「立花隆は歴史に呼ばれてこの世にやってきた」


 数日前、作家・保阪正康氏のそんな表現が、SNS上に数多く出回った。先だって訃報が流れた「知の巨人」ことジャーナリスト・立花隆氏について、サンデー毎日に保阪氏が持つ連載『「世代」の昭和史』は今週、その内容を追悼記事に切り替えて、文中に登場する言葉からそんなタイトルがつけられた。


 立花氏は保阪氏より一学年下でほぼ同世代。総合誌の黄金期1970年代からフリー記者としてそれぞれに活躍した。戦争体験者の証言発掘に注力した保阪氏と、政治から事件、サイエンスまで森羅万象を対象とした立花氏とではタイプは異なるし、早くから「雑誌報道の旗手」と評された立花氏に対しては、内心ライバル心を抱くこともあっただろう。


 だが、今回保阪氏は「現代日本にこれほどの知識人はいない。私は同年代の一人として、このような知識人が存在したことに誇りを持っている」と最大級の賛辞を贈っている。この連載で保阪氏は、戦争前後の指導者、文化人のなかから①1921~26年生まれ、②31・32年生まれ、③39・40年生まれ、④47~49年生まれの4世代を抽出し、それぞれの戦争体験から世代論を語っている。立花氏は保阪氏と同じ③の世代で、終戦後に小学校に入学した「戦後民主主義世代」に他ならない。保阪氏はそんな同世代のジャーナリストとして、立花氏の壮大なスケールに、同時代の人類史的問題を明らかにし、未来の方向性を示そうとする「世代的な責任」が見て取れるという。


 ちなみに「歴史に呼ばれた知識人」として保阪氏はもうひとり、戦前の農本主義者・橘孝三郎の名を挙げる。大正から昭和初期、水戸市郊外で「愛郷塾」という理想の農村づくりをした人物で、農村の窮乏への危機意識はやがて国家主義へと結びつき、孝三郎は塾生らと五・一五事件に参加する。そんな特異な右派思想家・活動家に戦後、2年ほど聞き取りをした結果、ファナティックなイメージのこの人物が実は、東西の思想哲学に精通した教養人であり、思慮深い理想主義者だった、と保阪氏は強調する。


 記事によれば、保阪氏は生前、接点の少なかった立花氏と一度だけ、歴史観・世界観を語り合う機会が何年か前にあったという。前述した人物評は、この対話時の印象も含まれているのだが、このとき、立花氏の側からも保阪氏との「奇縁」への思いが語られたらしい。記事文中に具体的な説明は出て来ないが、それはたぶん、保阪氏と橘孝三郎の関わりについてのことだっただろう。孝三郎と立花氏は、実は伯父・甥の間柄にあったのだ。国家主義的な思想家と「戦後民主主義の申し子」のジャーナリスト。まるで違うキャラクターに思えるが、保阪氏はイデオロギーを超えた尺度から、ふたりを同類の「知の巨人」と感じたのだ。


 今週は週刊文春も、予想通り、14ページもの立花氏の追悼特集を組み、週刊現代や週刊朝日もそれぞれに立花氏の死を悼んだ。それらを読み、ふと思ったのはその昔、立花氏らに田中金脈問題を書かせた元文藝春秋編集長・田中健五氏の言葉である。「右寄り」で有名な編集者だったのに、あのときは角栄の腐敗追及に取り組ませた。のちに彼はその理由を「正義感でなく好奇心から」と説明したという。


 田中健五氏のセリフは当時、左派リベラルの論者から「問題意識のないのぞき見趣味」と理解され、批判を浴びたものだったが、改めてこの角栄追及を含む立花氏の全仕事を俯瞰すると、その知的好奇心のスケールに圧倒される思いがする。左派であれ右派であれ「問題意識先行」の報道は、結論ありきのプロパガンダになりがちだ。いったい真相はどうなのか、本当のことを知りたい──。そんな素朴な探求心こそが、どんな取材でも原点にあるべきで、取材した内容次第では、結論は想定と真逆になることもある。本来はそんなスタンスの書き手にこそ、読者は信を置くべきなのだ。その意味で、立花氏は底知れぬ「好奇心の巨人」でもあった。そういった姿勢の後継者が見当たらないジャーナリズムの現状が哀しい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。