●とにかく自由でいいではないか


 福井県の農村部で長く診療所医師を務める中村伸一の、『入門!自宅で大往生』は、最期の瞬間を穏やかに憂いなく迎えるための、本人と家族の準備に関するノウハウを伝えている。


 彼はこのなかで尊厳死や平穏死などという上段構えの話はしていないし、「延命医療か否か」などという二元論もない。「逝き方」を地域診療医としての豊富な経験に基づく具体例で語り、終末期医療の心構えとともに、制度へのアクセス等について語るものだ。


 中村は、自治医大卒のへき地医療医。著書では「(福井県)名田庄で見た、家逝きという高度な英知」というフレーズが使われている。在宅看取りのような状態を「家逝き」として、名田庄の伝承的習慣、人々の振る舞いから学ぶ意味で、制度的表現の在宅看取りではなく、「家逝き」を文化として捉え、それを今後は日本社会に仕組んでいくことを提唱する。


「家逝き」は在宅看取りとイコールではなく、印象としては限りなく老衰に近い「自然死」をイメージさせるが、それでも彼は、看取りのなかで、リヴィングウィルが市民良識として浸透している状況に好感を持っていることを否定していない。


 中村は、「家逝き」の極意として、どう逝くのかをざっくりと決めておけと言い、その決めの分岐点を想定する必要を語る。そして「延命か否かを表明すればよい」という単純な二元論を主張しているわけではないことを強調している。そのうえで、①基本的に寿命を受け容れる、②逝くまでにしたいことをする時間をある程度欲しい、③生きる充実感・人生の質に焦点を当て、寿命や苦痛緩和の微調整を試みる――ための手段としてリヴィングウィルを考えていく。


 そして中村は、分岐点のひとつに「食べられなくなったとき」を挙げつつ、「何もしないこと」を選択肢のひとつにあげる。この「食べられなくなったとき」は簡単そうで難しいテーマだ。「食べられなくなった」と「食べない」との落差はあまりに大きすぎる。中村がその意味も含めてリヴィングウィルに注目し、その理想的な雛形として、広島県地域保健対策協議会が制作したリヴィングウィル文書のモデル「私の心づもり」を推奨するところまで踏み込んでいる。


 このコラムの筆者の私は、基本的にリヴィングウィルを含めて、尊厳死、平穏死、そこに地続きとなっている安楽死に抵抗する者だが、中村が言う「延命か否か」の二元論では決められないという主張も尊重する。どちらかといえば、現状の安楽死是認への舵の切り方は、中村が言う「二元論では決められない」というテーマをすっ飛ばしているのである。二元論では決められないかどうか、そこの議論はまだ終わっていない。


●尊厳死、安楽死反対論を整理した上野


 私が中村の反二元論の前で立ちすくんでいる、あるいは煩悶している状況のなかで飛び込んできたのは上野千鶴子の活字だ。今年1月に上梓され大ベストセラーとなっている『在宅ひとり死のススメ』で、上野はきっぱりと尊厳死も安楽死も否定し、そこを助長するリヴィングウィルにも否定的な姿勢を明確にしている。


 上野は、安楽死について、2017年に雑誌・文藝春秋が行ったアンケートの回答者60人に自分が含まれていたことを改めて紹介しながら、60人のうち「安楽死賛成」が33人、「安楽死には反対だが尊厳死には賛成」が20人、無回答を除くと「安楽死、尊厳死に反対」したのは4人だけであり、その結果に「わたしは暗澹としました」と書く。


 そして、当時、ALSで闘病中だった仏文学者の篠沢秀夫氏が4人に含まれていたことを明記する。「進行する病魔と闘いながら、同年10月に逝去するまで篠沢さんは生きる希望を捨てませんでした」。そこを下敷きにしながら、上野は日本尊厳死協会が日本安楽死協会として発足し、その後に名称変更したことに読者の留意を求める。同協会は尊厳死と安楽死は違うとのスタンスをとっているが、その「地続き性」に釈然としないものが残ることを上野は示す。


「安楽死は積極的自殺幇助、尊厳死は終末期の医療抑制、前者は医療が介入して死期を早めるもの、後者は終末期に医療の介入を抑制するもの」との両者の語義の整理を示したうえで、「安楽死と尊厳死のあいだには、『滑りやすい坂』があります。しかも尊厳死(death with dignity)は、ヨーロッパ語圏では安楽死にも使われる用語」と付された説明は切れ味は鋭く、わかりやすい。


●根底には優生思想の存在


「滑り坂」論とは、安楽死が法的に許容されているスイスやオランダなどで指摘されていることだが、いったん厳しい制限下でも安楽死を認めてしまうと、規制緩和を求める声が大きくなり、少しずつ制限が緩くなり、自殺幇助許容への坂の傾斜が大きくなっていくとの指摘を表現した言葉だ。


 上野は、尊厳死を受け入れる人々の間には「尊厳なき生」より「尊厳ある死」を選びたいという価値観があるのではないかと論旨を進めたうえで、社会に貢献できなくなったら生きている意味はないという思想があり、「生きる価値のある生命」と「生きる価値のない生命」とを選別する思想であり、優生思想そのものだと切って捨てる。生産性の有無だとか、社会に貢献できるかどうかなどという価値観の野放図で取り返しのつかない考え方の横溢を、私は上野の言葉によって実感する。


 上野は「尊厳ある生」と「尊厳なき生」の線引きにも言及していくのだが、そこから発展して事前指示書(リヴィングウィル)やアドヴァンス・ケア・プランニング、人生会議といった官製価値観の問題点にも踏み込んでいく。理念には一定の理解を示しつつも、それが歩みを始めた瞬間に、何らかの同調圧力的な動きにならないかとの上野の懸念を私は感じ取る。


●技術とシステムの支援


 さらに上野は、こうした安楽死待望論が出てくる背景に、緩和医療の無知や遅れがあるのではないかとの認識も強調している。


 アメリカの麻酔専門医ヘンリー・ジェイ・プリスビローも、著書『意識と感覚のない世界』で、緩和医療への理解の偏在と遅れが、現代医療の最大の課題だと語っている。緩和医療の中軸である「疼痛管理」が徹底されていない。プリスビローは、疼痛管理が麻薬で行われていることへの畏怖が、医師にも患者にも社会にも根強いと言い、病院であっても麻薬の使用はなかなかハードルが高いエピソードを示しながら、疼痛管理における麻酔科医の地位の低さにその要因を求めている。


 生きていきたい人は、つらい疼痛があっても、治癒の見込みがなくても、その人の意思に任せて、麻薬依存となっても生きさせるのが進歩した医療だというコンセンサスは必要だろう。なお、プリスビローは、麻薬依存に陥らない痛みの緩和策のチャレンジがあることにも言及している。


 上野千鶴子は、在宅ひとり死を語るなかで、尊厳死と安楽死の否定を示した。上野のアンチテーゼは、孤独死をネガティブに受け取る社会への反論でもある。


 以前に紹介した『在宅ホスピスノート』で、徳永進は孤独死した在宅患者に関してこう記している。「人はひとりで死んでいける、と思った。(中略)『ひとりで死のう』という魂のようなものがあると、おのずとそのことは可能になっていく、と思った」。「孤独死」は決して不幸ではない。滑り坂に頼る必要もない。要は、緩和医療技術の適切な運用と、独りで死んでいく人とのコミュニケーションを塞がないシステムが肝心なのかもしれない。


「とにかく根気よく、穏やかに。言い方は悪いが、己の命をどう扱おうが、最終的には父の自由だ」(ジェーン・スー 雑誌「波」のエッセイ)。(幸)