治水の復習
日本における治水の歴史は、明治時代に180度転換してしまった。
まず、自然の見方が決定的に違う。明治以後の治水技術者たちは、近代科学の発達、とくにコンクリートの発明によって、「流水を河川内に完全に封じ込めることができる」「決壊がない完璧な堤防建設が可能」と信じ込んでしまった。いわば、近代科学は自然力に勝利したと錯覚したのである。したがって、氾濫はあり得ないから、氾濫を前提とした対策は無視。ひたすら高い厚いコンクリート堤防を万里の長城のように延々と建設した。
明治以前の治水の常識は、「川は氾濫するもの」「堤防ちは壊れるもの」「暴流によって橋は流されるもの」である。つまり、氾濫が前提であり、「氾濫あれども被害なし」を目的とした。
第二の相違は、堤防を築く場合、河川のどの水位を基準にするか、である。
明治以後は水を完全に河川に封じ込めるため、流量が最も多い高水位(水位が一番高い)を基準とし、それよりも高い堤防を両側に建設することに腐心した。
明治以前は、舟運の利用の観点から低水位を基準とした。水位が頻繁に上下したのでは船の運航や船着き場での荷物の搬入搬出に支障を来す。舟運のためには河川の水位を一定に保つ必要がある。一定に保つためには、流量の少ないとき、すなわち低水位を基準として、余分な水量は「上手に氾濫」させることに主眼をおいた。
このように明治時代に180度転換された治水方法は、この100年、流水を河川内に完全に封じ込めることに成功したか。
昔に比べて格段に洪水の頻度は減少したが、周知のとおり、毎年、どこかで、大雨・台風によって大きな被害が発生している。あっさり言えば、流水を河川内に100%封じ込める作戦は不可能だったのだ。建設省も約20〜30年に気がつき、「総合治水対策」「超過洪水対策」を策定し、事実上の近代治水の敗北宣言をした。
繰り返すが、恐ろしいことに、「100%封じ込める作戦は不可能」と結論づけたのである。具体的に言うと、たとえば利根川の大氾濫は大いに可能性がある、ということだ。昭和22年のカスリーン台風では東京・埼玉の江戸川右岸は完全に水没したが、同程度の雨量をもたらす台風が到来すると利根川は必ず氾濫するのである。
どういうことか、というと……
カスリーン台風のときは栗橋という特定地点における最大流量は毎秒1万7000立方メートルであった。ところが、上流地域の開発(森林・田の減少、アスファルト舗装の普及)によって、自然の貯水能力・地下浸透性が低下し、カスリーン台風と同じ雨量の場合、栗橋における最大流量は現在では2万7000立方メートル以上になると計算されている。ところが、現状の利根川は、その水量にまるで対応できないから、水は溢れる。東京大地震発生よりも利根川大氾濫の可能性のほうが、はるかに高いのである。
近代治水技術だけでは、どうにもならないので、「近代以前の治水法の工夫と知恵を現代に生かす」考え方が必要になってきたのである。それが、「総合治水対策」「超過洪水対策」である。
近代以前「江戸時代」の治水法には、甲州流、関東流、上方流、紀州流の各種流儀があったが、甲州流は大河と急流に対処する方式で、最も重要視されていた。そして、この甲州流治水法の元祖こそは、「風林火山」の旗を掲げた戦国の英雄・武田信玄(1521〜1573)であった。
武田軍はさほど強くなかった
武田軍団は戦国最強と言われた。その秘密は何か。
信玄の天才的戦略・戦術、軍師・山本勘助の才覚、「歩き巫女」に扮して諸国の情報を集めた武田くノ一忍軍、旺盛な金山開発、「棒道」と呼ばれた軍用道路、現代では「信玄の隠し湯」と称される野戦病院、あるいは、優秀な血統の馬がいたのかもしれない。それらも、確かに武田軍団の強さの秘密であろう。
しかし、信玄の軍団は初期においては、かろうじて諏訪、伊那の制圧に成功したものの北信侵略では、天文17年(1548)の上田原の大敗、天文19年(1550)の戸石城の大敗と続く。つまり、そんなに強いわけではなかった。
武田軍団が大合戦に連勝し、天下から注目され、自らも天下を視野に入れるようになったのは、永禄3年(1560)、信玄40歳のとき、今日では「信玄堤」と呼ばれる、実に19年の歳月を要した大治水工事が成功してからである。これによって、甲府盆地の生産量は2倍どころか一気に数倍に跳ね上がったに違いない。その結果、武田軍団は一気に強大になったのだ。
ちなみに、翌永禄4年(1561)は、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちがあった、日本合戦史上超有名な第4次川中島の合戦(武田軍2万人、上杉軍1万7000人)である。信玄が1万人以上の軍団を揃えた最初の合戦でもあった。
竜王町 の信玄堤
『孫子』から学んだか
それでは、武田軍を一気に強大化させた「信玄堤」とは。
甲州盆地は釜無川が西北部より、笛吹川が東北より流れ込み、盆地の南西部で合流し富士川となる。釜無川も笛吹川も氾濫常習の暴れ川で、甲府盆地は、毎年のように「雨降候て、言語道断餓死到候」、「人民死事限り無し」という状態であった。甲州は慢性的飢饉状態であるから、信濃を侵略する必要があったとも言える。
今日、「信玄堤」と呼ばれているものは、笛吹川の万力堤、近津堤、釜無川の竜王堤など数ヵ所ある。それらのなかで、最大規模の工事が竜王堤である。
最も甚大な被害をもたらし、かつ頻繁に氾濫を繰り返す場所は、釜無川と御勅使(みだい)川(釜無川の支流)の合流地帯(現在の竜王町)であった。御勅使川は漢字で書くと、なんとなく貴族的なのだが、そもそもは「みだれ川」「みだし川」の意味だったらしい。
信玄はここの治水に心血を注いだ。
まず、御勅使川を将棋頭(しょうぎがしら)という石堤で分流し、新川に大半の水が流れるようにする。新川と釜無川の合流点には天然の竜王高岩という巨大な岩山があり、新川の激流が激突しても崩れることはない。そして、合流点には16個の巨大岩石を配置した。
つまり、釜無川と新川の水勢は、直角にぶつかることによって勢いが相殺される。同時に16石と竜王高岩にぶつかることによって、さらに水勢が減じる。竜王高岩に激突した水流は反転して対岸の堤を強襲することになるのだが、16石と再びぶつかり水勢を減じる。それでも、激流は対岸に向かうが、そこには堤がなく旧川である。ここでも水勢は相殺されていく。
次に、竜王高岩の下流付近からの堤防は、いわゆる「霞堤」(かすみてい)の構造となっている。「霞堤」と言っても、全国にはいくつかの構造があったようだが、いずれも雁行状に重複断続的に建設されることに特徴がある。
信玄の建設したものは直線の本堤防に沿って、雁行状に短い堤防を30数ヵ所にわたって取り付けたものである。流水が突き出した霞堤にぶつかり水勢を減少させる。第1の霞堤が破壊されても第2、第3……の霞堤が水勢を弱める。その結果、本堤防は決壊しない。
さらに、水量が爆発的に多い場合は、本堤防の外に設けた遊水地へ自動的に流れ込む。
また、本堤防の内外は竹や柳で根固めされ、それは、水勢を減少させる防水林の機能も果たした。
なお、竜王の霞堤は江戸時代の文化文政の頃には、信玄の頃よりはずいぶんと長くなっている。その代わり、30数ヵ所の霞堤が5ヵ所となっている。竜王の信玄堤は、徐々に変化していったことがわかる。
それはさておき、こうしてみると、信玄が成功した治水の原理は、「水と水を闘わせる」「水と岩を闘わせる」「水と林を闘わせる」「余分な水とは闘わず、一時的に遊水地へ」という組み合わせである。近代科学のように力で自然を捻じ伏せる発想ではなく、自然の力を徹底的に熟知することによって、あくまでも自然の力を利用するというスタンスと言えよう。
こうした治水の知恵を、信玄はどこから学んだのか。
氾濫洪水に悩んだ農民技術者の生活の知恵という説、あるいは遣明使として明に2回も渡った策彦(さくげん)禅師より学んだという説、信玄の座右の書『孫子』から学び取ったとする説、いろいろあるが、いずれにしても極めて困難な大治水工事であった。
工事は天文10年(1541)に父・信虎を駿河今川家へ追放し家督を継承した直後から始まったらしい。むろん、最初から完璧な設計図があったわけではなく、試行錯誤の連続であったに違いない。甲州を取り囲む戦国武将たちは、信玄は大規模治水工事に失敗し自滅するだろうと予想していた。だから、信玄の命運は合戦よりも治水工事の帰趨にかかっていた。信玄は見事に治水に成功して、戦国最強の軍団を作り得たのである。
それにしても、明治以降、全国各地の数々の霞堤はことごとく消滅した。霞堤だけでなく、氾濫・洪水を防ぐ各種さまざまな面白い仕掛けが消滅した。近代以前の治水の工夫と知恵が理解できる博物館のようなものが建設されればなぁ……と思ったりもする。時代は確実に自然重視に向かっているのであるが……。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。