(1)『近世畸人伝』の円空


 円空(1632~1695)は、江戸時代初期の「修験僧」、「作仏聖」(さぶつひじり)である。日本では、古代からの修験道と仏教(とりわけ密教)の境界が緩やかで、修験者と仏教僧をミックスしたのが「修験僧」である。「作仏聖」とは、人々の救済・布教の手法として、説法・読経以外に、木や石で仏像を制作して救済・布教にあたる聖である。


 円空は、生涯に約12万体の木製仏像を彫った。単純計算で、[12万÷(30年×365日]≒11となり、1日平均11体彫った。その、木彫り仏像が、「素朴で素晴らしい」と評価されたのが、1960年前後である。その頃から、「円空ブーム」になったようだ。


 それ以前は、岐阜県などを除けば、全国的には『近世畸人伝』の知識しかなかったように思う。


『近世畸人伝』は1790年に出版された。伴蒿蹊(ばんこうけい、1733~1806)著、三熊花顚(みくまかてん、1730~1794)画で、約100人の伝記が収められている。共通項は、質素な人格者という感じです。そのなかで、私が知っているのは、中江藤樹、貝原益軒、僧鉄眼、僧円空、僧契沖、池大雅、戸田茂睡くらいで、無名の町人・農民・遊女が数多く取り上げられている。1798年には、『続近世畸人伝』が出版された。これも約100人が収録されている。


 次は、『近世畸人伝』の円空の記述を、わかりやすく、若干だけ現代風に直したものです。


 僧円空は、美濃国(岐阜県)「竹が鼻」(現在は羽島市)の出身です。幼いときに某寺で出家したが、23歳で寺を出て、富士山や加賀白山に籠って修行した。


 ある夜、白山権現が「美濃国の池尻弥勒寺(岐阜県関市)を再建せよ」とお告げをした。(円空は、お告げどおり)再建の成就をした。


(円空は)そこに留まることなく、飛騨国の袈裟山千光寺へ遊行した。そこの住職の「俊乗」は「無我の人」といわれ、円空と親しく交流した。円空が持っているものは、鉈(なた)一丁のみである。常に、この鉈で仏像を刻むことを業としていた。袈裟山において、立ったまま枯れている木を彫った仁王がある。今、これを見るに(プロの)仏師が作ったように見える。


 また、円空は(予知能力があり)、あらかじめ人が来ることがわかる。また、人相や家相を見て「久しく安泰だろう」とか「ほどなく衰退するだろう」と予言し、一度も間違ったことがなかった。


 あるとき、(円空は)飛騨高山の府、金森候の居城を指して、「この城には城気なし」と言ったところ、1~2年後に、金森候は出羽へ国替えとなり、その城は廃墟となった。


 また、「大丹生」(おほにふ)という池は、池の主が人を取るので、誰もひとりでは近寄らなかった。あるとき、円空が大丹生池を見て、「この池の水は怪しい。このままでは、国中に大災難が襲いかかる」と予言した。人々は円空の予知能力を知っているので、人々は驚き、「何としてでも、この災難を救いたまえ」と願った。円空は鉈で1000体の仏像を数日で作って、その池に沈めた。それ以後、何の災難もなく、池で行方不明になる者もいなくなった。


 円空は、この飛騨国の東へ遊行し、蝦夷(北海道)へ渡り、仏教の知らない地で布教活動をして仏教を広めた。そのため、その地の人は、円空のことを「今釈尊」と名づけて、その功績を敬った。


 その後、美濃の池尻へ帰り、死去した。美濃、飛騨では、円空を「窟(いわや)上人」と呼ばれるのは、洞窟に住んでいたからかもしれない。


「円空」の「本文」の後に、「追記」として「俊乗」の愚直エピソードが記載されていますが、省略します。

  

 あらかじめ言えば、かつては円空の「予知能力など超能力」に関心があったのかも知れませんが、1960年以降の円空ブームは、もっぱら、「木彫り仏像」です。


(2)生涯その1……作仏聖への道


 円空の生涯は、各地に残っている断片的文章を繋ぎ合わせたもので、今も、「新発見」があるようです。『近世畸人伝』では、飛騨国の袈裟山千光寺で俊乗と親密になって、その後、蝦夷へ渡ったことになっているが、事実は逆で、蝦夷へ渡ったのが、先である。

 

 1632年、美濃国竹が鼻(現・岐阜県羽島市)で誕生。


 1638年、7歳のとき、木曽川洪水で母が死亡。円空は、どうも私生児であったらしい。こうした境遇の子供は、お寺が引き取って小僧にすることがしばしばで、円空もその例であろう。円空の最初の寺が、どこなのか明確ではないが、おそらく、いくつかの寺や霊山を渡り歩きつつ、修験僧(修験道プラス仏教)の修行をしていたのだろう。寺のひとつは高田寺(北名古屋市)で、おそらく密教を学んだのだろう。霊山としては、『近世畸人伝』にもあるように、富士山や加賀白山で修行した。そして、神像・仏像を彫る「作仏聖」の道を歩み出した。


 1663年、32歳。美濃国の下田村(現・岐阜県郡上市)の神社神官・西神頭家の庇護を受けて、その地に2~3年滞在した。むろん、多くの神像・仏像を彫り、今も20~30体が残っている。


 そして円空の蝦夷への旅となる。


 1666年1月、津軽の弘前に滞在し、蝦夷へ渡る。約半年間、蝦夷の地で像を彫り続けた。宗教者にとって、未開の地での布教伝道は、「あこがれ」に近い心境なのだろう。断崖絶壁の巌窟に籠って像を彫った。あえて艱難辛苦の中に身を投じることは、修験道のオーソドックスな修行方法ではあるが、なんともスゴイことです。そして、蝦夷地に残した円空仏(円空が制作した神像・仏像を円空仏と総称する)はどうなったか。100年後に信仰の対象になったのだから、スゴイですねー。


 半年の蝦夷滞在後、津軽へ戻り、東北各地を巡ったようである。


 1669年、尾張(愛知県)の鉈薬師堂(なたやくしどう)に祀る諸像(十二神将など)を彫った。鉈薬師堂は、明の遺臣・張振甫(ちょうしんぽ、1629~1680)を祀るお堂で、名古屋市千種区覚王山にある。


 1671年、40歳。奈良の法隆寺で学ぶ。そして「法相中宗血脈」を承けた。要するに法相宗の正当な伝達者であると認められた。


 ここまでの円空は、間違いなく「スゴイ修験者、彫刻もスゴく上手」という評価になると思う。でも、その後が、「前衛芸術」というか、「上手なのか下手なのか、訳がわからないほどスゴイ」というレベルに到達する。40歳までの円空ならが、今日の円空ブームは発生しなかったと思う。


(3)生涯その2……簡素なる微笑みの円空仏


 40歳までの円空仏は、常識的な彫刻です。しかし、その後、大変化する。私が理解するところでは、


 第1に、写実派から印象派への脱皮である。子供が人間を描くと、頭(顔)がとても大きく、首から下は極めて小さい。子供にとっては、頭(顔)を大きく意識する、つまり印象が強いのである。だから、子供の絵は、ほとんど印象派である。円空仏の特徴は「微笑み」である。円空は「微笑み」に最高の印象を持ったことは確かであろう。


 第2に、簡素化である。重要な部分だけ、手間暇かけずに、「サラリと彫る」ということである。手間暇がかからないから、大量生産が可能となる。


 第3は、第1・第2への大変化への「宗教観の変化」である。宗教観変化の1つ目は、『法華経』の「提婆達多品第十二」に語られている女人(龍女)成仏への深い感動である。多くの仏典は、女性は悟りの邪魔者、女性は成仏できない、というようなことが書かれてあるが、提婆達多品には明確に女人成仏が保証されている。


 円空は母子家庭で育ち、7歳で母を亡くした。母への思慕が極めて強く、40歳前半、提婆達多品、すなわち母の成仏を確信したのだろう。円空仏の「微笑み」は、母の微笑みの記憶が仏の微笑みに昇華したのではなかろうか……。


 宗教観変化の2つ目は、修験道は人里離れた深山幽谷での苦行・荒行で、自分の超能力を開花させ、その超能力で庶民を救済する、というものである。円空の蝦夷の日々は、まさに、その実践で、断崖絶壁の巌窟で神仏像を彫り、100年後の庶民を救済しようとするものであった。しかし、40歳からの円空は、人里に密着し、大量生産の円空仏をどんどん庶民に渡し、眼前の庶民の救済をはかった。法然や親鸞は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、成仏できるとした。同じように、円空は簡素な円空仏を祀るだけ、円空仏に合掌するだけで、成仏できると確信したのである。ただし、修験道の苦行・荒行を放棄したわけではない。


 さて、略歴に移ります。


 1674年、43歳、伊勢志摩の片田に伝わる『大般若経』を修復する。修復の過程で、一言一句、経文を玩味したことだろう。そして、『大般若経』だけでなく、『法華経』も合わせて玩味したに違いない。というのは、『大般若経』の「見返し」部分に184枚の絵を描いたのであるが、どうやら、『法華経』提婆達多品の女人(龍女)成仏の物語らしいのだ。しかも、その絵は、漫画というと叱られるが、極めて簡素化された絵である。「絵は簡素化できる、ならば彫刻も簡素化できるかも」という発想が生まれたのだろう。そんなことから、この時期前後に、円空の大変化が進行したと推測される。

 

 円空の足取りで判明している所を列記します。寺院に円空仏が存在しているから、円空が立ち寄ったことがわかります。


 1672年、41歳。岐阜県郡上市の長滝寺、郡上市の八坂神社。


 1673年、42歳。奈良県天川村の栃尾観音堂。ここで円空が創造した神仏である「護法神」を彫る。


 1674年、43歳。前述のように伊勢志摩の片田で、『大般若経』を修復する。


 1676年、45歳。名古屋市守山区の龍泉寺、名古屋市中川区の荒子観音寺、愛知県津島市の地蔵堂、愛知県江南市の音楽寺。


 1679年、48歳。この年の6月15日、郡上市の千多羅滝(ちたらのたき)で滝に打たれていると、白山神の信託が降りた。神託は「これ廟あり、即ち世尊」である。翻訳すると「千多羅滝は(世尊の)廟(びょう、住家)である。千多羅滝は世尊である」ということである。ということは、それがわかる円空は釈迦の国の住人となったのだ。つまり、円空は「自分は仏になった」と確信したのだ。


 同年7月5日、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)で「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を受ける。


 同年、岐阜県羽島市(生まれ故郷)中町の観音堂建設。『近世畸人伝』では、白山権現のお告げで弥勒寺を再建したことになっている。弥勒寺は白鳳時代に建立された巨大な寺院で、すでに廃寺になって久しい。おそらく、千多羅滝での信託、それに権威ある園城寺のお墨付き、そのことによって円空は「何でも可能なスーパーマン」的気分になったのだろう。


 本当は立派な伽藍がある往時の巨大な寺院を建設したかったが、「お堂」を中心とする小規模な「お寺」に終わった。巨大寺院の建設には、莫大な資金、膨大なボランティア、しかるべき組織を必要とするが、円空にはそうした才能がなかったため、不本意ながら小規模になったのではなかろうか……。円空が再建した弥勒寺は大正時代に消失した。


 その後、関東を旅する。日光市の清滝寺、さいたま市の薬王寺。


 1682~1683年頃、51~52歳。生まれ故郷(岐阜県羽島市)へ戻る。


 1685年、54歳。岐阜県高山市の千光寺。『近世畸人伝』にエピソードが記載されている。ここに残した、両面宿儺(りょうめん・すくな)の像は若干有名のようだ。両面宿儺は、『日本書紀』(仁徳天皇65年)では頭2つ、手足が4本ずつの悪鬼となっているが、地元では英雄であったようだ。


 1688年、57歳。滋賀県米原市の太平寺。


 1690年、59歳。岐阜県高山市上宝町の桂峰寺。ここの十一面観音像の背面に「10万体造顕達成」と記されている。


 1691年、60歳。岐阜県下呂市の各地。下呂市には円空が住家とした巌窟がある。


 1692年、61歳。岐阜県関市洞戸の高賀神社の観音堂で、雨乞い祈願をし降雨成功。また、ここの観音堂での円空仏制作が最後の作像となる。


 1695年7月15日、64歳。関市池尻の長良川畔で、「即身仏」となる。食・水を絶ち、自らミイラ化したのだ。修験道では、「即身仏=ミイラ化」すれば、58億7000万年後の弥勒菩薩出現時に再生するという「入定」が、強烈に存在していたのだ。むろん、本来の真言密教教義には、存在しない「入定」ですが、「空海入定伝説」もあり、皆、信じていた。


 最後に、円空を知るには円空仏の現物なり写真を見るべきです。人気の写真集が幾種類もあり、「ホー」となります。現物を見ると、「何だ、こりゃ、へたくそ」と思う人もいます。芸術は難しい!


 なお、円空は、多くの和歌、約1600首を残しました。ただし、大半は古今和歌集のアレンジです。アレンジ和歌から、円空の思想を探ることも、可能かもしれないが、とても大変な気がしたので、止めました。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。