●構造的には崩れていないパターナリズム


 前回は、医療における「聴く力」の重視がパターナリズムの否定と相まっていることを観ながらも、医療の現場でそれが混在している状況を示した。筆者の体験を通じて、現状でも若い医師であっても、臨床経験が浅いことと専門性の違いを混同し、どこか医師のパターナリズムに頼っている人がいる。


 一方で、臨床経験の長い医師ほど、患者に語らせることが診察の基本であり、それが正確な診断につながることを理解している状況がどうやら生まれているが、それでも一般的ではない。医師の「聴く力」は、まだ教科書にはなく、彼らの臨床経験から学んでいるらしい。


 つまり、臨床の現場はこの40年ほどの間に大きく変わったと言われ、私も前号までに記した経験から変化を感じ取ったひとりだ。その意味で「聴く力」は、確かに医療者にも患者にも認知されつつあるが、まだ熟成されてはいない。


 それでも端的に言えば、「家父長的」と訳されるパターナリズム医療はすっかり消えていく間際にある。「傾聴」の重視はその象徴であり、端的に革新が続いている具体的な物語である。


 今回は、筆者の読書、活字世界から描かれる、「聴く力」医師と患者のコミュニケーションの新しい流れを眺めてみる。


 ニューヨーク在住の内科医で、ニューヨーク大学医学部准教授のでもあるダニエル・オーフリの著書『患者の話は医師にどう聞こえるのか』は、「診察室のすれ違いを科学する」というサブタイトルが示すように、傾聴、あるいは良質のコミュニケーションが医療に与える高い品質の科学的エピソードを知ることができる。


 彼女は、プライマリーケアを担う総合診療医と思われるが、著書からは専門性は糖尿病のようだ。医師が患者の話をどう聞くかに加えて、患者が医師にどのような話をすべきかのヒントも示され、さらにそうしたコミュニケーションがいかに医療の質を上げていくかの科学的データの紹介も怠ってはいない。著者自らと、著者の取材で知り得た医師と患者のいくつかのストーリーが紡がれる物語性の強さも同書の価値を高め、患者側の読みやすさも確保されている。


 それもそのはずでオーフリは、医療機関で発行されている文芸誌の編集長という肩書もあり、作家という側面も持ち合わせる。同書も、神経ベーチェット病らしい難病を患う若い女性モーガン・アマンダ・フリッツレンと、彼女の治療を担う内科医ジュリエット・マヴロマティスの長い戦いともいえるコミュニケーションの動向を縦糸に、その他の患者と主に著者自身の出会いなどを横糸にした、緻密な構成での「作品」の香りが強く放たれている。


 一方で その意味で言えば、モーガン・アマンダとジュリエットの「長い対話」の物語や、著者を優秀な医師に育て上げたと思える患者との遭遇や、コミュニケーションのずれのエピソードの一つひとつはここで紹介することはできないが、治療の進捗の遅さや治療法への不信を投げ続けながら、主治医のジュリエットへの思いやりを示したいモーガン・アマンダの葛藤、死の寸前にいた患者をコミュニケーション不足から見逃しそうになった著者の経験、文字が読めない患者への気づきの遅さがもたらしたリスクの例など、それらの物語は医師の「聴く力」が、ことごとくいかに重要な示唆と最善の治療のツールになるかを指し示している。


 とくに、医師にも患者にも内在する「差別」がもたらす不幸感の存在の科学的な医療の質に対する影響分析など、たいへん刺激的なデータも盛られている。


●先に白状しておく


「聴く力」の涵養は、医師と患者の共感力の源泉となり、治療への強い効果を期待させる。それはプラセボではなく、確かに科学的なエビデンスのある「効能」だと言える。オーフリは、「ふるまいやコミュニケーションの取り方を改善することはもちろん重要だが、医療に従事するわれわれは、同様に心の持ちようを変える努力をする義務もあると思う」と述べつつ、「高いプロ意識を受け継いでいきたいと思うのであれば、少なくとも直感的な感情に自分の方から挑んでいく必要がある。最初のステップは、なにもかも潔く白状することだ」とパターナリズムに陥らないためのルーチンを示す。


「他者の立場に立つことは、共感の基本要素だ。そしてこれが、医療格差の解消を進めるために必要大事な要素のひとつなのかもしれない」と、すでに多くの進歩的な医療者に共通する認識を再確認しながらも、それが理解できれば済むのではなく、「(腫瘍内科医のがん患者への告知がうまく伝わっていなかった例に対して)言葉は平等の重みをもつようにはつくられていないことも意識させてもくれる。重大な診断や厳しい予後を示す言葉には感情的な重みが加わり、このため、十分に理解するのが特に困難になる。だからこそ、この『むずかしい会話』の領域で、医師を対象とした特殊な訓練が必要なのだ」と、「聴く力」「コミュニケーション能力」が医師教育の基本となっていることを厳しく伝える。すでに学ぶべき「技術」の領域に、これらのことが入っている。


 そのうえで、結論的に、「医師・患者間の会話を診察時の一方的な流れ作業としてではなく、医療の中でもっとも大切かつ置き換えのきかないツールとしてとらえるべきだ。医師・患者間の会話からひきだせる情報の量と判断、分析の深まり、治療法の選択、人と人とのつながりの深まり、などを考えれば、単なる会話は高度に洗練されたテクノロジーと呼ぶべきだろう」と語る。


 医師は患者が話していることに注意を集中すべきだ、患者の話のなかに医学的意味の、おおよそすべてが入っているとして、そのうえで、たぶん「それができない」医師に向けてだろう、「身についた習慣は一晩で矯正されることはないが、習慣の存在自体に気付くようになった」自身の経験を明らかにしている。


●患者・家族の苦しみは医師の比ではない


 イギリスの高名な脳外科医ヘンリー・マーシュの、『脳外科医マーシュの告白』では、自らが患者家族になった経験から、医師のコミュニケーション能力に触れている。同書の第8章「息子の水頭症手術から得た教訓」で、ほかの医師が息子の手術を執刀している間、「患者さんの家族がどのくらい辛い思いをしているのかを身を持って知った」と語る。その経験は、「自分の医学教育にとって非常に重要な部分を占めている」ことを吐露しながら、それを「自分の医学教育」と語っている。


 マーシュは、自らを客観視することが医師の素養の要件であり、それはすなわち患者・家族に寄り添うことであることを伝える。彼は、患者や家族の苦しみは医師の苦しみの比ではない、と必ず研修医に教えるという。


わたしたちはどんな医療が欲しいのか?』を著したドイツの緩和医療専門医ミヒャエル・デ・リッダーは、「患者さんにとっても、医師にとっても、人間性が失われていることこそが現代医療の苦難の本質です」と、一貫する硬骨な主張のなかで、パターナリズムの排除の必要を語っている。


 医療資源の濫用などに対する厳しい視線のなかで、パターナリズム排除を強調する展開は、その弊害がすでに現在の医療界の常識であること、著者も含めて現代医療に警鐘を鳴らす人々の多くが、この問題に立ち寄らざるを得ないという現状を明らかにしている。


 未だに、構造的には医療供給側にその弊害への認識が徹底しておらず、無意識下で実行され続けているからなのだろう。(幸)