケメン御曹司の求愛を受入れるべきか……、内心、私には「相手が上流過ぎて」「求愛を受入れても、私なんか、直ぐに捨てられるに違いない」「でも、あの人が好き」「でも決心できない」と堂々巡りの悩みに陥った。それは、悩みであるに違いないが、恍惚の心理的快楽でもあるようだ。

 

 恋に悶え悩む右京太夫に対して、1177年、新たに藤原隆信(1142~1205)が登場する。歌や絵画を得意とし、上流貴族に属するが、摂関レベルではない。年齢は右京太夫の15歳上で妻もいる。中年の隆信は恋の熟練狩人で、21歳の純情乙女は、ほどなく陥落する。『集』の80番の歌は、「橘(たちばな)の……」です。


 橘の 花こそいとど かをるなれ 風まぜに降る 雨のゆふぐれ (『集』の80)


(現代訳)橘の花がとても強く香っている、風が混じって降る五月の雨の夕暮れ。


 この歌の詞書も、「花橘の、雨はるる風に匂ひしかば」とあるだけで、現代人が読めば、たんなる風景の歌である。しかし、王朝の人にとっては、「橘の花」と詠えば、『古今和歌集』の「五月(さつき)待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」を連想する。つまり、恋人と抱き合ったときの匂いを思い出す、という極めてエロい歌なのである。


 それで、どっちの男と抱き合ったときの匂いか、とスケベ男は考える。『集』の80番の前後を繰り返し読んでもわからない。右京太夫にしてみれば、そこまでプライバシーをさらす必要はない、ということなのだろう。でも、ある本に、隆信の私歌集のなかに、隆信と右京太夫の間に、橘と恋人の匂いに関する和歌がやり取りされている、と書かれてある。ということで、「橘の……」の歌の匂いの相手は藤原隆信である。

 

 それでは、本命の平資盛との関係はどう進展したのか? 若い男が美人お姉さまに恋をしたのだ。若い男は、美人お姉さまから、「私は陥落しませんわよ」と言われても、そんなことはものともせず、ひたすらアタックである。それで、結局は、美人お姉さまは落城した。いつ落城したのか、スケベ人間は知りたがる。どうやら、藤原隆信との関係が始まった直後のようだ。右京太夫は2人の男を同時に恋してしまった。中年オヤジとイケメン青年が美女をめぐって……、実に昼メロ的だが、当時は、フリーセックスの時代であったから、別段、どうということではない。


 青年のお姉さまへアタックぶりを物語るエピソードは、『集』の114番。右京太夫が里にいたとき、大雪になった。そしたら、平資盛が大雪のなか来てくださった。そりゃ、喜ぶよな~、女の恋心は高まるよな~。強烈に記憶に残るよな~。


 とし月の つもりはてても そのをりの 雪のあしたは なほぞ恋しき (『集』の114)


(現代訳)あれからずいぶん年月が過ぎ去りましたが、あの折の雪の朝の驚きは、とても恋しい。※この歌の詞書には、イケメン青年の格好いいファッションが書かれ、「いとなまめかしく見えし」とある。


 右京太夫は2人の男に恋をして夢心地ではあるが、別離の予感に涙していた。藤原隆信は次々に女性を狩るハンターであり、いずれは飽きられて別の女性に向かう。平資盛はいずれ皇族か上流貴族の娘と結ばれるだろう。私は、どちらからも捨てられるだろう。右京太夫の恋は、単純な「恋愛バンザイ」ではない。2人の男との恍惚の恋、同時に別離の予感、それに悶え悩む。その悶え悩みが次元の違う心理的陶酔をもたらしていたのではなかろうか。


 思ひかへす 道をしらばや 恋の山 は山しげ山 わけいりし身に (『集』の156)


(現代訳)思い直して、ひき返す道を知っていませんか。恋の山は(苦しくせつない。)山の麓から奥山へ迷いこんだ私に(ひき返す道を教えてください)ひき返す道などないが、「悶え悩む」イコール「心理的陶酔」というわけだ。


 本筋から離れるが……、フリーセックスの時代だから、右京太夫を口説いた男は他にもいた。それに対する拒否回答の歌が、『新勅撰和歌集』に選ばれた。『集』の197で、「忘れじの……」の歌である。省略します。


(4)6年間で宮中女房を引退


 1178年秋、右京太夫22歳、母夕霧が病気となり、宮中女房を引退し、里である東山山麓に住居する。右京太夫の華やかな宮中生活は6年間で終了した。宮中を離れても、心は宮中での思い出ばかり。この年、安徳天皇誕生。2人の男は、どうしたか。2人とも、東山の彼女の居へ通っていた。


 1179年、右京太夫23歳、5月に母夕霧死去。右京太夫の兄である尊円が西山の善峯寺に住んでいたので、右京太夫はそこへ転居する。西山は少々距離があった。その結果、藤原隆信との関係は終了となった。2人は、多くの恋の歌をやり取りしたが、要するに、藤原隆信の恋のレベルは、その程度であった。


 しからば、平資盛は、どうか。『集』の167、168によって、平資盛が西山へ通っていることがわかる。


 この年、平重盛(平資盛の父)が死亡。


 1180年(治承4年)、右京太夫24歳。平資盛は通ってはくるが、その間隔が長くなってきた。この年は、4月安徳天皇即位、4月以仁王の令旨、5月源頼政の挙兵、6月福原遷都、8月源頼朝の挙兵、10月富士川合戦、11月福原から京へ還都、12月美濃源氏の挙兵で、平資盛は伊賀へ出陣し、これを鎮圧。平資盛のみならず平家は急に忙しくなったのである。平資盛が西山へ通う回数が減少するのは当然である。でも、彼女は政治の動きには無関心で、ひたすら平資盛を待っている日々である。ぼんやり枯葉をみながら、あるいは月を見ながら、昨夜も来ない、今宵こそは……。


 1181年(養和1年)、高倉院が死亡。平清盛が死亡。源(木曽)義仲の挙兵。


『集』は上巻と下巻になっていて、高倉院崩御を聞いて、「雲の上……」の歌で締めくくっている。その歌(『集』の202、203)は記載省略します。要するに、上巻は「雲の上……」で始まり、「雲の上……」で終わっている。彼女は「私家集プラス日記文学」をしっかり意識していることがわかる。


 でも、上巻だけで終わっていれば、物語としては「昼メロ」である。だが、下巻があるからこそ、『ブーベの恋人』『慕情』を乗り越える作品となった。


(5)追憶


 1182年(寿永1年)の源平は、いわば硬直状態。

 

 1183年(寿永2年)5月、源義仲は、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破る。7月、源義仲の軍、京に迫る。平家一門、安徳天皇・建礼門院を奉じて西国へ逃れる。

 

 1184年(元暦1年)源義仲が戦死。一の谷の合戦。


 1185年(文治1年)屋島の合戦、壇ノ浦で平家滅亡。


『集』の上巻は平家全盛の時代、右京太夫は絢爛豪華な宮中女房であった。下巻は平家滅亡、恋しい平資盛も壇ノ浦で入水自殺である。右京太夫にとって、天国と地獄の差である。呆然自失、魂の抜け殻、彼女は追憶をするだけの人生となった。


 上巻の最初の歌「またためし……」(204)であるが、その詞書は長文である。その要約は次のようなものである。

 

 寿永・元暦などの頃の世の騒ぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも……。親しい平家の人々が都を別れると聞いたときは……心も言葉も及ばない。平家の都落ちの噂が流れた慌ただしいとき、平資盛は右京太夫に忍んで会いにきた。そして、いわば遺言を語った。


「自分が死者になることは間違いない。だから、自分の死を聞いたら、わずかでも哀れと思ってほしい。菩提を必ず葬ってほしい。都落ちしたら、消息の文を書かないと決心した。だから、文が来ないから、貴女のことを忘れたと思い違いしないでほしい」


 平資盛の決然たる愛の言葉である。それまでは、まぁイチャイチャだったり、恋愛ゲーム的だったり……そんな感じもあって、彼女としては、「いつか捨てられる」という気持ちがあった。しかし、土壇場の別離での男の言葉で、彼女は男の完全な愛を獲得したのである。と同時に、それは二度と戻らぬ愛であった。


 彼女は、愛を握りしめて、抜け殻になったのだ。長い詞書の終わり部分は、死ぬこともできない、出家もできない、それがつらい、とある。


 またためし たぐひも知らぬ 憂きことを 見てもさてある 身ぞうとましき (『集』の204)


(現代訳)また、例(ためし)も類(たぐい)も知らないくらいの、つらいつらい憂いにあったにもかかわらず、生きている身がつくづく嫌です。


(解説)右京太夫が宮中女房の頃、上西門院(鳥羽上皇の娘)に仕える女房に絶世の美女、小宰相がいた。エピソードは省略して、平通盛(みちもり)の側室となった。平通盛は、平清盛の弟・平教盛(のりもり)の嫡男である。平家の都落ちでは、小宰相は同行した。一の谷の合戦で平通盛は敗死する。小宰相は、後を追って、瀬戸内海に身を投じた。また、建礼門院は出家した。それを念頭に置いて、死ぬこともできない、出家もできない、それがつらい、ということなのだろう。なぜ、死ぬことも出家もできないのか? 私は、「あの愛がある」からと思う。右京太夫は、魂の抜け殻ではなく、実は、抜け殻のように見えて、中心部に「あの愛がある」のであった。


 都では、連日、源氏の軍勢が西へ移動していく。悲報が届く、平家一門の首級が都大路をひき廻されて、獄門となった。捕虜となり都大路をひき廻されて死刑された者もいた。さらには、自死した者もいた。そのなかには、右京太夫が親しくしていた者も多くいた。『集』には、そのことに涙する歌が続く。


 都と西国の平家の間には、それなりの文のやり取りがあった。前述したように、平資盛は右京太夫に文を書かないと決意した。だから、右京太夫も文を書かなかった。しかし、右京太夫は、平資盛の兄と弟の死亡の知り、やむにやまれず文を送った。当然、歌も書かれてある。


 おなじ世と なほ思ふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世に(『序』の217)


(現代訳)あなたと私が同じ世に生きていると思うことは、とても悲しい。生きているのが生きていることにならない、この世では。


 平資盛は文を書かないと決意していたが、「このたびばかりぞ」お返事します、となった。返事のなかには、返歌もあった。


 あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞ悲しき (『序』の221)


(現代訳)生きていることが、生きていることにならない。この世の内にあって、こんなに悲しいつらいことに会うのは、とても悲しい。


 平資盛の返事を読んだ右京太夫の心は、「ましていふかたなし」とある。言葉にならない、ということか……。


 そして、壇ノ浦で平家一門全滅、平資盛の死の知らせが来る。精神的錯乱、絶望のため床に臥す、神も仏もあるものか、涙、涙、涙と追憶の日々。そんな歌が続く。


 

 1186年(文治2年)、30歳。大原の建礼門院を訪ねる。『集』の239~242が、そのときの歌である。この年、近江まで旅に出る。『集』の243~258が旅のときの歌であるが、亡き恋人への『慕情』である。


 1187年(文治3年)、31歳。この頃、『集』の上巻・下巻の元ができたようだ。


 1195年(建久6年)、39歳。この頃、後鳥羽天皇に仕える。『集』の322~353で、その様子がわかる。若い女房の指導役、つまり有能な女房である。むろん、『慕情』の歌もある。


 1213年(建保1年)、57歳。建礼門院(徳子)逝去。『集』には一言もない。


 1221年(承久3年)、65歳。承久の変。『集』には一言もない。


 1232年(貞永1年)、76歳。藤原定家へ『新勅撰和歌集』の選定の命。それに応募するため『建礼門院右京大夫集』完成。『集』の最後は、「建礼門院右京大夫」の名前がテーマである。


 言の葉の もし世に散らば しのばしき 昔の名こそ とめまほしけれ (『集』の358)


(現代訳)この歌の詞書に、次のエピソードが書かれてある。藤原定家が、「後鳥羽天皇・院に仕えたときの女房名にするか、建礼門院に仕えたときの女房名の、どちらの名で載せたいですか?」と尋ねる。彼女は「昔の名前で」と応えた。


(直訳)私の歌が、もし世に残るならば、忘れがたき昔の名前で、とどめたいものです。


 そして、藤原定家の「かえし」の歌


 おなじくは 心とめける いにしへの その名をさらに 世に残さなむ (『集』の359、これが最後の歌です)


 (現代訳)同じことなら あなたの心から離れない 昔の名前をさらに後世に残しましょう。


 余談です。『源氏物語』の最後の巻は「夢浮橋」です。内容は、薫は恋人の浮舟に会いに行くが、あと一歩のところで会えなかった。それで終了なので、古来、多くの『源氏物語』続編が書かれた。そのなかでも、『山路の露』と『雲隠六帖』が有名であった。そして、『山路の露』の作者は、建礼門院右京大夫といわれている。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。